狐の恩返し
目覚めて最初に見えたのは、太い木の梁が縦横に走る、木製の天井だった。
(……ここは、どこだ)
見知らぬ場所だ。敵地の可能性もある。
とっさに起き上がろうとして力を入れた瞬間、全身に痛みが走り、レイは思わず呻いた。
「起き上がるのはまだ早いぞ」
低く静かな声だった。横になったまま声の先を見やれば、紺色の和服を着た男が座っていた。大きく開いた襟の合わせから色違いの三つの勾玉を紐に通した首飾りが覗く。鋭い切れ長の金色の瞳はどこか憂いを帯び、艶やかな黒く長い髪の上には、黒い狐の耳がある。
(獣人……!)
瞬間的にレイは警戒する。
大抵の獣人はルクサリア人に敵意を持っている。これまでルクサリアのしてきた迫害を思えば当然だ。
しかし男の表情に敵意はない。どうやら敵ではないらしい。
その証拠に、満身創痍だったレイの身体は清潔な浴衣に着替えさせられていた。腹部には丁寧に包帯が巻かれ、畳の上の柔らかな布団に寝かされている。
「……あんたが、俺を助けたのか」
掠れた声で問うたレイに、男は首を振った。
「俺じゃないぞ。おまえの恩人は、看病疲れで眠ってる」
「そうか……世話になったな」
レイは最後の記憶を思い出す。川の浅瀬で動けないまま、魔獣に囲まれていた。あとは喰われるのを待つのみだった。
あの状況で自分はどうやって助かったのだろう。
ぼんやりとした頭で状況を思い返して、レイはハッとする。
「そうだ、イアル――俺の騎竜はそばにいなかったか?」
「ああ、あの銀色のギルタロスなら、厩につないでるぞ。怪我はしていたが命に別状はない」
「よかった……」
レイはホッと胸を撫で下ろした。丈夫な奴だ。生きているとは思ったが。
「情が深い騎竜だな。おまえを心配してたぞ。動けるようになったら、顔を見せてやるといい」
黒狐の男の落ち着いた低い声に、レイは安堵する。
それにしても、ここは一体どこだろう。ルクサリアでは見慣れない雰囲気の家だ。
天井の梁や壁は素朴な木肌を見せ、床には柔らかな色合いの畳が敷かれている。男の後ろには障子の引き戸、その反対側には大きな掃き出し窓があり、竹の簾がかかっている。簾の隙間から差し込む光は、夕暮れ時の色合いを帯びていた。
ふいに、竹の簾がさらりと揺れて、ほんのり草木の香が混じる風が吹き込んだ。
「ここはどこかと思っているな?」
レイの心の声を読んだようなタイミングで、黒狐の男が言う。
「ここは神花里。我ら狐人が隠れ住む里だ。ちなみに俺はこの里の長で、万象という」
「かみかり……」
聞いたことのある響きだった。
よくルクサリアから調査団が送られるカミカの国と、何か関係があるんだろうか?
レイが考え込んだ時、がらりと音を立てて万象の背後にある障子戸が開いた。
「父様、薬もってきたー」
子供の声と共に、ピョコリと黒い耳がのぞく。入ってきた活発そうな獣人の子供は、目覚めているレイを見ると好奇心に満ちた緑色の瞳をまん丸にした。
「あーっ、漆黒の剣士様起きたんだ!」
レイと万象に背を向け、廊下に戻った子供は大声で叫んだ。
「おーい蘭花ー!! 漆黒の剣士様起きたぞー!!」
しばらくするとバタバタと廊下を走る騒々しい足音が近づいてきた。
障子越しの廊下で少女の慌てた声がする。
「もぉー! 黙ってよ御影! よりによって本人の前で大声で言わないでー!」
「ええー! だってだってー……もがっ!」
万象が「やれやれ」と立ち上がって障子を開ける。
「二人とも、静かにしなさい。怪我人の前だぞ」
障子の向こうには、先ほどの黒狐の子供と白い少女がいた。
純白の狐耳と尻尾、ふんわりと長く伸びた銀色の髪、大きな紫の瞳。桜色の着物がよく似合う可憐な見た目の少女は、真っ赤な顔で黒狐の子供を羽交い絞めにして、その口を手で塞いでいた。
その子狐がじゃれあうような光景に、思わずレイの口から笑みが漏れた。
「構わないぞ。賑やかなのは嫌いじゃない」
そう声をかけたレイの前で、少女は恥ずかしそうに子供を腕から解放した。
万象は子供に席を外させると、少女を部屋に招き入れた。
「この子が、おまえの恩人だ」
寝床の傍らに座った少女の背中を万象が押す。レイは起き上がりたかったが、力を入れた瞬間に身体が痛んだので起きるのを諦めた。
「こんな格好ですまない。俺はレイ・カルディアスという。レイと呼んでくれ」
「レイ……」
小さくその名を呟いた少女は、真っ赤な顔でレイを見つめ、ぼうっと立ち尽くしていた。万象が少女の肩を軽く叩く。
「蘭花、見惚れてないで名乗ったらどうだ?」
「あっ……蘭花、です……」
もじもじと下を向いた少女の髪には、小さな白い花飾りがついている。
その姿に、レイは既視感を覚えた。
記憶の中の白い花。俯いて泣く白く小さな狐の獣人――
「蘭花……子供の頃に、白い花の咲く場所で魔物に襲われたことはないか?」
蘭花が目を見開いて息を呑む。
「……はい、あのっ……わたし、あの時、あなたに助けてもらって……」
