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全国展開の大手居酒屋チェーンは、クリスマスイブも盛況なようだ。賑わう店内は満席のように見えたけれど、ちょうど客の入れ替え時でもあったようで、運良く空いた二人席に待つ事なく案内された。
幸いな事に、この店は全てのテーブル席が壁で区切られ半個室になっている。案内した店員にこそ気遣わしげに見られたけれど、静かに涙を流す葵を気にする者は他にいない。
葵が泣き止むまで、悠木は黙って待ってくれた。ようやく落ち着いて顔を上げると、お通しを肴に悠木は一人でビールを飲んでいた。
「落ち着きましたか?」
「はい、すみません。突然」
「大丈夫ですよ。ぬるくなったかもしれませんが、お茶を頼んでおきました。とりあえずそれを飲んでから、注文しましょうか」
「……はい」
突然泣き出して迷惑をかけたのに、何も聞かずにいてくれる優しさが胸に沁みる。それに葵が思う存分泣けるよう、最初の一杯だけ注文して待っていてくれたのだ。素敵な大人だなと感心しつつ、辛うじて温かさの残っていたウーロン茶に口を付ける。
水で薄めたようなチープな味わいのお茶なのに、不思議とこれまでの人生で一番美味しいように感じられる。ほんのり温もりが内側に広がって、弛緩したからか急に胃が空腹を訴え始めた。
「牧原さんはお酒は飲まれますか?」
「はい、人並みには」
「どれがいいでしょうね。僕はレモンサワーにしようかな」
「じゃあ私も同じのにします」
「つまみはセットのこれにしましょうか。あの後って何か食べました?」
「いえ、仕事してたので何も」
「じゃあもう少し頼んでも大丈夫かな」
メニューを二人で覗き込んで注文を済ませても、悠木からは何も言い出さない。葵は思い切って問いかけてみた。
「あの、どうして悠木さんはあの場所に?」
「住んでる家がこの近くなんですよ。雪も降り続いてるし家に篭ってようかとも思ったんですけど、せっかくだし少し飲みに行こうかと思って出てきたんです。イルミネーションもまだちゃんと見てなかったので」
古民家には余分な部屋もないし、あったとしても仕入れの面で住むには不便だ。その点、市の中心部からなら卸売市場にも近い。
そのため悠木は、古民家のリフォーム工事を始めた頃からこの辺りに住んでいたそうだ。時折仕入れのために市場に寄りつつ、毎日車で片道一時間ほどかけてカフェへ通勤しているらしい。
「それであそこにいたんですね。私のこともそれで?」
「ええ。何人かにぶつかられていましたよね? それで気になって」
たまたま信号待ちで、道路を挟んで反対側の歩道にいたのだと悠木は話す。恥ずかしい所を見られていたのだと、葵は俯いた。
「すみません、変な所をお見せして。さっきはちょっとボーッとしていて」
「いえ、むしろそれで気付けたので良かったです。もしかして牧原さんかなとは思いましたが、もし違っても具合が悪いなら助けが必要かと思っただけですし、気にしなくて大丈夫ですよ」
葵は街路樹に寄りかかっていたから、尚更心配をかけてしまったのだろう。悠木が声をかけてくれて良かったと思うけれど、体調が悪いのかと思ったら泣き出したのだから驚いたに違いない。
それにしても、止まった車にわざわざ声をかけてくれた時といい、悠木はずいぶん人が良いようだ。その優しさに葵は二度も救われたのだけれど、大丈夫かと心配になってしまう。
「優しいんですね、悠木さんは」
「そうでしょうか。当たり前のことをしているだけだと思うんですが」
「なかなか出来ないことだと思います。でも、気をつけてくださいね。助けて頂いた私が言うことじゃないでしょうけど、騙されたりもあるかもしれませんし」
眉尻を下げて言った葵に、悠木は笑った。
「心配してくれるんですね。でも大丈夫ですよ。誰にでも声をかけるわけではないので。実は僕、カフェを始める前は金融関係の仕事をしてたんです。だからある程度人を見る目はあると思ってます」
悠木は元々、東京で証券マンとして働いていたそうだ。けれど昔からイタリアンの店を開くのが夢で、学生の頃から休みを利用して何度となく本場イタリアへ料理を習いに行ってたんだとか。
ある程度資金を稼いで東京で店を出せたらと考えていた所、曽祖父母の家が壊されると聞いて脱サラをし、移住してきたらしい。
