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水よりも濃く、愛より苦い

作者: kona


五年前の夏、嵐のような女の子と一緒に住んでいたことがある。夏の初めに出会った彼女の名前は、アキといった。

 その日、珍しく酔っ払ってふらふら歩いていたあたしは、自宅のアパートの前で誰かと派手にぶつかった。それがアキだった。衝撃でしりもちをついたアキの、ショートパンツから伸びる白い足があまりにも棒切れみたいで、小学五年生かと思うような幼さだったので、あたしは咄嗟に我に返って言った。

「ごめんなさい! 大丈夫?」

アキは男の子みたいな短い髪をした女の子だった。顔を上げ、謝るあたしを見て少し驚いたような表情をした後──ひひ、と猫みたいな目を細めて笑い、真っ赤に塗られた小さな爪のついた手を、あたしに差し出した。


「大丈夫じゃないから、オネーサン、僕のこと拾ってくれない?」 一体なぜあの時、あたしはアキの手を取ったのだろう。その理由は今でも説明できない。ただ、その夏の夜からおよそ一か月間もの間、アキとあたしは一緒に暮らすことになったのだ。


むくり、と体を起こし、寝ぼけ眼でスマホを操り時間を確認する。午前十一時。いくら日曜日だからって、寝坊のしすぎだろう。あたしは鎖骨までの黒髪をがしがしと掻き、傍らの『ソレ』を足で軽く蹴る。

「ちょっと。あたしのベッドに入ってこないでって言ってるでしょ」

「んー? んんー……」

「起きて。もう朝だから。てゆーか日曜のごはん担当あんただからね。決めたでしょ?」

大きく欠伸をしながらカーテンを開ける。眩しい外の光に思わず目を細めると、ベッドの上でようやく体を起こした少女が、片方がずり落ちたキャミソールの肩紐を直すこともなく、まだ夢から覚めないような声で言った。


「……おはよ。アユミ」

「はいはい、おはよ、アキ」


この奇妙な女の子──アキとの同居生活は、すっかりあたしの日常になっていた。

『ちょっとの間だけ、匿ってよ。僕、行くとこないんだ』そう言ってアキはあっさりと、まさしく猫のように、あたしの家に転がり込んだ。初めは、家出なんて良くないとか、親が心配しているから帰りなさいとか、散々説得を試みた。だけど彼女に何を言っても馬耳東風、質問も説教ものらりくらりとかわされる。結果的にもう面倒くさくなったあたしは、冗談みたいな話だけれど、家事を手伝うことを条件にこの気まぐれな娘を家に置いているのだった。

「……ねー、そろそろ家に帰りたいと思わないの?」

「思わなーい」

 歌うように言いながら、アキはガス台の前に立ちフライパンの上で卵を割る。あたしが貸した白いTシャツに、下はコンビニで買ったパンツしか履いてない。ズボンくらい貸してあげるから穿けと言っているのに、とあたしはもう何度目か分からないため息を零した。


「……何であんた、あたしのとこに来たのよ」

「んー、……謝ってくれたから?」

じゅうじゅう焼ける目玉焼きに水を加えながら、アキはあっけらかんとそう言った。あたしはぽかんとして、あー、ともはーん、ともつかないような声を出した。きっとアキの発言に深い意味などない。あたしの言葉にまともに取り合わず、テキトーなことばかり言うのはアキの得意分野だ。何であんなとこにいたの? という質問に、「うっかりタイムトラベルして、気づいたらあそこにいた」などとしれっと答えられた時には本当に頭が痛くなった。


そうこうしているうちに、調理を終えたアキが冷蔵庫から勝手に缶ビールを取り出した。こら! と言ってもどこ吹く風、既にプルタブを起こしてがぶがぶとうまそうに飲んでいる。

「朝っぱらから何考えてんのよ、あんた!」

「うむ、今日もビールがうまい」

「人の話を聞け!」

ていうか、あんた、そもそも成人してないでしょう。


アキの薄っぺらいからだはどう見ても中学生だ。しかし、飄々として落ち着いた態度は二十四歳のあたしより年上のように見えることもある。歳を聞いてもアキは唇を片方だけ釣り上げて意味ありげに笑っただけだった。その仕草が、あたしのよく知る女にとてもよく似ていたので、動揺した。


