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 披露宴が終わり招待客の多くが二次会へ向かう中、葵は一人ホテルの化粧室に残っていた。

 ブライズメイドになっていたし披露宴は昼に行われていたから、それほど酒を飲んだ覚えはない。けれど蓄積していた疲れや寝不足に精神疲労もあったせいか、酔いが回って具合が悪くなってしまったのだ。


 新郎新婦がこだわって選んだ豪華な料理はもったいない事になってしまったが、吐き気はずいぶん治った。

 後は頭痛と貧血のようなふらつきが残る程度だが、歩くのはまだ辛く中々外へ出られない。少しだけと自身に言い訳をして、化粧室の片隅にあるスツールに腰を下ろす。


 璃子には朝から体調を心配されていたのもあって、葵はこのまま二次会を欠席して帰宅するつもりでいる。連絡はすでに取ってあり、心配する友人たちには自分の分まで璃子を祝ってほしいと伝えて送り出した。

 もう二次会は始まっただろうか。披露宴では席が離れていたのもあり、聖とは結局話など出来なかった。二次会に葵の姿がない事に彼は気づいてないかもしれない。いつもは小まめに連絡をくれるのにまだ何もないから。


 優しく整った顔立ちの聖は招待されていた女性の視線を集めていたから、きっと今頃は彼女たちに囲まれているのだろう。葵の事など気にする余裕もないのかもと思うと、空っぽになった胃がシクシクと痛んでくる。

 何の返事もしていない自分が気にする権利などないのに、勝手な事だと自嘲の笑みが溢れる。こんな情けない自分だから、仕事も認めてもらえないし康平にも振られてしまったのだと、普段なら考えないような後ろ向きな思いに囚われる。


 これではいけないと頭の片隅で警鐘が鳴るのに、不調な体に引きずられているのか心は一向に浮かび上がらない。

 一人きりの今なら我慢する事もないかとハラハラと涙を流すと、ようやく気持ちも少しは落ち着いて。最低限の化粧直しだけ済ませて葵は化粧室から出た。


「まだ顔色悪そうだね。大丈夫?」

「聖さん……」


 皆二次会に向かったはずなのに、どうしてか聖だけが残っていた。葵は驚いたが、どうやら璃子から聞いて待っていたようだ。

 だから何も連絡がなかったのかと納得すると同時にホッとして、けれどずいぶん待たせてしまったと再び落ち込んだ。


「ごめんなさい、遅くなって」

「気にしなくていいよ。さすがに中には入れないから、これ以上遅くなるようなら誰かに見てきてもらえるよう頼もうと思ってたけど、とりあえず落ち着いたなら良かった」

「はい、ご心配をおかけしました」


 丁寧に礼を述べると、聖は「また口調が固くなってる」と苦笑した。その気の抜けた笑みが特別に思えて、不安定な葵の心はまた揺れる。

 これ以上寄りかかってはいけない。まだ何も決めていないのに。

 そう思ってどうにか一人で立とうとするけれど、聖は当たり前のように葵の肩を支えた。


「ふらついてるね。タクシーで送ろうかと思ったけど、もう少し休んでから帰った方がいいんじゃないかな」

「そうですね……そうします。あとは一人で大丈夫なので、聖さんはどうぞ二次会に行ってください」

「そういうわけにはいかないよ。良かったら僕の家で休まない? 前みたいな事はしないから。何なら、ここに部屋を取ってもいいけど」


 申し訳ないと思ったけれど、断っても聖は引かないだろう。いつも助けられてばかりだと思いつつ、聖の好意に甘えさせてもらう事にする。

 駅前のホテルから聖のマンションまではタクシーでワンメーターだ。たったそれだけの距離でも車の揺れに頭痛が激しくなるから、聖の誘いに乗って良かったと葵は思った。


 半年ぶりに訪れたタワーマンションは、相変わらず綺麗なものだった。聖は宣言通りに不埒な真似など一切せず、葵を休ませてくれた。

 風呂や服まで借りて楽な格好に着替えると、促されるままに頭痛薬を飲んでベッドへ潜り込む。一眠りしたおかげか、夜遅くに目を覚ますと、すっかり体調は良くなっていた。


 リビングへ向かうと、聖は映画を見ながら一人で寛いでいた。スッキリした葵の顔を見て、安心したように微笑んでくれた。


「お腹空いてない? 僕もまだ食べてなかったから、良かったら一緒に食べようよ。軽いものだけど、一応用意はしてたんだ」


 葵と違って披露宴でしっかり食事をした聖は満腹で、夕食を抜いていたらしい。夜食にとスープリゾットの準備だけしていたようで、さっと仕上げて出してくれた。

 トマト味のさっぱりした風味が優しく体に広がって、葵はホッと息を吐く。こんなに穏やかな気持ちで食事をするのは、ずいぶん久しぶりな気がした。


「気に入ってもらえた?」

「はい、とてもおいしかったです。お店で出してもいいぐらい」

「そっか。最近は高齢の常連さんも増えてるから、このぐらい食べやすいのがあってもいいのかな」


 食後には温かなお茶も淹れてもらって、のんびりと言葉を交わす。


 情報誌に店が載ってからしばらくの間、新規のお客が絶えず聖も忙しい毎日を送っていたそうだ。GWにはダム観光のついでに寄る客で行列も出来たが、最近ではだいぶ落ち着いてきたらしい。

 平日は近隣の常連客が多く、休日は観光客やカップルで満席になるという。客層は年代も性別も用途も様々だけれど、誰にでも落ち着いた時間を提供出来るようにとメニューも日々考えているようだ。