「牧原さんは保険屋さんですよね。だから少し親近感も湧いたんですよ。営業で回る大変さは僕も分かりますから」
仕事中は制服を着ていたから、葵が何も言わずとも勤め先は分かったのだろう。悠木の経営するカフェでご馳走になった時は、コートを脱いでたのだから当然だ。
そこまで話した所で、酒と料理が運ばれてきた。せっかくだからと「メリークリスマス」と乾杯をして、グラスに口を付ける。
本当ならこの乾杯を康平としていたのだと思うと、胸が切なく痛んだ。だからだろうか、お酒が回ってきた葵は自然と泣いていた理由を口にしていた。
「実は今日、彼氏に振られたんです。昼間、悠木さんに助けてもらう直前に」
康平とは長い付き合いだった。葵が十八歳で大学に入った時からだから、実に八年の交際になる。
決して浅くない情があったはずなのに、僅か数時間で別な女性と連れ立ってホテルへ行くのかと、自嘲気味に愚痴が溢れた。
「まさかクリスマスに振られるなんて思わなかったんです。仕事を頑張るのって、そんなにいけなかったんでしょうか」
入社以来、葵は企業向けの営業を担当していたけれど、個人向けの営業担当者の一人が産休に入ってしまい、秋口から一部業務を肩代わりしていた。
今日営業で訪ねた田中のおばあちゃんも、引き継いだ顧客の一人だ。
尊敬する上司から学んだのは、売り上げではなく顧客の事を第一に考えて商品を紹介するという事だ。それはどんな客が相手でも同じ事で、高齢になり契約内容を見直したいという田中のおばあちゃんの元へ葵は何度も足繁く通った。
そうして契約という段階で、息子の意見も欲しいと言われたので今日のアポイントを取ったのだ。結果、息子さんにも安心してもらう事が出来、さらには息子さん自身の保険についても相談を受ける事になった。
信頼を得て次の仕事に繋がると、何とも言えない幸福を葵は感じる。自分が勧めた商品で、いざという時に顧客を助けられるのもやり甲斐だ。
葵は母親の乳癌治療を保険で賄えた事がきっかけでこの職に就いた。ちなみにその保険の担当者が、当時一般の営業だった相良だったりする。本人は、葵が昔担当していた顧客の娘だと気付いてないようだが。
決して口が上手いわけでも人好き合いが得意なわけでもないけれど、そうして葵なりのプライドを持って仕事に励んできた。
けれどそれを理由に振られてしまった事で、自分自身を否定されてしまったように感じる。他の誰から言われても流せる事でも、大好きな恋人から言われた言葉だったから余計に辛かった。
葵が何杯も酒を口にしつつ、酔いに任せてそんな事をつらつらと話すのを、悠木は穏やかに聞いてくれた。
「悪いことなんて何もないと思いますよ。牧原さんは素晴らしいです」
「そうでしょうか」
「さっき僕を優しいと言ってくれましたけれど、牧原さんも同じだと思いますよ。そこまで本気で顧客の事を考えて営業するなんて、なかなか出来ないと思いますから」
それに、と悠木はほんの少し切なげに言葉を継いだ。
「きっとその彼も、ただ寂しかっただけなんじゃないでしょうか。自分を優先してもらえなくて」
「それは……そうかもしれません」
「牧原さんの仕事を、本気で悪く思っていたわけじゃないと思います。結婚したら家に入ってほしいというような言動だって、結局のところ二人の時間を大切にしたいってことなんじゃないかと思うんですよね」
男性からの意見として貴重ではあるけれど、ともすれば葵が自分の理解が足りないせいだったのかと落ち込みそうな話だ。
けれど葵は、どこかホッとしていた。仕事を辞める以外に、歩み寄る事だって出来たのかもしれないと思えたから。
悠木は、葵の仕事にかける情熱を否定しなかったのだ。むしろ康平は確かに葵を愛してくれていたのだろうと、そう思わせてくれる言葉だった。
「まあだからといって、何もクリスマスに電話越しで別れ話をする必要はないと思いますけどね。それに別な女性とホテルに行くのを見るなんて、牧原さんも辛かったでしょう」
「それは、はい」
「正直、あまり他人事に思えないんですよね。情けない話ですが、僕も似たような事があったので」
「悠木さんが、ですか?」
それは康平のように、彼女に仕事を優先されて寂しかったという話なのかと思ったけれど、そうではないと悠木は話した。
「僕も去年、クリスマスに振られたんです。そしてその夜に、彼女は僕の同僚とホテルに行ったんですよ」
悠木も酔いが回っているのだろう。明かされた話は、何とも世知辛いものだった。