アキのことを、秋穂に似ている、と初めて感じたのはいつだっただろうか。 たしか八月の一週目か二週目の夜、仕事を終えてアパートへ帰ってくると、アキがベランダで煙草を吸っていた。酒を飲む上に煙草まで吸うのかこの子は、とあたしは心底呆れたのだけれど、煙を吐き出すアキの華奢な背中を見て、思わず硬直した。

その時初めて、似ている、と思ったのだ。秋穂に。

あたしが部屋の中で呆然と立ち尽くしていると、アキがふいに振り返った。喫煙しているところを見られたというのに狼狽の色ひとつ見せず、煙草を口から離してお、か、え、り、と声を出さずに言った。

こうして見ると、目尻が吊り上がった猫のような瞳も、細い体躯も、赤く塗られた爪も、言うまでもなくその名前も──アキの何もかもがどうしようもなく秋穂と重なって見えて、心臓が凍りついた。どうして今まで、気付かなかったのだろうか。この少女は。


アキは黒いタンクトップ一枚で、下は自分のショートパンツを履いている。闇色の景色の中に、アキの剥き出しの細い腕と、うなじと、足とが白く浮かび上がっていた。


──この少女は、あたしが、世界で一番憎んだ女に似ている。


ふと足元を見ると、煙草のケースが転がっていた。随分昔に何度も見た、黒と白のパッケージ。ピアニッシモ・アイシーン・グラシアだ。間違いない。あたしは目眩がして、ベランダに出て行ってアキを説教する気にもなれずに、へなへなとその場に座り込んだ。


「アユミは、実は僕のこと嫌いでしょう」


水曜日の夜、風呂上がりにテレビを見ながらチューハイを飲んでいたあたしに、アキが言った。本当に唐突だったので、あたしは一瞬何を言われたのか分からなかった。 アキがやってきて、およそ三週間が経った。彼女があたしの家から離れる気配は一向になかった。時々家事を手伝い、一緒にごはんを食べる。癇に障る言動も多いが、何だか以前からずっと一緒に暮らしてきたような気さえしていた。

そんなタイミングで、この発言である。面食らったあたしは思わず壁にもたれかかっているアキを見た。真っ赤なマニキュアが彼女の手の爪に塗られているところだった。

「……何で、そんなこと言うのよ」

動揺して、いつもより優しい声で聞くと、あっけらかんとアキは言った。

「アユミ、時々僕のことを、憎くてたまらないっていう目で見るから」

そんなことない、という言葉は、声になる前に喉の奥に溶けていった。中途半端に開いた口から息が漏れる。

あたしは一回目を閉じて、テレビを消した。途端に八畳間に静寂が降りた。「……別にあんたのこと、嫌いじゃないわよ、あたし。じゃなきゃこんな──見ず知らずの相手を、家に住まわせた

りしない」


あたしはアキのことが理解できなかった。何故、他人の家にいきなり住み着くのか。何故、女のくせに自分のことを僕なんて言うのか。何故、そんなけばけばしい色の爪にしているのか。何故、ばかみたいに肌を露出した格好をするのか。何故、何故、何故……。


