月華蘭
レイが目覚めたという知らせを受け、様子を見に来たのは花音という女性の狐人だった。優し気な面差しで、おっとりとした雰囲気の若い女だ。柔らかそうな栗色の髪に薄茶色の耳尾。和服でもわかる豊かな胸元に、紫紺の勾玉のついた首飾りが揺れている。
「お食事をお持ちしましょうか? レイさん、三日も寝てたんだもの。おなかが空いているでしょう?」
三日、と言った花音の言葉にレイは驚く。と同時に、空腹だったことを思い出した。
レイは食事を用意してくれるという花音の言葉に甘えることにした。
花音と蘭花は食事の支度のために席を外す。
簾の向こうから虫の鳴く声がする。外はすでに夜の闇に包まれている。簾越しに冷えた空気が吹き込んできたのを感じて、万象が戸を閉めた。
レイの横では行灯の柔らかな橙色の光が揺らめいている。
レイはそれをぼんやりと見ていた。
「三日も寝てたのか……」
ボソリと呟いたレイに、万象が答える。
「うむ、一時は危険な状態だった。まあ、蒼の断崖に飛び込んで生きてる方が不思議だな。おまえは運がいい」
「そうか? 死んだ方がよかったかもしれないぞ?」
自嘲気味に笑ったレイに、万象は目を細めた。
「……ずいぶん自虐的だな。そういうことは蘭花には言うなよ。瀕死のおまえを懸命に生かしたのはあの子だ」
「……ああ。すまん」
「そう思うなら早く傷を治せ。蘭花のためにもな」
そう言って、万象はフッと笑った。
軽いノックのあと障子戸が開いて、花音が入ってくる。
「レイさん、これなら食べられるかしら?」
花音が手にした盆の上には、湯気を立てる雑炊。ふわりといい匂いがした。
礼を言い、レイが身体を起こそうとすると、花音はレイの前に座った。
「食べさせてあげますよ」
にっこり笑った花音が赤子にするように木の匙を持ち、にこやかに「はい、あーん」とレイに向けてくる。レイは少し赤くなって手で制した。
「いや、起きる」
レイは自力で身体を起こそうとするが、直後に襲ってきた脇腹の痛みに顔を顰めて動きを止める。
見かねた万象がレイを布団から起こし、花音が壁際に布団を丸めて支えを作ってくれた。
レイは支えに寄りかかりながらなんとか身体を起こすと、花音の作ってくれた雑炊のお椀を手に取る。
シンプルな卵の雑炊だ。出汁の香りが食欲を誘う。
一口食べると、体に染みわたるようだった。
「うまい……」
自然と声が漏れた。万象が自慢げに花音の肩を抱き寄せた。
「そうだろう。花音は料理上手だからな。俺の三番目の妻だ」
「……三番目?」
一瞬にしてレイの脳裏に浮かんだ複雑な家庭環境の想像を、万象は見抜いた。
「生憎、おまえが考えてるような妙な事情はないぞ。外の国と違ってここでは何人も妻を持つのは珍しいことじゃない」
「三人とも、この家に住んでるのか?」
「いや、一番目は別の屋敷にいて、二番目は旅に出ている。三人とも関係は良好だぞ」
レイは神花里の独特の風習に驚きながらも、そんなものかと飲み込んだ。
「レイ、俺の妻たちが美人ぞろいだからって手を出すなよ」
万象に言われて、レイは食べていた雑炊を吹き出しそうになる。
というか、一人で起き上がれないほどの怪我を負ったこの状態で、どうやったら手が出せるのか。
「まあ、万象様ったら……」
花音はうっとりと万象を見つめている。確かに関係は良好らしい。
二人の仲睦まじいやりとりを見ながら、レイは苦笑する。
どうやら、ここは自分の知る常識とはずいぶんとかけ離れた習慣を持った場所らしい。
レイのいたルクサリア帝国は合理主義が根ざした国だ。人は身内以外の他人に対してほとんど無関心で冷たい。
そういうものだと思っていた。
そんなレイにとって、蘭花たちのあたたかな対応は意外すぎるものだった。
けれども、そのおかげで、仲間に裏切られて瀕死の重傷を負うといった不幸のどん底のような状態なのに、落ち込むこともなく、穏やかな気持ちでいられたのだ。
レイが食事を終えると、蘭花が急須と湯呑の乗った盆を持って部屋に入ってきた。
「レイ、薬草茶を作ったから、飲んでね」
少しはにかみながら言った蘭花の横で、花音が食器を片付けながらふわりと笑う。
「蘭花の薬草茶はよく効くのよ。飲んでゆっくり休んだら怪我なんてすぐ治るわ」
花音と万象が部屋を出ていく。代わりに蘭花がレイの枕元に座った。
「薬の前に、傷を治療するね」
蘭花の白い手がレイの腹部に巻かれた包帯の上にそっと当てられる。
すうっと心地よい冷気が流れ込んできた。徐々に熱を持っていた傷の痛みが緩和していく。
あの熱に浮かされたような夜にも、蘭花はこの能力で自分を治癒してくれていたのだろう。
「……すごい力だな」
「ううん、全然ダメなの。わたしの力では小さな傷を塞ぐくらいしかできない。こんなことならもっと治癒の練習しておけばよかったな」
「そんなことないぞ。おかげでずいぶん楽になった」
レイのいたルクサリアでは、魔力を治癒に使う者などいなかった。
魔力は攻撃や破壊に使われるもので、それ以外の用途は不要であるというのが、あの国での一般的な考え方だ。
だからこそ余計に、レイは蘭花の力を稀有に感じた。
真剣に治療を施してくれる蘭花の横顔。優し気な紫の瞳にふわふわ揺れる腰まである銀の髪。その上に真っ白な耳がピンと立ち、背後に同じ色の尻尾が揺れている。