「やっぱり、そうか」
あの時の子供は、無事に家に帰りついたんだな。
数年越しに安否が確認できて、レイも嬉しくなる。
レイの笑顔を見た少女の大きな紫の瞳がみるみる潤んでくる。そして震える手で、レイの手を取った。
「わたし、今度逢ったら絶対に恩返しするって、決めてたの! あなたが川で倒れてるのを見た時、あの時の人だってすぐにわかった」
蘭花は潤んだ目で、顔を紅潮させてレイを見つめる。
「レイ、また逢えてほんとに嬉しい」
レイの手を握りしめ、感無量とばかりにそう言った蘭花に、レイは苦笑する。
「……ずいぶん大袈裟だな。でも、おかげで助かった。ありがとう」
手を取り合い再会を喜ぶ二人の横で、万象が軽く咳払いをする。
「感動の再会に水を差すようで悪いが……」
蘭花の隣に座った万象が、レイに向かって話を切り出した。
「レイ、おまえに聞きたいことがある。ご神木の森の川で倒れていたと聞いたが、おまえは一体どこから来た? まさか蒼の断崖にでも飛び込んだか?」
「……ああ、そのとおりだ。ちょっとしたいざこざに巻き込まれてな……」
レイはそこで言葉を止める。
自分がルクサリア人だと知ったら、この人たちは自分を助けたことを後悔するかもしれない。しかし、それは事実だ。隠し続けられるとも思えない。
何より、瀕死の自分にここまで手厚く手当てを施してくれた人たちに、誠実でありたいと思う。
レイは意を決して続けた。
「……俺は、ルクサリア帝国の兵士だ。仲間に裏切られ、追い詰められ、崖から飛び降りて、気がついたらここにいた。ここに来たのは偶然だ。あんたがたの里を侵略する意図はない」
蘭花の目が驚きに見開かれる。
万象も、僅かに目を細めてレイを見つめる。
やはり、警戒されてしまったようだ。
レイは自嘲気味に笑い、目を伏せる。
「恩人たちに迷惑はかけられない。動けるようになったらすぐに出ていく。あんたらのことも、ここのことも誰にも言わない」
「出ていくって、どこへ行くつもりだ?」
「……とりあえず、ルクサリアに戻らざるをえないだろうな」
万象の問いに、レイは前髪を掻き揚げて額を見せた。赤黒く輝く小さな三角形の石が、そこに張り付いている。
「これは生体管理核——通称『コア』と呼ばれる魔動機具で、頭の内部まで埋め込まれている。兵士を管理するためのものだ。生体情報を検知して生死を判断する。行方不明の兵士を捜索する機能もある」
レイはあきらめたようにため息をついた。
「俺が死んでないことをルクサリアは知っているだろう。この里にいることも既に知れているかもしれない」
「いや、それはないな」
レイの言葉を、万象がきっぱりと否定する。
「おまえの生死はともかく、居場所は特定できないだろう。神花里の結界はこの里をあらゆるものから隠す。ルクサリアの技術であっても追跡できないはずだ。万が一場所が知れたとしても、入ってはこられない」
自信に満ちた笑みを浮かべる万象の横で、蘭花が言う。
「そうだよ、神花里の結界は最強なんだから!」
レイを見つめる蘭花の目から大粒の涙がこぼれた。突然泣き出した蘭花にレイはぎょっとする。
「レイ……仲間に裏切られたなんて、辛かったよね……傷ついたよね。そんなひどいところになんて、戻らなくていいんだよ……」
「い、いや、裏切ったやつとは前から仲良くなかったし……そこはそんなにショックでもなかったんだがな……」
顔を覆って泣き続ける蘭花にどう接していいかわからず、レイはおろおろと狼狽している。
そんな二人を見て、万象は声を出して笑うと、蘭花の頭を撫でた。
「レイ、おまえは蘭花の命の恩人だ。この子は俺の親友の忘れ形見でな。俺の娘も同然だ。つまり、おまえは俺の恩人でもある」
万象はレイに向かってニヤリと笑う。
「少なくとも傷が癒えるまではここにいるといい。そのあとのことは、おまえの意思を尊重しよう。里に住むもよし、ルクサリアに帰るもよしだ」
そう言うと、万象は立ち上がり、部屋を出て行った。
泣いている蘭花と二人きりで部屋に取り残され、レイはどうしていいかわからない。戸惑いながら、まだしゃくりあげている蘭花を見つめる。
(……どうして、こうなっちまったんだ……)
レイは小さくため息をついた。
仲間に裏切られ、怪我をして、崖から落ちて、魔獣に襲われて……何度、死んだと思ったことか。確かに自分の置かれた状況は、傍から見たら泣けるほど不幸なのかもしれない。
だが、自分は今、落胆してはいない。むしろ心はあたたかな想いで満たされていた。
(……この子は、俺のために泣いてくれているのだ)
横になったまま手を伸ばして、今度はレイのほうからゆっくり蘭花の膝に触れた。
「……蘭花」
呼ばれて、蘭花は顔を覆っていた手を外してレイを見た。
「……俺、しばらく……ここにいさせてもらっていいだろうか?」
レイの言葉に、蘭花は涙に濡れた顔で嬉しそうに笑って頷いた。