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年が明けて、葵の職場には新しい課長が着任した。首都圏の支社から来た橋本は神経質そうな中年男性で、前課長の相良とは同期だったらしい。
相良は本社に栄転になったのに自分は地方都市に飛ばされたと不機嫌を露わにしていて、どうなる事かと葵たちは思ったが意外にも仕事には口を出されない。
今は様子見しているのかもね、なんて同僚たちと言葉を交わしつつ、新年の仕事は穏やかに始まった。
けれどプライベートも穏やかとは限らない。年末年始、実家でのんびりしている間も聖は何かと小まめにメッセージを送ってきていた。璃子に急かされて、今度友人と店に行きたいのだと伝えると、いつでも大歓迎だと返ってきた。
年明け最初の週末に行く事を決めたものの、葵としては気が重い。聖の気持ちを受け入れる覚悟はまだ出来ていないのに、相変わらず璃子はやる気に満ち溢れていて、何か失礼な事を言い出さないかと気が気ではなかった。
だから璃子の婚約者の高木も同行するとなった時には、心底ホッとした。高木は年上で落ち着いた男だ。彼ならしっかり璃子の手綱を握ってくれるだろう。
「ごめんね、車出してもらっちゃって」
「いいのいいの。運転するのはマサくんだし」
葵はカーシェアの契約をしているからその車で行こうと思っていたが、璃子が自分の車を婚約者に運転させてアパートまで迎えに来てくれた。璃子の就職先は東京だったから車は必要なかったけれど、こちらに戻ってくるのに合わせて購入したそうだ。
高木は東京出身だが運転には慣れているようで、雪道にも臆せず車を走らせる。ただ土地勘はないから璃子の代わりに葵が助手席に乗り、聖の店まで道を教えた。
「すごい森の中にあるのね。この道でエンスト起こしたの?」
「まあね。近くに民家もないから本当に大変だったの」
「なるほどね。でもお店はこの先にあるんでしょ? どんなお店なんだろう。古民家っていうぐらいだし、古びた山小屋みたいな感じ?」
「ちょっと違うかな。昔ながらの日本家屋だけど綺麗なお店だよ」
後部座席に座る璃子の質問に答えつつ、簡単に説明しながら店の駐車場に着いたけれど、葵は内心驚いていた。
店名こそ「古民家カフェCarol」と同じなのだけれど、駐車場に出ている看板が前と違う。以前葵が口にした大正ロマンという言葉を彷彿とさせるような飾り文字に変わっていて、古めかしい印象だ。
これはもしかすると中も違うのかもしれないと車を降りて店へ続く小道へ向かえば、前庭は欧風な白壁や煉瓦の段差に変わっていて、純和風の古民家と相まって和モダンな雰囲気になっていた。
これなら、メニューが完全に洋風でも驚かれる事はないだろう。
「本当だ、綺麗だね」
「組み合わせが珍しいな。店内も楽しみだね、璃子」
璃子と高木も満更ではない様子で、ここ数日憂鬱だった葵の気持ちが一気に好転する。
中はどうなってるのか、彼らに気に入ってもらえるか。ワクワクした思いを感じながらも冷静さを装い、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう、葵。来てくれて嬉しいよ」
駐車場に他の車はなかったから分かってはいたが、暖かな店内に客はいなかった。
大きなツリーからは縮緬の人形を残して装飾が外されていて、入ってすぐの商品棚からもクリスマスオーナメントは消えている。その代わり、アンティークな雰囲気の洋風小物が、和風の陶器皿などと共に並べられていた。
大きな暖炉にはしっかりと火が入れられているけれど、店内のクリスマス装飾も全て外されている。その分、洋ランプの数は増えていて、壁際やテーブル席の境目に年代物だろう艶やかに黒光りする和箪笥が置かれている。
カウンターの中にいた聖がニコリと笑みを浮かべて「お好きなお席へどうぞ」と朗らかに促した。
「リコ、どの席がいい?」
「あの四人がけの席にしよう」
てっきりカウンター席を選ぶのかと思ったけれど、興味深げに店内を見回していた璃子は、縁側そばのテーブル席を選んだ。
