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ようやく直った社用車で会社へ戻り、契約書やメールなどを捌くと夜八時を過ぎていた。
生保の営業は残業も多いけれど、今日はさすがに大雪だしクリスマスだしお客さんも夜のアポイントは取れないしで、ほとんどの人が定時で上がっている。
営業部のフロアで葵と最後まで残っているのは、年末で東京本社へ栄転が決まっている女性課長の相良だけだ。葵が制服から着替えて退社の準備を終えると、同じく帰り支度を整えた相良がコート片手に微笑んだ。
「今日は大変だったわね。夜遅くまでお疲れ様」
「相良課長もお疲れ様です。朝から気になってたんですけど、今日は気合い入ってますよね? この後何かあるんですか?」
「それがね、今日は珍しく旦那とデートなの。久しぶりにこっちに来てくれたから、駅前で待ち合わせしているのよ」
長年独身を貫いてきた相良は、四十歳を機に結婚している。互いに子どもは作らず、夫婦水入らずで過ごそうと決めているらしい。夫は東京で勤めているから週末婚の形を取っていたが、相良の栄転で年始からは同居となる。
いつもは相良が夫の元へ出かけていたが、今年のイブは金曜日だから夫の方が来たようだ。転勤前にこちらで最後のクリスマスを楽しむつもりなのだろう。
「牧原もデートじゃないの? それとも合コンかしら。今日はずいぶん可愛いじゃない。せっかくだから髪も巻けばいいのに。手伝ってあげましょうか」
「いえ、あの……私は何もないんですけど、少しだけ寄り道してイルミネーションでも見ていこうかな、なんて思っただけで。だからそこまでしなくていいんです」
元々クリスマスディナーに行く予定だった葵は、ツイード生地のフレアスカートにオフホワイトのフェミニンなニット、ブーツとアクセサリーも合わせて出勤していた。本当は髪も巻くつもりで用意してきたから、髪型だけ服装から浮いているのは自覚している。それでもやる気にはなれなくて、少し崩れたまとめ髪のまま帰るつもりだったけれど、それを説明するのも心苦しい。
仕事に邁進しつつ夫とも仲睦まじい相良は、これまで葵の憧れだった。康平に振られた今、何気ない上司の言葉が余計に刺さる。
ツキリと胸に走った痛みを誤魔化して曖昧に濁すと、相良は納得した様子で頷いた。
「牧原も仕事熱心だものね。あなたには教え甲斐があったわ。私が離れた後もよろしくね」
「課長みたいになれるかは分かりませんけれど、頑張ります」
「なれるわよ、牧原なら。お客様からも評判いいのよ?」
励ますように微笑みを残して、相良は去って行った。残業が多くノルマもあって辛い仕事ではあるけれど、顧客の事を第一に考えるよう相良が教えてくれたから、やり甲斐も感じている。
この仕事を選んだ事に後悔はないけれど、自分はどうすれば別れずに済んだのだろうか。人波に紛れていく上司の背を見送り、葵はボンヤリと考えた。
康平とは、葵が大学に入ったばかりの頃サークルで知り合った。三年先輩だった康平は、新入の葵にレポートのコツなども教えてくれてとても優しかった。
告白された時は康平が卒業するまでの関係かと思っていたけれど、就職先が市内だった事もあり恋人関係は良好に続いた。それは葵が就職してからも同じで、営業が上手くいかなくて辛い時にはいつも「嫌なら辞めていい。俺が養ってやる」なんて励ましてくれたものだ。
けれどそれを支えに頑張ってきたのに、別れ際の言葉を思い出すとあれは励ましの言葉ではなかったのだろうと気付く。
康平は、本気で葵に仕事を辞めさせたかったのだ。むしろ続ける事で、結婚に前向きではないと思われていたのだと今更ながら分かってしまった。
残業の多いこの仕事を辞めて転職していたら、まだ康平と続いていたんだろうか。そんな事を考えながら歩いて行くと、やがてイルミネーションの輝く大通りに差し掛かる。
