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 橋本から社用車の使用を禁じられて以降、葵は勢力的に企業の営業に取り組み始めた。これまで取引のあった会社だけでなく、新規開拓も目指して様々な企業へ営業をかけている。

 四月に入ったが今のところ成果は上々で、この調子でいけば今月のノルマを大きく超えるだろう。橋本にも認めてもらえるはずだ。


 代理で担当している個人客には電話のみに留め、この数週間は聖のカフェにも顔を出していない。休日にカーシェアを利用すれば行けるが、それもやめていた。

 けれど相変わらず聖からは毎日のようにメッセージが届く。この日も葵が残業していると、スマホが受信を知らせてきた。


「あ、もうこんな時間……」


 最低限に絞られた照明の中、オフィスに残っているのは葵一人だけだ。パソコンから離れて疲れた目を瞬かせながらメッセージを開くと、お疲れ様というスタンプと共に一枚の写真が送られてきていた。それは聖のカフェが載った地元情報誌で、どうやら今日が販売日だったようだ。

 帰りがけにコンビニにでも寄って買おうと思いつつ、葵は帰り支度を始める。


 そういえば璃子からは高木から聞いた話として、正式な取材でキャロルに訪れた際、女性スタッフが聖に見惚れていたと教えられていた。

 雑誌にイケメン店長として載せたいと、写真もたくさん撮られたし、取材後にはあからさまに誘いをかける猛者もいたのだとか。


 付き合っているわけではないし、それを聞いてどう思う事もないはずだけれど、聖は一切取り合わなかったとも教えられてホッとしてしまったのを思い出す。

 今もこうして小まめに連絡をくれる聖を思うと何となく心が浮き立つ。まだ新しい恋に一歩を踏み出す勇気はないけれど、どんな記事になっているのかは楽しみだ。掲載されているはずの聖の写真も含めて。


 アパートへ帰り購入した雑誌を開いてみれば、特集ページの最初の方に見開きで古民家カフェCarolは載っていた。店内の様子やオススメ料理のレポートが書かれ、聖のインタビューまで掲載されている。こんなに大きく取り上げるほど高木は気に入っていたのかと思うと、自分の事のように誇らしくなる。

 そして爽やかな笑みを浮かべる聖の写真を見て、葵の心はユラユラと揺れた。明らかに対外向けのそれは、度々葵に見せてくれた素の笑顔と違っていて自分だけ特別なのだと改めて感じたからだ。


 なぜ聖はこんなにも自分と関わろうとしてくれるのだろう。一夜を共にしたあの日から、数ヶ月経っても向けられる好意の熱量は変わらない。自分のどこにそれほど惹かれるのか、理由は聞いたけれど未だに理解出来ない。

 聖の店のために協力はしてきたけれど、あのぐらいなら他の誰だってやると思うのだ。こうして雑誌に載ったのだって、葵はきっかけを提供しただけでチャンスを掴んだのは聖自身だ。聖ほどの人なら、葵以上に親身になって店のために動いてくれる女性などいくらでも捕まえられるだろう。


 滅多に客の来ない店で、出会いが少ないから葵が目に着いただけなのかとも思った。イブに振られた者同士という同情や憐れみもあるだろう。体の相性が良かったというのもあるかもしれない。

 けれど葵が店を訪ねなくなってからも、聖の態度は変わらない。デートの誘いにも乗らず顔を合わせる時は店に客として訪れる時だけなのに、聖はいつだって嬉しそうに葵を迎えてくれていた。それがなくなっても諦める事もなく、変わらぬ熱を込めたメッセージを送ってくるのだ。


 葵がいくら信じられない思いでいたとしても、やはり聖は本気なのだ。本気で葵を求めてくれている。

 それは決して嫌ではない、むしろ嬉しいと思う。でもまだ康平の事が頭を過ぎる自分が、葵は嫌だった。


 もっと聖と会えば、躊躇う気持ちも消えるのだろうか。こんなに一途に想いを伝えてくれる人を、いつまでも放置していていいわけがない。きちんと断るにしろ受け入れるにしろ、もっとちゃんと聖と向き合いたい。

 紙面で笑う聖の頬をそっと指でなぞる。橋本に認めてもらい個人営業を再開出来るようになったら、プライベートでも店に行ってみようと葵は思った。

 けれどそんな考えは、早々に打ち砕かれる事になった。




 四月の終わり、ノルマは見事達成してむしろ過去最高の契約数となったのに、橋本は葵に個人営業の再開を認めてくれなかった。

 より一層企業の営業に力を入れるよう言われ、葵は困惑する。何しろ新入社員のおかげで最も契約の取れる時期はもう終わりなのだから。


 そもそも五年目になった葵は、本来なら新人を教育する立場になるはずなのだが、それにすら携わらせてもらえない。先輩の手伝いとして資料作成を頼まれる事はあってもそれだけだ。

 橋本の指示で教育プランも提出はしたが、結局それが使われる事はなかった。


 一体何がいけないのか、葵は真面目に考えたが全く答えは分からない。何人か抗議してくれた同僚もいたけれど、彼女たちまで目をつけられてしまうから葵が間に入る事もあり、より一層当たりは強くなっている。

 罵詈雑言はこれまで以上に酷くなり、ファイルやバインダーで頭や肩を軽く小突かれる事もある。それでもこれ以上職場の雰囲気を悪くしたくなくて、葵はひたすら黙って耐えた。


 そんな中でも、個人客をいつまでも放っておく事は出来ない。保険の見直しをしたいと連絡をもらったため、営業の許可を得ようと再び橋本に伺いを立てたが、橋本から告げられたのはやはり残酷な一言だった。


