白い花の記憶
どこかで嗅いだことのある花の香りが、遠い記憶を呼び覚ます。
あれは、四年前。レイが十五の頃、遠征先での出来事だった。
当時、ルクサリア帝国が侵略したカミカという小さな国に、古代の壁画や文献などが多数存在することがわかった。
軍の上層部は何故かこういった古代遺跡に興味津々だ。一説によると現在では失われた高度な技術を求めているらしいが、レイのような一兵卒には知る由もない。
研究者数名と上層部のお偉方で結成されたカミカ調査隊の護衛として、レイを含めた数十名の兵士が任命された。調査隊を現地まで送り届ける道中の警護。調査隊がカミカに滞在している間は、その周辺の警備を担う。
そして、カミカ周辺に出る珍しい魔獣を狩ることも、レイたちの任務の一環だった。
ルクサリア帝国では魔獣の持つ素材は重要な資源だった。魔力を秘めた素材は、日用品はもちろん、武器や防具の材料としても重宝される。
特に、このカミカ周辺の魔獣は高い魔力を持つ上、稀な特性を持つ種が多い。魔獣のレア度に応じてもらえる報酬が跳ね上がるということもあり、兵士たちの狩りへの意欲は高かった。
夜明け前――レイは夜行性の魔獣が寝付く頃合いを狙って、一人で狩りに出ていた。
ひんやりした空気の中、群青に染まった空は山端から光を帯びて、白く光る満月が西に沈みかけている。
そんな静かな夜明けには不釣り合いな魔獣の鳴き声を聞いて、レイは空を仰いだ。
そこにはグロウスという薄い翼を持つ小型の竜系魔獣が一匹。普段は数匹で群れている雑魚で、狙う価値もない獲物だった。
だが、その時レイはかすかな違和感を覚えて、魔獣の進行方向へ走り出した。
甲高く鳴きながら飛ぶグロウスを追いかけてレイは森に入った。朝露に濡れた下草を踏みしめ、木々の間を縫うように進むと、前方から別のグロウスの鳴き声が聞こえてくる。
まるで獲物を見つけた合図のような――
急に森が開けた。
その先に広がる光景に、レイは思わず立ち止まる。
白い満月が沈みかけた黎明の空の下、一面に咲いた白い花が、淡い光を発していた。その中心にそびえるのは一本の大樹。
前方から冷たい風が吹き抜けた。豊かに葉の茂った大樹の枝がざわめき、白い花が揺れる。
ふわりと漂ってきたのは、甘い花の香り——
幻想的な光景に、レイはしばし呆然と見惚れる。
だが、それもつかの間、甲高い魔獣の声がして、レイは我に返った。
三匹のグロウスが白い花畑の片隅で獲物を取り囲んでいた。グロウスの鍵爪に引っかかれ、啄まれながら弄ばれている。レイの耳に高い悲鳴と泣き声が聞こえた。
(子供だ!)