間近でまじまじと見ることのなかった獣人の姿が珍しくて、レイはつい見とれてしまう。
ふいに、蘭花が言った。
「あの日、あなたが川で倒れてるの見つけた時、びっくりしたなぁ……」
レイの腹部に手を当てたまま、蘭花は思い出すように目を細めた。
「わたしね、ご神木の森に月下蘭の花を摘みに行っていたの。その帰りに橋の上から銀色のギルタロスが倒れてるのが見えて、そのすぐ近くにレイがいたの。最初見たとき、死んでるのかと思った」
レイはあの時の状況を思い出す。満身創痍で魔獣に喰われる寸前、まさに死を覚悟した瞬間だった。
「俺が倒れていたとき、魔獣に囲まれていたと思うんだが……」
「追い払ったよ」
あっさり言った蘭花に、レイが目を丸くする。
「追い払ったって……」
「こう見えてわたし、結構強いんだから」
ふふんと笑って、蘭花は続ける。
「それから白呪様の神社でラグノスの荷車を借りて、神社の人たちにも手を貸してもらってね、レイとギルタロスを乗せて家まで運んだんだよ」
「そりゃまた……ずいぶんと世話になったな」
気絶したレイと騎竜を乗せて運ぶのは、さぞかし重労働だっただろう。その苦労を思うと頭が下がる。
もう一つ、レイが気になったのは蘭花が通りかかったときの状況だ。
「……蘭花、助けてもらった分際で余計なお世話かもしれないが、群れる魔獣に遭遇した時は、まず逃げるか人を呼んだほうがいい。小物でも束になられたら大人でも簡単に喰われる」
蘭花のようないたいけな少女が、自分のせいで魔獣に喰われるような事態にならなくてよかったとレイは心底思う。
蘭花はレイに子供扱いされたと思ったのか、少しムッとする。
「わたし、もう十五だよ。子供じゃないんだから」
「十五!?」
レイは蘭花の年齢を聞いて驚く。
もっと幼いと思っていた。ルクサリアで見たその年頃の女性たちと比べても、蘭花は背が低く、体型も幼く見える。
レイの心中の声が聞こえたかのように、蘭花は頬を膨らませた。
「どうせチビだって言うんでしょ」
「いや、そういうわけじゃ……」
否定しようとして、レイは蘭花を見て、言葉を止めてしまう。
「神花里では十五歳から大人なんだよ。結婚だってできるんだから」
むくれてそう言った蘭花の顔は子供そのもので、レイは思わず笑ってしまった。
「ルクサリアでは成人は十八だ。十五はまだ子供だ」
「こ、ここは神花里だもん! そういうレイはいくつなの?」
「今年十九になった。もう大人だ」
笑って言ったレイに、蘭花は少し憮然としながら、持ってきた急須から湯呑に茶を注いで手渡した。
「はい、これ。月華蘭の花と、森からとってきた薬草をブレンドして作ったんだよ」
差し出された暖かい湯呑からは、蘭花と初めて会ったときに花畑に咲いていた白い花の香りがした。
薬湯をゆっくりと飲み干す。少しの苦味とほのかな甘さが口に広がる。
すぐに喉の奥から身体が温まり、痛みがひいていく。
「ね、よく効くでしょ?」
薬湯の即効性に驚くレイの横で、蘭花が微笑む。
「月華蘭、というのは蘭花が髪に付けている白い花のことか?」
「そうだよ。この花は月の光の中で霊力を貯めて咲くの。煎じて飲むと霊力が回復したり、治癒力が高まるの」
この里でいう『霊力』は自分たちの『魔力』と同じようなもののようだ。
蘭花は髪飾りに触れる。透き通った白い花弁の中心部は淡い金色。その髪飾りは蘭花の銀色の髪によく似合っていた。
「特に満月の夜に咲いている花は、効能が強いから、よく摘みにいくの。レイとわたしが初めて会ったあの場所にしか咲かないんだよ」
蘭花の言葉でレイの脳裏によみがえる、あの日の情景――
そういえば蘭花と初めて会ったあの日は、満月だった。
「あそこは神花里の外だから、採りに行くときは気を付けないと、あの時のわたしみたいな目に遭っちゃうんだ」
自分の失態を思い出して、蘭花は苦笑する。
レイは思い出した。
あの時、蘭花は大樹に開いた穴から帰ると言ったのだ。
レイはずっと疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「あの木に開いた穴から、どうやって帰ったんだ?」
「あの木はね、森の奥にあるご神木と繋がる門なんだよ。二つの木の穴は中でつながっているの」
「……そういう仕組みなのか」
感心した様子のレイに、蘭花は得意げに笑う。
「神花里側からはいつでも行けるけど、外側から部外者は入れないんだよ。神花里の結界はすごいでしょ?」
転移術という高度な魔術が、この里では常に使われている。それも、部外者を阻む仕組みまで備えて。
そして、長年にわたってルクサリアの探査能力を退けるほどの結界——ここは、一体どういう場所なんだろう。
考え込んでしまったレイの横で、蘭花はレイの飲み干した湯呑を持って立ち上がる。
「じゃあ、早くよくなるように、しっかり休んでね」
「ああ、おかげでよく眠れそうだ」
「おやすみなさい、レイ」
そう言い残して、蘭花は部屋を出て行った。
横になって目を瞑ると、すぐに眠気がやってきた。
蘭花の治癒の力と、月華蘭の薬湯の相乗効果だろうか。
レイは傷の痛みに苛まれることもなく、心地よい眠りに落ちて行った。