前回来た時は閉じられていた縁側だけれど、もちろん今日は開いている。窓越しに見える景色がどんなものかと、葵も楽しみにしつつ共に席に着いた。
「中もいい感じに和洋折衷になってるのね。どうしてお客がいないんだろう」
「そうだね。まだ雪が残ってるからかな?」
璃子と高木が楽しげに言葉を交わし、葵が雪の残る庭の景色を楽しんでいると、すぐに聖がメニューと共に水を運んでくる。
葵は気後れしていたのも忘れて、丁寧にコップを置く聖に微笑んだ。
「こんなに早く変えたんですね、色々と」
「うん、葵の意見を参考にね。気に入ってもらえた?」
「はい、すごく素敵です」
いつの間にか璃子は高木との会話をやめて、早く紹介しろと言わんばかりに視線を送ってくる。葵は苦笑して口を開いた。
「ええと、それでお話ししていた私の友人の三浦璃子と、璃子の婚約者の高木将臣さんです。リコ、こちらがこのお店のオーナーの悠木聖さんだよ」
「初めまして。昨年はアオがお世話になったそうで、ありがとうございました」
「初めまして、三浦さん。こちらこそ葵にはお世話になってばかりなんです。どうぞ今日はゆっくりして行って下さい。それで……」
品定めをするような目を一切隠さない璃子に、聖は外向きの作り笑顔を向けていたけれど、高木に対しては困ったように微笑んだ。
高木の方も驚いた様子で聖に見入っていて、ハッとした様子で苦笑いを浮かべた。
「どうも、高木です。失礼ですが、悠木さんは開東高校のご出身では?」
「ええ、そうです。やはり水泳の高木さんでしたか」
「大学で肩を壊したので、もうやめましたけれどね」
「えっ、マサくん知り合いだったの?」
「まあね。直接話したのは初めてだけど、顔と名前は知ってたよ。悠木さんは生徒会に入ってたし、東大じゃなく海外の大学に進学して有名だったから」
「高木さんも水泳のインターハイで好成績を収めていて、強化選手に選ばれたりもしたから有名だったんですよ。だから僕も顔だけは知ってました。引退されていたのは驚きですね」
「俺も驚いてますよ。まさか悠木さんが、こんな所で喫茶店を開いてるなんて。というか、お互い敬語はやめないか? 同級なんだし」
「そうだね。高木は三浦さんの家に入るんだよね? それなら名前で呼んでもいいかな。僕のことも聖と呼んでくれていいから」
「ああ、構わない。よろしくな」
どうやら高木と悠木は同じ高校の同級生だったらしい。あっという間に打ち解けた二人を璃子は興味深げに見ているが、璃子と違って高木が元水泳選手だった事も初めて知った葵は、話について行けずに混乱してしまう。
そんな葵に気付いたのか、聖が宥めるように微笑んだ。
「とりあえず、良ければコーヒーでもどうかな。カプチーノもすぐ出せるけど」
「あっ、そういえば注文まだでした。メニューを見ても?」
「もちろんです。ごゆっくりお選びください」
慌てて頷いた璃子がメニューを開く。葵もどうにか気持ちを整えて見てみれば手書きのメニューも新しくなっていた。
とにかく和モダンを意識して作ったのだろうそれは、飾り文字やデザインも昔っぽくなっており、以前なかったサンドイッチやフロートなども掲載されていた。
「アオは何が美味しかったの?」
「ええと、この前食べたのはね……」
昼時に合わせてやって来ていたから、葵と璃子はカプチーノとパスタにケーキ、高木はコーヒーとピザ、数量限定の煮込み料理を頼む。注文を受けた聖が用意する間、璃子は高木に高校時代の聖について根掘り葉掘り聞いていた。
「聖は本当に真面目な人だったよ。成績優秀で生徒会役員もしていたし女子の人気も高かったと思うけど、女性関係の噂話は聞いたことがなかったな」
「それで海外の大学に行ったの?」
「そう。あの時はずいぶん話題になったよ。そこそこ有名な進学校だったから東大に行く奴はそれなりにいたけど、さすがに海外に行くなんて滅多になかったから」
二人の会話を聞きながら、そういえばと葵はイブの夜に聖から聞いた話を思い返していた。
聖はイギリスの大学に進学したのだが、その理由がイタリアまでの移動時間が短くなるから、という驚きの理由だったのだ。