それでもあたしは決して、この猫のような、少女のような、少年のような女の子を、嫌いではなかった。


アキは何も言わなかった。黙ってこちらを見ないまま、爪に赤を乗せ続けている。それでもあたしの言葉に耳を傾けてくれていることはわかった。

ぽろりと、呟くような言葉が自然と口から零れ出た。

「でも何だろう、あたし……時々あんたの中に、別の人間の影を見るの」

「……アユミはその人のこと、嫌いなの?」

「うん。嫌いよ。憎んでるの。多分ずっと」

その女は、瞼の裏にいつまでも住みついている。いい子ね、亜由美、と唇を歪ませて、あたしに微笑みかける。

「……そう」

アキはそれ以上、何も言わなかった。ふうっ、とすべて塗り終えた爪に息を吹きかけると、黙ってベッド際に座るあたしのところへ歩いてきた。すとん、と隣に座る。

「アユミは、僕が何でこんな格好をしてると思う?」

「え?」

「別に、男みたいな髪も、赤い爪も、ぺらっぺらの服も、そこまで好きなわけじゃないんだ」

そう言ってアキは自分の前髪をぴょいと人差し指で摘んだ。

「これはささやかな『反逆』なんだよ、僕の」

「反逆」

あたしはアキの言葉を口の中で転がした。

「そう。反逆であり武装。許したくないな、って思う女のひとがいて、嫌がらせをしてやろうと思ったんだけど──相手に直接何かするのはちょっと。でも、攻撃の意思があることは伝えたいわけよ。言外にね」

こちらが何を言っても、いつも意味深に笑うか茶化すことしかしないアキが、こんなに真面目に語っているのは珍しかった。

そしてアキが誰に対して『反逆』したいのか、あたしには何となく分かるような気がした。

こつん、と隣に座るアキの肩に自分の頭を預けてみる。タンクトップに包まれたアキの肩は想像していたよりもずっと薄っぺらくて、本当に子どもみたいだった。硬い骨が額に当たる。白い肌からはどこか懐かしいような、でも今初めて出会ったような、そんななまなましい香りがした。


「あんたも母親が嫌いなの?」


アキは何も言わなかった。


秋穂は綺麗な母だった。二十二で結婚しすぐにあたしを産んだからか、同級生の母親たちよりも幾分か若く、美しかった。そしてそんな自分をよく分かっていて、母親になっても女の香りを捨てていないひとだった。秋穂には、幼く愚鈍なあたしでも分かるほどの、不思議な色気があった。深夜、換気扇の下でひとり煙草をくゆらせる秋穂が、あたしの姿を見つけて、猫のような目を細めながら『こら、亜由美』と唇を歪める仕草は最高にセクシーだった。

『ねえ、お母さん。それ、そんなに美味しい?』

『ん? 美味しいわよ。この煙草はね、チョコレートの味がするの。ねえ、ちょっと吸ってみる?』

ほら、と差し出された白い小さな火のついた棒を、口に含む勇気はもちろんなかった。


秋穂は美しく、どこか危うく、根本的に母親には向かない女だった。

そしてそんな彼女が、温厚で勤勉、真面目を絵に描いたような父との生活に、満足しているはずはなかった。秋穂は父が出張になると、必ず着飾ってどこかへ出かけて行った。黒いワンピース。爪にはシャネルの赤。あたしはひとりでチンした夕ご飯をもそもそ食べた。


それでも、あたしは母を──秋穂を、愛していたはずだった。若く美しい秋穂はいつもあたしに流行に合った服を着せ、髪を整えてくれたし、眠れない夜はいつまでもおしゃべりに付き合ってくれた。怒られることは滅多になかったし、彼女はいつも『亜由美はどうしたいの』とあたしの意思を尊重してくれた。

だから、父がいない夜に秋穂が出かけてしまい、寂しい思いをしても──あたしは彼女を、母親を、嫌ったり憎んだりするなんて、そんなことは考えもしなかった。だってあたしはこの人のお腹から生まれて、十何年も一緒に暮らしてきたのだから。 だけどあたしが十九になった年、秋穂は死んだ。乗っていた車がトラックと正面衝突したのだ。運転席に座っていたのは、あたしも父も知らない男だった。その時初めて、ああ、あたしは母親に裏切られたのだ、と、明確に思った。秋穂はあたしたちを、ずっと欺いていたのだ。緩やかな失望は次第に憎しみに変わった。冬の朝、土の地面に薄く張った氷をそっと踏んだ時のように、あたしの心を泥水が侵食していった。


秋穂の死からすこし時間が経ったあと、墓の前で、あたしはざまあみろ、と思った。アバズレのあんたにはお似合いの幕引きだ。あたしはあんたが、きっとずっと昔から、大嫌いだった。