葵の勤める保険会社は、市中心部に支社を構えている。そこから葵の住むアパートまではバスで三十分だ。
いつもはこの大通り沿いのバス停から乗るが、イルミネーションの時期は混雑を避けるためバスの経路が変更になっているからもう少し歩かなければならない。
大雪とはいえ、中心部は除雪が行き届いているし歓楽街そばにはアーケードもある。クリスマスを楽しもうとする若者や恋人たちは、ほぼ例年通り集まっているようだ。
そういえばディナーの予約をしていた店はこの辺りだったな、と思いつつ眺める。店の窓からイルミネーションを楽しみながら食事が出来るのだと、予約してくれた康平が話していたから。
その時の事を思い出すと、また気持ちが落ち込んでくる。少しは振り切ったつもりだったのに、一人になるとダメらしい。
いっそお酒でも飲みに行けば楽になるのかもしれないけれど、友人たちはみんな予定があるし、一人で入る勇気もない。
結局トボトボと歩いていくと、その店の方角から康平が歩いてくるのが見えた。
「こうへ……嘘……」
もう一度自分とやり直して欲しいと、葵はそう康平に声をかけようとしたけれど、足が止まった。
康平の隣には葵より少し若い女の子が寄り添っていて、二人は腕を絡めて歩いていたから。
(もう別な子と一緒にいるの? ううん、きっとお店の予約がもったいなかっただけだよね……?)
店の予約は夜七時だった。無駄に出来ないと食事をしてきたのなら、この時間に歩いていても納得だ。
気にするなと、そう理性は働きかけるけれど、歩いて行く二人の後ろを足は自然と追いかけてしまう。
思い返せばキリッとした顔立ちの康平は、笑うと急に人懐こい顔になって親近感が増すから大学時代から人気が高かった。
就職したのは大手電力会社で、合コンでも女性受けの良い職種だ。康平がその気になれば、葵なんてあっという間に消えてしまう。
それでも数時間前に別れたばかりの相手が、もう別な女性と親密な関係になってるなんて、思いたくなかったのだけれど。
現実は辛いもので、二人の背はイルミネーションの光から逃れるように、ラブホテルの立ち並ぶ通りへ消えて行った。
「康平、なんで……」
時刻はまだ夜の九時だ。すぐそばにはいくらでも飲み屋があって、こんな時間からわざわざホテル街へ足を向けるなんて理由は一つしか考えられない。
葵は愕然として立ち尽くしたけれど、食事を終える時間帯だからかイルミネーションに集まる人々は増えている。ドンと肩を押されてよろめき、フラフラと街路樹のそばへ寄った。
康平が連れていた女性は大人しそうな子で、遊びの付き合いで一夜を共にするようには見えない。それに康平は別れ際に「控えめで大人しい所が好きだった」と葵に言っていなかったか。
だとすれば好み通りの女の子なわけで、つまり新しい彼女を手に入れたのだろう。葵と別れた数時間後に。
こんな所で泣くわけにはいかないと思うのに、自然と涙が滲んでくる。重い体を街路樹に預けていると、不意に肩を叩かれた。
「あの、大丈夫ですか?」
「……悠木さん?」
「やっぱり牧原さんだった……っていうか、どうしたんですか?」
聞き覚えのある声に振り向くと、それこそ数時間前に別れた悠木がいた。昼間と同じく暖かそうなダウンコートを着て心配そうに見つめてくる姿に、自然と安堵してしまう。
「悠木さん。私、私……!」
「えっ、あの……。とりあえずここじゃ寒いと思うので、どこかお店に入りませんか?」
辛くて寒い時に温かなカプチーノで暖めてくれた人だと思ったら、決壊したようにポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
両手に顔を埋めて泣く葵に、悠木は戸惑いながらも穏やかに語りかけてくれる。
この人について行けば大丈夫だと思って、何度も小さく葵は頷いた。
そんな葵を支えながら、悠木はすぐそばの居酒屋へ葵を連れて行った。