裏切りの断崖、その果てに
空は曇天、灰色の雲が地平を飲み込み、遠雷がどこかで鳴っていた。けたたましい騎竜たちの足音に追い立てられるように、森の木々から鳥が飛び立つ。
レイ・カルディアスは、血まみれの脇腹を押さえながら、深い森の中で騎竜を駆った。漆黒の髪が乱れ、額から流れる汗と頬の傷に滲む血が褐色の肌を濡らす。鋭い黒曜石の瞳に滲むのは怒り、焦燥、苦い屈辱。口の端から思わず悪態が漏れる。
そんな主人を乗せた銀色の鋭い鱗を持つ魔獣──イアルは、主人の重みと臀部の負傷をものともせず、逞しい二本の脚で跳躍し、前方に立ちふさがる岩を飛び越えた。跳躍の振動で脇腹の傷が疼き、レイは顔をしかめる。黒い軍装が無残に引き裂かれ、深い裂傷から血が流れている。
(この怪我で剣が振れるだろうか?)
騎竜を借りながらレイは冷静に分析する。剣を持ち、振るうことができても、背後に迫る者たち全員を切り伏せることはできないだろう。相手は自分と同じ訓練を受けた戦闘集団だ。
レイの後方で、怒号を発しながらレイを追う五頭の騎竜に乗った兵士達は、たった数分前まで一緒に魔獣と戦っていた仲間だった者たちだ。
「……よっぽど恨まれてたらしいな」
唇を歪め、レイは苦笑した。
仲間だったはずの兵士たちが、魔獣との戦闘の最中に牙を剥いたのはほんの数分前。遠征でこの地域に出没する大型の魔獣を狩る任務を遂行していた。
魔獣狩りの時から、違和感はあった。襲い来る大型魔獣に背を向け、わざとらしく転倒した兵士を助けに入った瞬間、味方のはずの背後の男から脇腹を斬られた。直後に前方から襲い来る魔獣に、自分は殺される筋書だったのだろう。
その場でとっさに投げた剣が魔獣の喉に突き刺さる。その断末魔を合図に、今までの味方はすべて敵に豹変した。
「レイ・カルディアス! 貴様はもう終わりだ! 理想に酔った哀れな英雄気取りがッ!」
赤銅色の騎竜を駆り、レイの背後を追う兵士――ザイラムの怒声。こいつがこの裏切りの首謀者だろう。
ザイラムはそれなりに腕の立つ剣士だが、陰湿な性格で、ことあるごとにレイに反発し、嫌がらせをしてきた。レイもいい加減うんざりしていたが、まさか、ここまであからさまに裏切ってくるとは。
「死ねえぇ!!」
叫んだザイラムの目は血走り、騎上で構えた槍の切っ先はレイの背に向けられている。
レイは身を翻しながら、腰の剣を抜いた。細身ながら重厚な剣身は、レイの魔力を纏い漆黒に色を変え、切れ味を増した。
背後から投げられた槍を、レイは騎竜の上から振り向きざまに断ち落とした。
忌々し気に顔を歪めたザイラムを背に、レイは騎竜を走らせる。
「悪いな、まだ死ぬ気はねぇんだ」
とはいえ、レイもイアルも手負いだ。このまま逃げおおせるとは思えない。まがりなりにもルクサリア帝国の正規軍で編成された部隊だ。逃亡が長引いてこちらが疲弊すれば、串刺しにされるのは目に見えている。
突然の裏切りに、怒りを感じなかったかといえば嘘になる。しかし、レイが仲間を信頼していたかといえばそうではない。もともと望んで軍に入ったわけではない。むしろ周囲の国を軍事力で侵略していく国のやり方には嫌気がさしていた。そしてそれを誇りとして軍に傾倒する兵士たちにも。
ふいにレイの前方の木々が途絶え、視界がクリアになる。
その前に広がる光景にイアルが立ち止まる。
下草に覆われたせり出した地面は、数メートル先で途切れていた。
ごうごうと唸るような水音の中、湿気を帯びた強い風が吹き上げる。その向こうは霧に包まれた巨大な渓谷──蒼の断崖。
カッと稲光が照らし、雷鳴が轟く。森から迫ってくる騎竜の足跡、裏切り者たちの怒声。
レイは息をのむ。
ここで踵を返すか、このまま突き進むか――迷っている時間はない。
「イアル、飛べるか?」
金色の瞳が振り返る。その目に諦めの色はない。
レイは笑う。