憎しみを自覚したあの日、あたしは母親というものから、一切決別したはずだった。秋穂のことを思い出したくなかったし、自分とあの女の血が繋がっているのだと考えることすら嫌だった。けれどそれから五年も経った夏、今更秋穂の亡霊があたしの前に現れたのだ。秋穂にそっくりな笑い方、赤い爪。

猫のような瞳。


アキは一体何者で、どうしてあたしのところへやって来たのだろう。


夏の終わり、些細なことで、アキと口論になった。土曜日の夜だ。きっかけは覚えていない。多分下らないことだ。いつもならひときしり文句を言えば気持ちは収まるのに、今日はどうしても突っかからないと気が済まなかった。そういう時ってあると思う。女の人は特に。別に二日目ってわけじゃなくても。

「何よあんたなんか! 居候のくせに偉そうに! 出てってよ!」

思わずあたしが叫ぶと、アキは一瞬傷ついたような顔をして、ふっと目線を下げて、踵を返し、そのまま本当に玄関から出て行ってしまった。

ばたん、と閉まるドアの音を聞いて、あたしは肩で息をしながら、ぐしゃりと頭を掻きむしった。ベッドの脇に座り、しばらく呆然としていた。呆然として、それからあたしは泣いた。涙が目の縁にじんわりと滲んできたかと思うと、ぼろっと頬に零れ落ちる。泣いていることを自覚すると、もっと泣きたくなった。しまいには、ううう、うううう、と子どものような呻き声を上げて、思い切りしゃくり上げて泣いた。

あたしは何で泣くんだろう。だってあたしは本当は、アキのことを恐れていた。心の奥底では出ていってほしいと思っていた。嫌いではないけれど、どこかで怖がっていた。

あまりにも秋穂と似通っているアキが恐ろしかった。


でもだからこそ、あたしはアキを傍に置いていたのかもしれない。


アキが、あの秋穂の亡霊のような彼女が、秋穂と同じではないことを、確かめたかったから。


どれだけ時間が経ったのか分からない。気づいたら、玄関の扉が開いて、しれっとした顔でアキが戻ってきた。そして当たり前のようにあたしの横に腰を下ろすと、冷蔵庫から取り出した缶ビールをごくごく飲んだ。

「……あんたね。少しはバツの悪そうな顔くらいしてみなさいよ」

「うわ、アユミ、ひっどい顔」

「うるさい」

ごつん、とアキの頭にげんこつを落とす。いてて、と大して痛くもなさそうにアキが言う。あたしは俯きながら呟いた。


「……ごめんね」

「こっちこそ」


お互いに言い合った後、あたしたちは顔を見合わせた。三秒も経たないうちにアキが噴き出した。ヒーッ、ヒーッ、と下品な引き笑いをする。あたしも何だかおかしくなって、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、つられて笑った。


「──ねえ、アユミはまだ彼氏とかできないの」

アキの質問はいつも唐突だ。いや、あんたは知らないだろうけど、一応いるから、とあたしはティッシュで鼻をかんでから答えた。

「……遠距離だけどね。大学は同じだったけど、彼、地元で就職したから」

「へえー。名前は?」

「光紀」

「……ふむ。コウキ、ね」

そう言うと、アキは何故か感慨深そうな顔をしてみせた。何その顔、と言うと、アユミみたいな地味女でも彼氏がいるんだなあと思って、と生意気なことを言ったので、頬をつねってやった。

「……ねえ、あんたさ。本当はどこから来たの?」

あたしは頬をつねった指先でそのままアキの横髪をすくって、その耳にかけながら聞いた。何秒かの沈黙のあいだ、アキはその猫のような目でじっとあたしを見つめていた。まるで赤ん坊のような、ひどく無防備に澄んだ瞳にどきりとする。やがてアキが口を開いた。


「……ここよりもずっと遠いところだよ」


そう言ってアキはあたしを抱き締めた。皮膚から直に、アキの体温が伝わった。アキの体はあたたかくて、骨ばっていて、薄い。今にも消えてしまいそうなくらい儚い。それでもアキは、驚く程強い力であたしを抱き締めていた。そして、ごめんね、と小さな小さな声で、あたしの耳元で囁いた。


「……秋穂?]

