分からないまま
何がきっかけなのか分からない。
とはいえ、屋敷の下働きにやってきた、どちらかというと陰気で貧相な少女は、なぜだかお嬢様に大変気に入られたようだった。
訳の分からないまま、部屋に呼びだされ、
「じゃあお前の名前は今からトテよ。分かったわね」
と言われるぐらいには。
トテと呼ばれる事になった少女は、驚きの中で己の名前となった単語を呟いた。
「トテ」
「そう、良い名前でしょう。お前にピッタリ」
お嬢様はトテの人生の中で最も美しい髪と顔と衣装をしていた。そのお嬢様がトテにむけ少しだけ美しく微笑む。
「私がお前の名前を呼んだなら、お前はいついかなる時であっても、私のところに来なくてはならない。犬のようにね。お前は私の犬よ」
「犬」
お嬢様はまたニコリと笑って、
「今日はもう良いわ。下がりなさい、見っともない」
トテはますます理解が追いつかなかったが、命令は絶対だ。
「はい。お嬢様」
トテは必死の思いで礼をとる。
それから、ここに連れてきた、明らかにトテとは別格で品も美しさもあるカルティという名の女性の使用人の後をついて、部屋を出る。
扉のところでカルティが改めて退出の礼をとる。一拍遅れて慌ててトテも続く。
すでに興味を他に移し書物を読みはじめるお嬢様が、その姿勢のまま声だけかけた。
「私の犬。明日は午後になったらすぐに来なさい」
「ふぇっ!? ふぁいっ!」
驚きのあまり素っ頓狂な返事になった。
お嬢様も驚いたらしく、書物から顔を上げてトテを見た。
真顔で見つめられている。
急にお嬢様がプッと笑った。可愛く美しい。
「お前、その返事はなぁに。お前は人の言葉も碌に話せないのね」
「えっ、違って、だってつい」
トテのとっさの言い訳にお嬢様は無表情になった。
「おだまりなさい、煩い。もう行きなさい」
「申し訳ございません、躾けておきます」
カルティの言葉に、お嬢様は眉を潜めて不快を示した。
「私が気に入ったものを勝手に躾けてしまうなんて許さない」
「承知いたしました。出過ぎたことを申し上げましたこと、どうぞお許しください」
カルティが頭を下げる。トテはどうしていいのか分からず情けない気持ちになった。
「もうお行きなさい」
少し呆れたようにお嬢様が言った。
カルティが改めて礼をとり、静かに腕を動かしドアを閉めた。
ここからトテの世界の中心が決まった。お嬢様が神になった。
***
「トテ」
「ふぁあい!」
なぜかトテがとっさに反応できない時に、お嬢様はトテを呼ぶ。
その度にお嬢様はトテを不思議な笑みで見つめて言う。
「お前はまだ人間に成れていないのね」
ここで黙っているとお叱りを受ける。
例えば、お嬢様は眉をしかめてこう言うだろう。
「何か言って見せたらどうなの」
と。
そこでトテが返す。
「トテは、人だよ、お嬢様」
「馬鹿ね。知っているわ」
その会話の後に、お嬢様はニコリと笑う。
何回かそれが続いたので、トテは遠慮なく思ったままを口にし続ける。
それがお嬢様にとって最良の行動だと分かったからだ。
さてトテを急に呼びつけるお嬢様は、そこの棚を整理してみろ、とか、それをこちらに持ってこい、といったことをトテに命じる。
じっと見ていたり、興味を失くして他の事をしていたり。
トテが、
「お嬢様、終わったよ」
と告げると、少し詰まらなさそうな顔になって、トテと、その結果を見やる。
「お前は仕事が雑ね。トテ、私だから良かったけれど、他ではとても屋敷勤めなんてできないわ?」
これも黙ってしまうとお叱りを受けるので、トテは言う。
「わたしは、だって、下働き、水汲みとか、そんなつもりで、それだけだもん」
そもそもトテだって、こんな場所に自分がいるのはおかしいことぐらい分かっている。
それを覆しているのはお嬢様だ。
「お前の水くみの働きなど、たかが知れているでしょう。トテ、次はそこから花を持ってきなさい。赤いバラを1輪だけ」
「はい、お嬢様」
トテは命じられて花瓶まで行く。赤いバラはたくさんあるので迷うが、一番前のをつかもうとして、チクッと指に棘が刺さった。
「イタッ!」
「ほほほほほ」
お嬢様は楽し気に笑った。
「お前は、薔薇に棘があることも知らないの。愚かね」
「だって・・・」
トテがしょんぼりしながら、花を持って行くためにと薔薇の花びらの方を掴もうとするのを察知し、お嬢様は強い声を出した。
「止めなさい! 花を掴もうとするなんてお前は本当にお馬鹿ね!」
お嬢様が本気で驚いて怒っている。普段は本気でないと今ので分かる。
トテは萎れた花のように元気を失くした。
「すみません・・・」
「本当に信じられないぐらい愚かなのね。棘があるならどうしたらいいか考えなさいな。花を持っておいでと言ったのに、花を潰そうとするなんて」
「じゃあどうしたら?」
「お前が考えるのよ。良い? 私はそれを見て楽しんでいるの」
「楽しいの? そんなことが?」
「えぇ、そうなのよ。けれど馬鹿なお前には理解できないと思うわ、トテ、私の犬。まぁ、犬といっても、本当の犬たちの方が随分とお利口だわね」
お嬢様は真顔でトテを見つめ、本心からのように呟きを零した。
「お前は、犬の中で一番未熟」
「・・・がんばるもん」
「ふっ、呆れた」
お嬢様はなぜか急に楽しそうになる。
「戻っていらっしゃい。その手の傷の手当てをなさい。許します」
「薔薇はもっていかなくてもいいの?」
「お前には無理なのだもの。置いておきなさい」
「あっ! お嬢様、思いついた! 花瓶ごと運べば良いんだ!」
「そんなこと絶対に許さないわ。お前は絶対にうまく運ばないのだもの」