蝶との羽ばたき参
蟲は念願だった家族を築く事が出来たのだった。家族と云う世界には各々の様々な想いが詰められていた。蟲は、個人と云う世界よりも家族と云う世界では、己を縛り付ける鎖を増やさなければ生きてはいけないのだと悟った。蟲の内に潜む知識、想像、思考は、蝶として生きるのであれば使ってはならないモノなのだと、自らを縛り付けたのである。それでも蟲は幸せだった。見ようとしなければ気付かない程の些細な幸福は、至る処にあったのだ。子供が初めて立ち上がった時も。歩いた時も。声を出した時も。幼虫と家の廻りを散歩していた時も。海に行った時も。山に行った時も。蟲は蝶の様に成れたと感じていたのだ。子供が7歳になるか、ならないかの時の事だった。ある噂を蟲は聞いてしまったのだ。その噂は蟲に細やかな変化を与えた。その変化はやがて蛹であった家族をドロドロに溶かしてしまったのだ。幼虫であった筈の妻は少しずつ変化していった。服装。化粧。アクセサリー。飾らなかった妻には、その身体に鮮やかな色彩に彩られた美しい2枚の羽が生えた。自由を手にし、本来の番であった蝶と夜の街を飛び回っていたのだ。その姿に比べて、蟲の身体には無数の金属の鎖が巻き付いていた、その重みは蟲を地面に押し付ける。這いずり廻る蟲は、ふと己が勘違いしていた事に気付いてしまったのである。番とは、同じ種族での組み合わせ、その組み合わせとは、種を保存し繁殖させる事が出来る組み合わせの筈なのだ。蟲には生殖機能が皆無であった。蟲は蝶の番であることを唯一証明出来る生殖機能が無かったのだ。蟲は蝶であると錯覚していただけだった。いや、演じていたのだから初めから理解していたのであろう。蟲は初めから蟲だったのだ。蝶に憧憬を抱くだけの、蝶には成る事すら出来ない愚かな蟲だったのである。