きみはぼくの小鳥
わたしはあなたの宿り木 ユーリ視点。
村のそばの深い森には、美しい鳥がいる。
鮮やかな緑を基調とする肩羽に、黄色、白、赤、三色の尾羽が長く流れている。腹は純白で、ふっくらとしている。雄は雌より体が大きく、くちばしが黄色い。雌のくちばしは赤みがかった黄色で、それが雌雄を見分ける手がかりになる。
この鳥は番いになると、生涯離れない。
雄はせっせと巣を整え、番いを迎えると、その唯一の雌に生涯を尽くす。雌は悠然と卵を産み落とし、温める。雛が返れば、番いと雛の食事の世話を買って出て、懸命に餌を運ぶ。
この地方では見慣れた光景だ。それを見て、リオンが呟いた。
「あーあ、ああやって男は女に搾取されるんだな」
リオンは俺の兄だ。俺は思わず苦笑した。村で年に一度行われる祭りが気鬱なのだろう。
リオンの嘆きは、二年前の失恋に起因している。尽くした女が別の男を選んだからだ。それ以来、彼は女性不信に陥っており、きれいでかわいい女の子たちから差し出されるリースには目もくれない。
「お前は女に騙されるなよ」
「騙されないよ」
なにより、騙される予定がない。俺は相手を既に決めていた。
「どうだか」
そう言って、リオンは笑った。
フェイエが祭りで贈り物を受け取れるようになるまで、あと1年。
初めての贈り物は、何にしようか。
髪飾りがいいだろうか。
金鎖の首飾りがいいだろうか。
それとも、貝殻で作られた化粧箱がいいだろうか。
海を見たことがないフェイエは、きっと喜ぶだろう。もし海を見たいと言えば、一緒に旅をしよう。
贈り物をフェイエが受け取ってくれたなら、すぐ結婚の許しをもらおう。
あの鳥のように、彼女に尽くす正当な権利を、はやく手に入れたい。
そうして、屈託なく笑い合い触れ合うのだ。幸せだったあの頃のように。
『この宿り木の下にいる女の子には、キスしなくちゃいけないの』
何の疑問もなく、フェイエに口づける。
それが当然のことであるかのように。
フェイエは嬉しそうに笑った。
フェイエのこんな笑顔は、きっとリオンと俺しか知らない。
内気で人見知りだが、慣れた人間には全力で甘え、我が侭を言う。3人一緒に遊んでいるときに他の子どもたちが混ざると、フェイエは緊張し固まる。それはフェイエが気を許しているのは俺たち兄弟だけという証拠だった。
それが嬉しくてたまらない。
ある日、リオンが珍しく真面目な顔をして言った。
「ユーリ、フェイエがキスをねだってもするな。あの子はまだ子どもで、何もわかっていない」
わかっていないのはお前のほうだ、とは言い返さなかった。フェイエのキスは俺に幸福感をもたらしてくれるけれど、さすがにその意味を理解し始めていた。宿り木の下でキスを交わすには、俺もフェイエもまだ子どもすぎたのだ。
それから、フェイエがキスをせがめば、飴を小さな口に含ませた。
たくさんキスをして、抱きしめたい。
だが、それが許されるのは、今ではない。
一緒にいたいという気持ちは、いつしか衝動が伴うようになった。
それが成長したことによる体と気持ちの変化だということも、リオンから教わった。その衝動は、決して穏やかなものではない。狂おしい渇望を抱えているのだと自覚した俺は、フェイエから距離を取るようになった。
身の内に潜む熱情は、いつかフェイエを傷つけるだろう。
その熱となんとか穏便に付き合い、折り合って行くしかない。