レイは即座に剣を構え、グロウスたちに走り寄った。レイの魔力が込められた剣がみるみる黒く染まっていく。これにより、レイの剣は飛躍的に威力を上げる。
レイは跳躍して切りかかり、一瞬にして一匹のグロウスを切り伏せた。断末魔の悲鳴と魔獣の赤黒い血しぶきの中で、怒り狂って襲ってくる二匹目も、首と胴体が真っ二つに分かれた。
慌てて空に逃げ出しかけた最後の一匹を尾を引いて地面にたたきつけ、心臓を突いて絶命させると、レイは襲われていた子供のところに向かう。
子供は白い花の上に蹲って震えていた。背中を魔獣の爪で引っかかれ、血がにじんでいる。
「大丈夫か?」
レイが声をかけると、子供がおそるおそる顔を上げる。
純白の耳と尾、白銀の髪――
(獣人……しかも狐の……)
レイが息を飲む。
遠征でこの地に向かうにあたり、レイの任務には優先事項があった。
上級国民である学者様の命より、超激レア魔獣の心臓より大事な最優先事項――
狐の獣人を見たら捕獲。取り逃がした場合も要報告。
この近くに隠れ住んでいると推測される狐型の獣人に、軍の上層部は多大なる関心を持っている。そんなことはレイでも容易に推測できた。
だが、まさか自分が見つけるとは――
驚きに硬直してしまったレイの前で、白い狐の子供は涙に濡れた紫色の瞳でレイを見上げていた。
レイは無言で剣を収める。
レイはこの獣人の子供を捕える気も、上層部に報告するつもりもなかった。
ルクサリア帝国での獣人の扱いは酷いものだ。捕まったら、奴隷のように扱われるか、よくて愛玩用のペット――上層部が執着する狐の獣人ならば、実験動物にされるかもしれない。そんな目に合うとわかっているのに差し出すことはできない。
震える小さな子供に向かって、レイは手を差し伸べる。
「怪我をしているな。手当てするからじっとしてろ」
子供はおそるおそるレイの手を取り、立ち上がった。その時、レイは子供が小さな身体の下で、白い花を集めた籠を守っていたことに気づく。
「この花、大事なものなんだな」
レイが微笑むと、子供はコクリと頷いた。
レイは傷ついた子供の身体を確認する。子供の背中には魔獣の引っかき傷があり、左腕の引き裂かれた傷口からはまだ血が流れていた。
そっと触れるとビクリとして白い耳が下がる。幼い子供の身体についた痛々しい傷跡に、レイは顔をしかめた。
まずは携帯していた水筒の水で傷口を洗い流し、左腕を布で縛って止血する。背中は血がにじんでいるが、傷自体は浅い。子供は大人しくされるがままになっていた。
手当てを終えると、レイは子供に、家はどこだと尋ねた。
子供は花畑の真ん中にある大樹を指差す。
「木?」
レイは不思議に思いながらも子供に花籠を持たせて抱き上げ、大樹の前に連れて行った。
大樹の幹には、ぽっかりと大きな穴が開いていた。穴の中は明らかに木の内部ではない。そこには淀んだ闇が広がり、不自然な風が外に向かって吹き抜けている。
「……ここから帰れるのか?」
子供は頷く。転移術の一種だろうか。ルクサリアにはない技術だった。
学者たちが血眼になって狐の獣人を探している理由がわかった気がした。
「気をつけて帰れよ」
子供の頭を撫でながら微笑んだレイを、子供は澄んだ紫の瞳でまっすぐに見上げる。
「……ありがとう」
一言だけ言葉を発した子供は、甘い花の香りの中で、まるで花がほころぶように笑った。
気がつけば、全身が焼けるような痛みと熱に苛まれていた。
とりわけひどく痛むのは、裏切った味方に斬られた脇腹だ。熱を持った傷口がズキズキと疼いている。
意識は朦朧としていた。夢うつつの中でまどろみながら、レイは話し声を聞いた。
「蘭花、顔が青い。もう、そのへんにしたらどうだ?」
落ち着いた低い男の声に、少女の声が答える。
「もう少し、もう少しだけ……」
「治癒の力は、おまえの霊力も消耗する。そのままだとおまえが倒れるぞ」
「……だって、この人、苦しそうにしてる……」
額にひやりとした感触。誰かの手だ。汗ばんだ髪をかきあげ、額に乗せられた。
冷たく柔らかな手の感触が心地よい。
その手はまるで身体の火照った熱を吸い取っていくかのようだ。そう感じているうちに、不思議と身体の痛みが引いていく。
「絶対に助けたいの」
強い意志を秘めた声だった。
「……大丈夫だ。蘭花の『漆黒の剣士様』は、そんなにヤワじゃないだろう?」
「でも……」
この声の主は、心地よい手の主は、一体誰だろう?
うっすらと目を開けると、白い獣の耳を持つ少女の顔があった。涙ぐんだ紫の瞳が心配そうに自分を見下ろしている。
―—あの日助けた狐の子供が成長したら、こんな感じだろうか?
記憶の中と同じ花の香りを嗅ぎながら、レイは再び眠りに落ちていった。