幼い頃からイタリア料理の店を出すのが夢だった聖だが、家族からは反対されていたらしい。家族に知られる事なく休みの度に思う存分料理の修行に行けるようにと、わざわざイギリスの大学を選んだと聞いた時、酔いの回っていた葵はそこまでするのかと思わず笑ってしまったのだった。
「そんなすごい人が、こんな田舎で古民家カフェねぇ……。どうしてなのか、アオは聞いてるの?」
「うん。この家は元々、ひいおじいさんたちの家だったんだって。でもそれが壊される事になったから、カフェにしたらしいよ。昔からイタリアンの店を出すのが夢だったそうだから」
「へぇ、思い出の家ってことなんだ」
「外側だけ同じだって言ってたけどね。店舗部分はリフォームしたそうだから」
庭の趣きも、葵の一言がキッカケでずいぶん変わってしまったのだろう。それを思うと、あんな意見を口にして本当に良かったのかと思ってしまうけれど、店が立ち行かなくなればこの家すら残せなくなる。
それに変えてしまった事を今更言っても仕方ない。葵に出来るのは、新しくなったこのお店の宣伝を手伝う事ぐらいだろう。
「お待たせしました。パスタセットとピザ、カチャトーラです」
「わあ、美味しそう」
「俺のは意外とボリュームあるな。もしかして聖、サービスしてくれた?」
「いや、いつも通りだよ」
サラダとスープ付きのパスタは王道のカフェ飯といった感じで可愛らしく盛られている。対してピザは本格派で丸ごと一枚、大きな鶏肉がゴロリと入っているカチャトーラにはパンも付いていて、高木は満足そうだ。
味の方ももちろん絶品で、食後にケーキと共に運ばれてきたデザインカプチーノには璃子が歓声を上げた。気に入った様子の二人を見て、葵はホッと胸を撫で下ろした。
「すっごく美味しかったね。こんな良いお店がガラガラなんて、勿体ないなぁ」
「本当にね。街中でちゃんとイタリアンの店を出したら大繁盛していただろうに」
「この家を残したいんだもんねぇ。聖さん、イケメンなのに料理上手だし、女性にもしっかりしてるみたいだし。アオを任せても良いと思うけれど、経済力は外せないのよね」
「ちょっと、リコ! 何言ってるのよ!」
「だってそこは大事でしょう? だからやっぱりここは、宣伝しないとだね」
璃子が高木に目配せすると、高木は頷いてカウンターに戻っていた聖に声をかけた。
「聖、少しいいか?」
「構わないよ。他にお客もいないし」
高木なら璃子を止めてくれると信じていたのに、何を言い出すのかと葵は慌てた。けれど意外にも、高木の話は真っ当なものだった。
「この店、うちの雑誌で取り上げたいんだが構わないか?」
「雑誌?」
「すぐとは言えないが、近いうちに県内のカフェ特集を企画してるんだ。出来たらそこにと思って」
璃子の実家は、地元では有名な情報誌を扱っている地方の広告代理店だ。璃子自身は広告関係にはあまり興味が湧かないと別業種の仕事を選んだが、結婚相手には会社を継げる人をと探してきた。そうして捕まえられたのが高木だ。
高木は勤めていた東京の大手広告代理店を辞めて、一足先に入婿として入社している。高木が同行すると聞いた時点で期待しなかったとは言わないが、正直こうなるとは思わなかったから、葵は興奮を隠せない。
聖にとっては降って湧いた話で驚いた様子だったが、すぐに満面の笑みで頷いた。
「それは願ってもない話だ。喜んで受けさせてもらうよ」
また別日に正式な取材をしに来るという事で、高木と聖は名刺や連絡先の交換を始めた。
璃子が楽しげに、葵の耳元で囁いた。
「まだ合格とは言えないけどさ、これから先繁盛するようになったら、聖さんのこと認めてあげるよ」
「何なのよ、その上から目線は」
「私はアオの大親友だもの、当然でしょ? まあでも人柄は問題なさそうだし、有名になってライバルが増える前に捕まえておいた方がいいかもね。頑張って」
「だから私は、まだそういうことは考えられないんだってば」
茶化す璃子に文句を言いつつ、ちらりと聖に目を向ければ、聖はニッコリと笑みを返してきた。
確かに璃子の言う通り、このお店が有名になったら聖目当てに来る女性客も増えそうだ。そんな客の一人になったらと思うと何となくモヤモヤするものを感じてしまい、葵は慌ててカプチーノに手を伸ばした。