さり気ない拒絶に、最初フェイエは驚き、傷ついた顔を見せた。拒絶を繰り返すうちに、フェイエはやがて諦め、何も言わなくなった。
だが、その距離はいつでも緊張感を持って保たれている。
はやくその距離を無くしてしまいたい。
いつだって、こころは彼女のそばにあるのに。
フェイエが14歳を迎えた春のことだった。
絶望は突然訪れた。
なんの前触れもなく、なんの予感もないまま。
村に高位の神官が訪れ、フェイエを連れ去ったのだ。
所用で村を出ていた俺は、彼女が村から出て行ったことを知らなかった。家に帰ると、慌てて出て来たリオンが言った。
「ユーリ! 都の神官が訪ねて来て、フェイエを連れて行った!」
リオンの言葉が理解できず、俺は荷物を下ろしながらただ瞬いた。わかっていない様子だった俺に、リオンは更にまくしたてる。
「神殿に巫女がいるのは知っているな? その巫女が位を降りた。神官が来て、次の巫女はフェイエだと言って攫っちまったんだよ!」
すうっと、血の気が引くのがわかった。
指先が冷たくなり、顔が強ばってゆく。
そのまま身を翻し、フェイエの家へ駆けた。フェイエの母親は泣いていた。
その泣き顔がフェイエと良く似ていて、胸が締め付けられる。
リオンの言葉は、嘘ではなかった。そんなわかりきったことを、フェイエの母親に尋ねずにはいられない。
「フェイエは……フェイエはどこですか?」
彼女は首を横に振った。
「いないわ、ユーリ。フェイエは、巫女になるんですって。神殿で、暮らすんですって……」
——どうして。
——どうして。
まだ、贈り物を贈っていない。
まだ、きみの笑顔を見ていない。
まだ、宿り木の下でキスをしていない。
まだ、抱きしめていない。
まだ、愛していると伝えていない。
呆然としたままの俺を、リオンが迎えに来た。
引きずられるように去る俺を、フェイエの母親が悲しそうに見つめていた。
喪失は奥深い。
あとほんの一年、神殿がフェイエに気づかなければ、一緒にいられた。
仲むつまじい、あの鳥たちのように。
フェイエが村を去って、3年の月日が経った。
俺は21歳になった。そして、また祭りの季節がやってくる。
机の引き出しには、渡されることのない贈り物が眠っている。
フェイエが15歳を迎えた年には、鼈甲の髪飾りを。
16歳を迎えた年には、高価で繊細なベールを。
17歳を迎えた年には、陶器のカップを。
18歳を迎えたフェイエは、どんなに可憐だっただろう。
未練は強く、毎年贈り物を用意するのをやめられない。
引き出しにしまわれているのは、自分の心。
年にたった一度、その引き出しを開け、用意した贈り物をしまう。
思い出さないように。
考えないように。
この気持ちを、引き出しに閉じ込めてしまえるように。
想いは募るのに、やり場の無い悲しみ。
悲しみと孤独に背中を押され、その年に初めて女性を知った。
女性の温かさはほんのひととき気を紛らわせてくれるが、後からひどい後悔が押し寄せる。
——この腕の中にいるのが、フェイエだったら。
叶わない願いは身を焦がし続ける。
ある日、あの鳥を見かけた。
彼らの習性に忠実に、番いで仲睦まじく飛び回る。
ふと、こころに影が射した。
雄が餌を探しにいっている間に、雌を捕まえ、鳥籠に入れる。雌は悲しげに甲高く鳴いた。番いを恋しがるその鳴き声が癇に障る。
なぜ、俺だけがこんなに長く苦しまなければならない?