「そんなに営業に行きたいなら勝手にすればいい。ただし、社用車の使用は許可出来ない。他の業務に影響が出ないようにしろ。お前は本来、企業担当なんだ。余計な経費をかけるなよ」


 サービス残業や移動費を自腹で賄う事などを暗に求められ悔しかったが、顧客を大切にしたい葵はそれを飲むしかなかった。

 パワハラだ、横暴だと親しい同僚は言ってくれるけれど、葵が元々企業担当なのは事実だ。橋本の望む結果を出せない自分の責任だと葵は思って、そんな同僚を押し留める。


 平日は企業の営業に回り、休日にはカーシェアを利用して個人客の元へ向かう。

 雑誌効果か聖のカフェは連日盛況なようで、聖からは以前と同じように営業に使っていいと言われているが、さすがに断って客の自宅へ赴く。

 色々辛い事はあるけれど、安心した様子で相談してくれる顧客を前にすれば、来ないという選択肢はやはりどうしても選べない。


 無給での休日出勤にサービス残業、そこへ移動費の自腹は正直かなり辛い。給与は増えないのにプライベートの時間は減るから、外食や惣菜の購入も増えて出費は嵩むばかりだ。

 それでもせっかく郊外へ来たのだからとキャロルに足を向ければ、満席の店内で聖は忙しくしており以前のようにゆっくり話す事も出来ない。


 葵のためにと出されたデザインカプチーノは前と変わらず可愛らしいし美味しいのに、空虚さを感じるのはなぜだろうか。聖狙いの女性客が熱心に語りかけ、営業スマイルとはいえ聖が笑顔で答えるのを見るのも何だか辛い。

 店が繁盛して喜ばしいはずなのに、素直に喜べない自分に嫌悪感でいっぱいになる。仕事でもプライベートでも、自分は何をしているのだろうかと落ち込んでしまう。


 きちんと聖と向き合おうと思った考えはどこへやら。葵の足は唯一の癒しだったカフェからも遠のいて、徐々に疲弊していった。




「アオ、大丈夫? 顔色悪いけど」

「大丈夫だよ。ごめんね、ぼんやりしちゃって。リコの晴れの日なのに」

「こっちこそ、忙しいのにブライズメイドなんて頼んじゃってごめん。式さえ出てくれればいいから、あんまり無理はしないでね」

「嫌だな、最後までちゃんといるよ。祝わせてよ、親友なんだから」


 六月の頭、璃子と高木の結婚式が行われた。葵は花嫁の介添人として、挙式前から璃子の準備を手伝っている。

 幸せいっぱいの親友に心配なんてかけたくなくて葵は笑顔を取り繕ったが、その実、春から続く過労と心労から身も心もボロボロだった。


 葵がどう頑張っても橋本は一向に認めてくれないのだ。顧客第一という考え方そのものを何度となく否定され、会社の利益を追求するよう求められる。

 あれほど望んで就いた仕事なのに、最近では何のためにこれほど努力を続けているのかも分からなくなってきている。それでも信念だけは曲げたくなくて、葵は必死に毎日を過ごしていた。


「今日は聖さんもいるから、後で話すといいよ」

「うん……ありがとう」


 聖も高木の招待客として来ていると聞いて、葵は戸惑った。

 葵が勝手に居辛さを感じてカフェに行かなくなっても、相変わらず聖はメッセージを送ってくれている。そればかりか「せっかく来てくれたのに話せなくてごめん」とまで言われているのだ。「もっと話したかった」「店じゃなく街で会えないかな」なんて事も度々言われていて、けれど仕事の忙しさを理由に断り続けてきた。

 実際、この所の葵に余裕はなく、まだ聖に対する気持ちも考えられていない。どんな顔をして会えばいいのだろう。


 内心でそんな悩みを抱えつつ、今はとにかく親友の晴れ姿を祝う。幸せそうな璃子を祝う気持ちだけは間違いなくあるから、葵はホッとした。これで璃子にまで羨む気持ちを持ったりしたら、もう本当にダメな気がする。

 素晴らしい結婚式に塞ぎがちだった気持ちも浮上して、久しぶりに葵は肩の力を抜いた。しかしそれも、ほんの束の間の出来事だった。


「牧原さん、久しぶり!」

「なんか痩せた? 仕事忙しいって聞いたよ」


 ようやく席に着けた披露宴で、同じテーブルには大学時代の友人たちがいた。彼らとは卒業後も何度か会っていた親しい間柄だが、璃子と高木の事については知らなかったらしい。

 あれこれと質問を受けて、葵は笑顔で答えていく。けれどそれも最初のうちだけだった。


「牧原はどうなの、結婚は。先輩とそろそろなんじゃないの?」


 何の気なしに言った男の友人の一言に、葵は凍りつく。事情を知っている女性の友人たちが、濁すように声を挟んだ。


「ちょっとそういうの失礼よ」

「そうだよ。結婚のタイミングなんて人それぞれでしょ」

「えー、でも気になるじゃん。本当は先輩に聞きたかったけど来てないしさ。今も牧原は仕事熱心なわけ? 教えてよ、その辺」

「いい加減にしなよ、バカ」


 隣に座る友人に肘鉄を食わされ、男の友人は苦痛に呻いて口を噤んだ。

 それ以降、康平の事を尋ねられたりはしなかったが、葵の胸は重くなった。


 仕事を優先したから康平から振られたのに、その仕事では報われない。これまでの頑張りは何だったのか、見ないようにしてきた虚無感が葵を襲う。

 うっかりすると涙が滲み出そうで、葵は必死に表情を取り繕った。

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