北の国へ5
ディリーアの部屋に戻ったクロフは、寝台に近寄り、その枕元に立った。
ディリーアの顔は高熱のため赤く火照り、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
炉の炎が赤い光を投げかけ、暗闇を照らし出す。
クロフは王妃の言葉を思い出していた。
――あなたの力を借りたいの。
クロフは両手で顔を覆う。
それは神殿でクロフに向けて何度となくささやかれてきた言葉だった。
しかしクロフには火の神の生まれ変わりとしての自覚も、その力の扱い方も何一つわかっていなかった。
ただ何もわからず、周囲に言われるままに力を振るい、過ごしてきた毎日。
神殿にいた頃はそれで良かった。
人々にこわれるままに行動し、力を振るっていれば、問題はすべて解決した。
それがいつの頃からか、クロフの心にぬぐいようのない不安を抱くようになった。
一度抱え込んだ暗い気持ちは、クロフの心をむしばみ、その考えを鈍らせた。
クロフは人々の期待に応えるのが苦痛になった。
人々の声に耳を傾け、村々を巡り、英雄の武勇を語り継ぐのは、その神殿では下級神官の仕事だった。
火の神の生まれ変わりとして、将来を嘱望されたクロフのする仕事ではとてもなかった。
しかしクロフは周囲の反対をよそに、吟遊詩人として旅に出た。
太陽の女神の神託に従い、旅先でディリーアと出会い、彼女を助けたことを、クロフは正しいと考えていた。
しかしこの先のことを考えると、クロフの心は暗い気持ちに苛まれた。
――ぼくはこれからどうすればいい?
クロフはディリーアの顔を覗き込む。
額に手を当て、その布がぬるくなっているのに気付き取り替えた。
床に置いてある水桶の水にさらし、額の上に戻す。
炉の中の薪がばちりとはぜ、暗がりの部屋に小さな音を木霊させる。
クロフはゆらゆらと照らし出される足元の影を見下ろし、重いまぶたをとじた。
闇はすぐに落ちてきた。
目が覚めたのは翌朝のことだった。
朝の眩しい光に目を細め、クロフは突っ伏した寝台から顔を上げる。
「重い」
不機嫌な声に、クロフの頭は冷水を浴びせられたかのようにはっきりした。
「ご、ごめん」
クロフは慌てて寝台から起きあがり、勢い余って椅子から後ろに転げ落ちた。
ディリーアは顔だけをこちらに向け、口元に笑みを作る。
「わたしの上に、大きな山猫でも乗っているかと思ったぞ」
ディリーアはゆっくりと上半身を起こし、軽く頭を振った。
クロフは尻餅を付いたまま口ごもった。
「いや、あれは、その」
「冗談だ。気にするな」
ディリーアは軽やかに笑う。
昨晩よりも幾分顔色が良くなったのを見て、クロフは安堵した。
ディリーアは見慣れない部屋を見回し、首を傾げた。
「ここは北の国か? どうやら、また何らかの騒動に巻き込まれているようだな」
クロフはとっさに言葉に詰まった。
クロフの驚いた顔を見て、ディリーアは目を丸くする。
「何だ? 本当に図星なのか? 冗談のつもりだったのだが」
部屋に気まずい沈黙が流れる。
炉にはわずかな火種がちらちらと燃えているだけだった。
先に口を開いたのはディリーアの方だった。
「まあ、仕方ないな。こういうこともあるだろう。よかったら、事情を話してくれないか?」
クロフが城に到着してからのは出来事を話すと、ディリーアの顔が途端に厳しくなった。
ディリーアはしきりに頭を振り、不機嫌そうにこめかみを押さえる。
「わたしの眠っている間に、あまり面白くないことが起きていたようだな」
ディリーアのつぶやきに、クロフは小さくうなずく。
「だから、しばらくは王妃へのはっきりした答えを先延ばしにして、王妃の真意を探ろうと思うんだ」
クロフは立ち上がり、炉に薪をくべ、炎を起こす。
「それで?」
クロフが振り返ると、不機嫌そうな青い瞳がこちらを見つめている。
「それで、お前はどうするつもりだ? まさか王妃に直接理由を問い正すつもりじゃないだろうな?」
炎に薪をくべながら、クロフはつぶやく。
「まあ、最終的にはそうなるだろうと思うけど」
ディリーアはかん高い声で叫ぶ。
「それは駄目だ! 絶対に駄目だ! 二度と王妃の部屋に近づくな!」
ものすごい剣幕でまくし立てるディリーアに、クロフは呆気にとられる。
「それは、またどうして?」
クロフの問いに、ディリーアは顔を赤くする。
「そ、それは、その。もし王妃に迫られでもしたら、ま、まずいだろ?」
ディリーアは恥ずかしそうにうつむく。
クロフはそんなディリーアを見て、目を丸くする。
「だ、だから、王妃は若くて美人なんだろう? 部屋に行って、迫られでもしたら、お前は拒否できるのか?」
ディリーアは肩で息をしながら、青い目でクロフをにらみつける。
これ以上話す事は何もないというように、さっさと寝台に潜り込んだ。
「まったく、兄妹げんかは良くないよ。あんまり興奮すると娘っこの熱がぶり返すよ?」
部屋の戸口には薬草籠を持った老婆が立っている。
老婆は寝台に近付き、枕元に籠を置いた。
寝台に手を伸ばし、娘の細い腕をつかみ、脈を測る。
「けんかできるくらいの元気があれば、大丈夫だね。しかし一晩で治しちまうなんて、わしの薬がよっぽど良かったんだねえ。これなら、後二、三日休んでいれば、すっかり良くなるよ」
老婆は満足そうに何度もうなずいた。
「そうそう、王が今夜の宴の席で、詩を披露して欲しいとおっしゃっていたよ。王もあれで気が長い方じゃないんでね、早く部屋の方にいった方がいいよ」
クロフは老婆に頭を下げ、竪琴を肩にかけ、慌てて廊下へ向かう。
「あの、妹をどうかお願いします」
クロフは老婆にディリーアを頼み、部屋を出て行った。