フェイエはきっと、もう自分のことを忘れている。
気持ちも告げず、冷たくなった幼馴染みに構うことなど、もうありえない。
それだけの年月はとっくに過ぎた。
誰か想う相手もいるのかもしれない。
忘れよう。
忘れたい。
どうか、忘れさせてくれ。
騒ぐ鳥をそのままに、疲れで眠りに落ちる。
朝、籠の中の鳥は冷たくなっていた。
窓を見ると、血の跡がある。
まさか、と思い外に出ると、雄の鳥が血まみれで倒れていた。
番いを助けるため、窓にぶつかったのだろう。
おそらく、何度も何度も。
「すまない……」
こんなことを、したかったわけじゃない。
こんなことを、すべきではなかった。
一緒にいられる彼らが、羨ましかった。
ほんの少し、自分の気持ちが誰かにわかってもらえればよかっただけなのに。
「酷いことを……本当に、すまない……」
二羽の鳥を、丁重に埋葬した。
自分の八つ当たりで奪ってしまった命。彼らにはなんの罪もなかった。
だが、わかったこともあった。
フェイエへの気持ちは、どう足掻いたってなくならない。
それならば、待ち続けるしか無い。
フェイエといつか会える日を。
もしくは、熱情がいつか薄れる日を。
やがて、引き出しにしまった贈り物は、10個になった。
今日は、村の会合で呼び出されている。男手のいる作業でもあるのだろうと気楽に参加したが、心臓を止めるような情報を村長が言った。
「10年前、巫女として神殿に召し上げられたフェイエがもうすぐお役目を終えるらしい。フェイエは村に帰ってきたがっているという知らせがあった。村で受け入れれば、目の飛び出るような支度金も貰えるそうだ。住まいは……」
——フェイエが、帰ってくる。
もう、何も聞こえない。
いつ会合が終わったかもわからない。
我に返ったのは、リオンが肩を叩いたからだ。
「リオン、フェイエを迎えにいく。あとを頼む」
「おい、ユーリ、落ち着け。ちょっと待て!」
リオンの制止を振り切り、村長にフェイエがいる場所を尋ねた。だが、村長は知らないと言う。仕方が無いので、神殿の使者を訪ねることにして、はやる心を抑えて村を飛び出した。
なんとか神殿の使者のもとへたどり着き、フェイエがいた場所に着いたときには、既にフェイエは去った後だった。あまりの間の悪さに神と自分へ呪いの言葉を吐き続ける。
往路は夢中だったので気づかなかったが、村への帰り道、あることに気がついた。
フェイエは、自分と会ってくれるだろうか。
一応幼馴染みだから、会ってはくれるだろう。
だが、喜んでくれるだろうか。
無邪気に再会を喜び合うにしては、俺は感情を拗らせすぎていた。
こんな執着染みた愛情は、フェイエを怯えさせるだけではないのか。
もしフェイエが、自分以外の男を既に選んでいたら?
想像したくもない。
俺は相手を殺してしまう自信がある。
いきおい、村への足取りは重くなった。
だが、フェイエが村に帰るというのに、会わないという選択はなかった。
こころを落ち着けるため、あの宿り木がある場所に寄った。
森の奥深く、祭りのとき以外はめったに人は立ち入らない。
だが、先客がいた。
「フェイエ……?」
華奢な人影に長い髪から、その人物が女であることがわかる。
ただ、願望を口にした。
そうであってほしいと。
人影は振り返った。記憶の中のあどけない顔より、随分と大人びた女性がいた。
「……ユーリ?」
「……迎えに行ったんだ」
フェイエに聞かせるような話じゃない。
ただ、おかえりと言いたいだけなのに。フェイエの表情が戸惑いに揺れる。
「え……?」
「神殿まで。迎えに行った。おまえが帰ってくると知って。でももういなかった。だから急いで帰ってきた」
「ユーリ……」
「あと一年、あと一年神殿の迎えがくるのが遅ければ、ずっと一緒にいられた。自分の力ではどうにもならなかった……」
そんなことを言いたいんじゃない。
伝えたいのは、たったひとつの想いだけなのに。
「……会いたかった」
フェイエの手には、宿り木で作ったリースがある。
フェイエの顔が、幼い日と同じようにくしゃりと歪んだ。
子どものように泣いている。怖がらせないように、フェイエの体をそっと抱きしめた。細い腕が首に回り、フェイエに包まれていることを知る。
抱きしめたフェイエの体温が、冷えきった心を溶かしてゆく。
長く苦しい旅が、ようやく終わりを迎えたのだ。
『この宿り木の下にいる女の子には、キスしなくちゃいけないの』
幼い日の、おまえの願いを。
——その願いを果たせることの、喜びを。