「そういえば、お店に関係ない頼みを聖さんが聞いているって、お客様から聞きました。すごく助かってるって」

「ああ、ちょっとしたお使いとかだよね? あれはついでだから大した事じゃないよ。それに実はランチのデリバリーも頼まれたりするから、全く関係ないわけでもないんだ」


 毎日街中から車で通っている聖は、店の近くでは手に入らない物の買い出しを常連客から頼まれては引き受けていた。店のそばの住人はほとんどが高齢者で、中にはタクシーしか移動手段のない者もいる。そんな彼らにとって、若い聖は頼りになる存在だった。

 他にも力仕事や電化製品の困り事など、頼まれれば何かと手を貸しているらしい。要望を受けて持ち帰りメニューも始めたそうで、近隣の常連客には頼まれれば直接届けに行ったりもしているそうだ。


 葵はこの話を保険の顧客から聞いた時、優しい人だと改めて思ったものだった。

 それをこうして問いかけても、聖はいつも通りに柔らかく微笑むだけだ。自然体で誰かのために動ける聖を、葵は純粋に素敵だと思う。


 それに比べて今の自分は、と不意に気持ちが暗くなる。すると聖が立ち上がり、冷蔵庫からココットを出してきた。


「葵、良かったらデザートも食べていかない?」

「これって、ティラミス?」

「そう。知ってた? イタリア語だとTirami su(ティラミス)は『私を元気付けて』って意味なんだ。きっと食べたら元気になれるよ」


 そう言って聖はもう一杯お茶を淹れてくれた。顔には出さないように気をつけていたのに気付かれていたのかと思うと、どう返事をすればいいのか分からない。

 それでも無言のまま一口含めば、控えめな甘さに込められた聖の優しさはしっかりと届いた。一人で我慢を続けてきた葵の心はホロホロと崩れて、気が付けば誰にも言わなかった弱音を口にしていた。


「仕事がうまくいってないんです。それで最近辛くて……」


 上司が変わって、これまでのやり方では認めてもらえなくなった事。頑張っているけれど結果に結びつかない事。自信や気力もすっかりなくなって、このままやっていけるのかと不安になっている事。

 当たり障りのない範囲で。けれど取り留めない話を聖はただ黙って聞いてくれる。その居心地の良さに、葵の抱えていた胸のつかえは少しずつ和らいでいった。


「いつも情けない姿ばかりお見せしていますね」

「そう? 僕は頑張ってる姿ばかり見せてもらってると思うよ」

「そんな風に言ってくれるのは、聖さんぐらいですよ。聖さんみたいな人が上司だったら良かったのに」


 ここは聖の家なのに、どうしてこんなにリラックスしてしまうのか。まるで落ち着く喫茶店にでもいるみたいだと思って、聖のいる場所が古民家カフェCarolなんだなと漠然と思う。

 料理はもちろん美味しいけれど、それだけが理由じゃない。何より聖の温かな雰囲気が大きいのだ。聖が上司なら、今はギスギスしている職場もこんな風に居心地の良い空間になるのだろう。


 そんな事を想像して冗談混じりに話すと、聖は驚くような言葉を返した。


「それなら、うちで働いてみる?」

「……え?」

「おかげさまでお客様も増えてかなり忙しいから、人を増やそうかと思ってたんだ。葵なら大歓迎だよ。賄いだって付けるし」

「冗談、ですよね?」


 唖然として問いかけると、聖は柔らかな笑みを浮かべた。


「結構本気で言ってるよ。まあ、うちじゃなくてもさ。そんなに辛いなら、思い切ってやめてもいいと思うんだ。保険会社は他にもある。葵のやりたい形に合う会社を探してみるのも良いんじゃないかな」


 思ってもいなかった話に、葵の思考は一気に晴れていった。カフェに誘われたからではなく、同業他社への転職について示唆されたからだ。


 橋本の下でいつまで耐えられるか、葵はずっと不安を感じていた。仮にまた上司が変わっても、似たような人だったら同じ事だ。

 いつか潰れてしまうのではと思っていたけれど、潰れる前に逃げるのも一つの方法なのだ。他社への転職に限らず、今は保険ショップのように複数社の商品を取り扱う店だってある。独立する事だって出来るし、他に選べる道はいくらでもあるのだから。


 そんな簡単な事も思い浮かばないほど追い詰められていたらしい。自分の視野はずいぶん狭まっていたのだと、葵は自覚した。


「聖さん、ありがとうございます。話して良かったです」

「何か吹っ切れたみたいだね。もし本当にうちに来るなら歓迎するよ。何なら再就職までの繋ぎでも構わないし、その気になったらいつでも言って」

「はい。でももう少しだけ頑張ってみるつもりです」

「そっか。また何かあったら気軽に連絡して。店じゃなく、仕事帰りにここへ寄ってくれても構わないから」

「ありがとうございます」


 元気を取り戻した葵は、もう深夜という事もあり、聖が呼んでくれたタクシーに乗り込んでマンションを後にした。

 本当は聖自身が車で送りたかったようだけれど、まだ酒が残ってると危ないからと諦めたのだ。その代わりタクシーの運転手に直接行き先を伝えて、葵の気付かぬうちに多めの運賃を渡して見送ってくれていた。


 聖はどこまでも葵に優しい。彼からはいつもたくさんの元気をもらってばかりだ。

 その想いと同じだけの熱量を、果たして自分は返せるのだろうか。聖に惹かれていく気持ちは無視出来なくなりつつあるけれど、まだ葵は心を決められずにいた。

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