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強くなった靴下

作者: エチュード

 先ごろ行われた、オリンピックの女子ボクシングについて、あるテレビ番組での発言が物議を醸していた。後日、番組の中でアナウンサーが謝罪をしたようだが、発言をした本人はどのような心境だったのだろう。その番組をみていないのでわからないが、ネットの記事を読んでいて、昔遭遇した出来事を思い出した。

 

10年ほど前のある日、用事があって市役所へ行った。午後の時間帯で、窓口はそんなに混んではいなかったが、少し待たなければならない状況だった。自分が用がある係以外にも、待っている人はそれほど多くはなかった。だから、シーンと静まり返っているというわけではないが、概ね静かな空気が流れていた。

そんな雰囲気を破るように、いきなり大きな怒鳴り声が、フロアー中に響き渡った。何と言ったのか言葉ははっきりしなかったが、明らかに誰かの大きな怒鳴り声だった。恐る恐る声がした方に目を遣ると、私が待っている場所から二つ係を隔てた斜め向かいの、高齢者の窓口辺りから聞こえていた。フロアーに居る人達全員の視線が一瞬にして、そこに仁王立ちになっている人物に向けられた。立っていたのは、年の頃なら70歳代後半くらいだろうか?背の低い瘦せ型の高齢男性だった。頭頂部が薄くなった髪は、本来の長さよりもかなり伸びて、グレーのジャージの上下に、ウインドブレーカーという恰好だったが、足元はスリッパのようなものを履いているように見えた。あまりジロジロ見るわけにもいかないので、意識してそちらに向かないようにしていたが、怒鳴り声は矢継ぎ早に聞こえてきた。何に怒っているのか分からず、またあまりに凄まじい剣幕だったので、こちらもすぐに逃げられる準備をしておかなければ、と考えたりした。皆が驚きと恐怖で見つめていたが、当人は衆人環視の状態など気にしていないようだった。

 尚も男性の大声は続いていたが、不思議なことに、高齢者係の人が誰も応対しようとしないのだ。20人以上はいるだろうその部署の、誰一人としてその男性の方を見ようともしない。というより敢えて避けて、皆一様に黙々と、仕事を続けている風を装っているようだった。怒鳴り声は聞き取りにくく、内容はよくわからなかったが「嫁を何処へやった?」だとか「嫁を返せ」というフレーズは何度か聞こえてきた。

 すぐに終わると思った私の用事が、思いの外時間がかかり、待っている間ずっと、男性の怒りの声を聞いていなければならなくなった。愉快ではなかったが、こちらが危害を加えられる心配はないような気がしていた。

 その後、数分ほど怒鳴り散らした男性は、誰も応対してくれないことに気勢をそがれたのか、徐々に態度が軟化していった。目の前の係の人達全員に聞こえるように呼び掛けているので、相変わらず大声ではあるが、先ほどまでの態度とは反対に、気弱になっているように見えた。そして、ついには半ば懇願するような口調で、愚痴をこぼし始めた。

 男性の話を総合すると、自らのDVが原因で、奥さんは今目の前にいる高齢者係の人達によって、シェルターで保護されたようだ。それで返して欲しいと訴えているらしいのだが、素面では来れないので、お酒を飲んで来たと自分で言っていた。言葉が聞き取りにくいと感じたのは、お酒が効いて所々呂律が回っていないせいのようだった。誰も相手にしてくれない窓口に向かって、泣き言を言い続ける男性は、先ほど大きな怒鳴り声で、周りの人達を一瞬驚きと恐怖に陥れた、同じ人物のようには見えなかった。

 男性の話はまだまだ続き、今度は、奥さんが居なくなったので、家の中のどこに何があるかも全くわからなくて、困っていると言い出した。そこまで聞くと、DVの話は別にして、もう恐い男性ではなく、気の毒なおじいさんという印象に、こちらの気持ちも少し変化しつつあった。それでも、職員の態度に変化はなかった。男性の方を見ようともしないで、皆黙々と手を動かしていた。

 そんな風に話を聞いていると、まもなく申請していた書類の用意が出来たということで、自分の名前が呼ばれたのだった。それで、書類を受け取り、その場を立ち去ろうとしているその時にも、男性の声は聞こえていたが、その時に耳にした言葉が、今でも記憶に残っている。それは「自分の嫁を少しぐらい叩いたって、悪いことだとは思わなかった。」という台詞だった。それは、犯人が取調官に向かって、自分はそれが犯罪になるとは知らないで犯してしまったのだと、半ば言い訳をしているようにも思えたのだった。その口ぶりからすると、男性はずっと長い間、奥さんに暴力を振るっていたのだろう。それが普通のことだと思って。


DV防止法が制定されたのが2001年で、それから何度か改正され今日に至っている。10年前といえば、法としての整備が進み、役所でも本格的に取り組みが進められていた頃かも知れない。そうだとすると、件の男性の奥さんのような人に対して、この法律は救世主だったと言える。

『戦後、女性と靴下は強くなった』らしい。確かに戦前に比べれば、日本の女性の地位はある程度向上しているだろう。それでも、社会全体について考えてみると、諸外国に比べて女性の国会議員の数も少ないらしいし、活躍している女性の数は、まだまだ増える余地があるようだ。最近目にした新聞の記事では、その原因が「家事は女性の仕事」という風潮が根強いことによるらしい。その考えが改善されない限り、さらなる女性の地位の向上は望めないという。

奥さんを返して欲しいと訴えていた人も、テレビで女子ボクシングについて発言をした人も、どちらも高齢だ。その年齢から考えて、戦前生まれの人のようだ。この人達は、女性と靴下が強くなってから随分時間が経過しているのに、依然として戦前の女性に対する意識を持ったまま生きてきたのだろうか。だから、常識だと思って疑わなかったことを態度や言葉にしただけで、それぞれの意味で咎められる結果になった。当人は、どこが悪いのかと内心不思議に思っているかも知れない。あくまでも想像だが。そんなところから、10年も前のあの件を思い出したのだ。

 日本でもさまざまな面で、男女平等の社会になってきてはいるが、家事の面でなかなか平等が浸透しないのは「家の中のどこに何があるかもわからない」夫に、亭主関白などという、男性に都合の良い家庭のあり方の下で否応なく従ってきた、戦前の女性の我慢の名残かも知れない。

 




 




 

 

 


 

 





 

 


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