「……ああ、信じてるぜ」
剣を納め、レイはイアルの首を撫でると、手綱を締め直した。
イアルはその意図を理解し、大きく地を蹴る。
次の瞬間、彼らの姿は断崖へと消えた。
霧の底は、想像以上に冷たく、容赦がなかった。
落下の衝撃を受け、引きちぎられるような感覚とともに、目の前が白く弾けた。
(息が、できない……)
ごうごうと流れる激しい水のうねりに抵抗することもできず、ただ流される。岩ぶつかるたびに身体を砕かれるような痛みが走る。霞む意識のなかで、レイはぼんやりと終わりを覚悟する。
ルクサリアの軍人として戦場に身を置き、死と隣り合わせの日々の中で、死への恐怖は次第に薄れていった。
敵も死ぬ。仲間も死ぬ。そして自分も——いつ死んでもいいと思っていた。
―——レイ、強く……生きて……
七つの頃に死んだ母の、最期の言葉が脳裏に浮かんだが。
(すまん、母さん。今度ばかりは無理かもしれない)
冷たい水の中でレイが意識を手放したのは、それからすぐだった。
目を覚ましたとき、最初に感じたのは水の流れる音だった。
続けて体中に感じた痛みのおかげで、レイの意識は浮上する。
(……生きてる?)
レイがうっすら目を開けると、夜の闇が周囲を包んでいた。先刻までの雷の鳴る曇り空が嘘のように澄んでいて、空に浮かぶ満月に照らされて周囲の状況が見える。
その場所は、どこかの川の岸辺のようだった。湿った土の匂いに、苔むした岩肌。川に摩耗された石の広がる浅瀬にレイは半身浸かった状態で倒れていた。
「……っ」
起き上がろうとして、低く呻く。無理に身体を動かそうと力を入れると、鋭い痛みが電流のように全身に伝わる。戦闘中に脇腹に受けた傷の他にも、全身は岩にたたきつけられた打撲だらけで、特に左足には焼けつくような痛みを感じた。
(このまま、ここで野垂れ死ぬのか……)
投げやりな気分でそう思った瞬間、レイの耳に届いたのは、低く唸る獣の声だった。とっさに見やった視線の先、暗い茂みの中で、黄色く光る眼がいくつも、レイの体を品定めするように見ていた。
(スナーハウル、か)
鋭い牙をむき出しにして唸る醜い獣が数匹、のそりと姿を現す。灰褐色の硬い毛皮の先で長い尾が獲物を見つけた喜びに揺れている。
「……チクショウ。こんなところで……犬の餌かよ……」
魔獣たちはレイを取り囲み、ゆっくりと距離を詰めてくる。
一匹が涎を垂らしながら牙を剥き、レイに飛びかかったその時――
ヒュッと風を切る音がして、空気が裂けた。
レイに襲いかかった魔獣は跳躍の途中で受けた衝撃に跳ね飛ばされ、岩に激突して悲鳴を上げる。
レイの目の前に、スナーハウルと自分を隔てるようにして立つ白い獣の後ろ姿があった。輝くような白銀の毛並み。しなやかな太い尾が、満月に照らされて揺れる。
(――狼……いや、狐?)
狐にしては大きな体躯は、全身にただならぬオーラを纏っている。レイの知らない魔獣だろうか。その獣から放たれる気配は明らかにスナーハウルを圧倒していた。
獲物を横取りされると思ったか、スナーハウルたちは怒りの咆哮を上げ、白銀の獣に襲いかかる。
しかし、獣は跳躍し、無駄のない動きでかわす。美しく弧を描いた尾が一閃した途端、鋭い風が巻き起こり、スナーハウルたちを鋭く切り裂いた。悲鳴と共に血が飛び散る。
息をのむレイの前で、白銀の獣が振り返る。強い意志を宿した紫色の瞳と目が合った。
「……おまえが、俺を喰うのか……」
どっちでもいい、と投げやりにレイは思った。
願わくば早めに止めを刺してくれ。長く苦しむのは御免だ。
視界がかすみ、意識が遠のくのを感じた。濡れて冷えきった身体は重たく、全身を苛む痛みすら麻痺していくように感じる。
その時、ふわりとレイの鼻腔を掠めた甘い香り――
(花の匂いだ。この香り、どこかで──)
考える間もなく、レイの意識は再び深い闇へと沈んでいった。