思わず漏らしたあたしの声に、アキは息を吐いて、そして腕を離してあたしに向き直った。

「……僕はアキだよ」

そう言って、どこか切なそうに笑った。



その翌朝、目覚めるとアキがいなかった。まるで最初からそんな人間なんていなかったとでもいうように、彼女はあっさりとあたしの前から姿を消した。

アキが残していったのは、真っ赤なマニキュアだけだった。あたしはそれを両手で包み込んで、少しだけ泣いた。



「亜由美ー、ただいま。具合どう?」

「おかえり。平気だよ、光紀は心配しすぎ」 いや当たり前だろ、もうお前だけの体じゃないんだから。

そう言う夫にあたしは小さく笑った。


あたしは遠距離恋愛をしていた彼と二十七で結婚し、今は彼の地元で暮らしている。お腹には子どもがいて、今は妊娠五ヶ月だ。

「そういえば今日ね、病院行ってきたの。そしたら、女の子だって」

「えっ! ほんとか!」

ぱあっと顔を輝かせる夫は、ソファに座るあたしの横にゆっくりと腰を下ろし、大分大きくなったお腹を撫でた。「うわー、娘かあ。嬉しいなあ。いや男でも女でも、どっちでも嬉しいけどさあ」

でれでれしながらぱぱでちゅよー、なんて言っていた夫は、あっ、と声を上げた。

「どうしたの」

「名前。いいの思いついちゃった」

「何、どんなのよ」

せっつくあたしに、夫はこほん、と咳払いをしてから、誇らしげに言った。


「亜由美の『亜』と光紀の『紀』、合わせて、『亜紀』っていうのは?」


亜紀。あき。アキ。


何か言おうとして開きかけた口が、そのまま止まる。目を見開いてフリーズするあたしに、光紀がどうした、気に入らなかったか? なんて聞いてくる。


五年前の夏。嵐のような女の子と出会った。映画のフィルムを巻き戻すように、あの頃の景色がよみがえる。


どこから来たの? ──ここよりもずっと遠いところ。


アキがいなくなった後、あたしは母に、秋穂に、ずっと謝ってほしかったのだということを、すとんと理解した。あたしは秋穂に心から、謝ってほしかった。あたしを傷つけたことを。あたしを裏切ったことを。ずっと謝ってほしかった。ただ一言そう言ってくれさえすれば、本当はあたしはいつでも、あの母親を許すことができたのだ。それをアキが気づかせてくれた。

あの最後の夜、ごめんね、と呟いたアキに、あたしは救われた。まるで秋穂がそう言ってくれたような、そんな気がしたから。


あたしの苦手な真っ赤な爪。男の子のような髪。露出の多い格好。それらすべてが母親へのささやかな反逆であり、武装であると言っていた彼女。


アキの言っていた言葉のひとつひとつが、今更電流のように、あたしの脳を貫く。

何であたしのとこに来たの、と聞いたあたしに、アキはこう言ったのだ。


──謝ってくれたから。


ふっ、ふふふ、とあたしは笑った。夫は亜由美? と怪訝そうにこちらを見ている。笑っていたはずなのに、いつの間にかあたしの目には涙が溢れてきた。ぽろぽろ頬を伝うそれに、夫がぎょっとし、困惑した顔をする。


ああ、なんだ、とあたしは唇を歪めて目を閉じた。あんたあたしに、謝ってほしかったの。あたしが秋穂にそうしてほしかったのと同じように。


あたしはそっと自分のお腹を撫でた。ねえ、遠い将来、あたしはきっとあんたを傷つけてしまうんだね。それであんたは、あたしを許せないと思ってしまうんだね。これから先、あたしたちの間に何があるのかは分からないけれど。ごめんね。ごめんね。


結局一度は、どんな母娘も傷つけ合って、どんな娘だって、母親を憎まずにはいられないのかもしれない。そのからだを巡る赤が、繋がっていたとしても。繋がっているからこそ。──だけど、それでいい、と思った。それでもいい。あたしは、あんたとどれだけ喧嘩しても、あんたがどんなにあたしを憎んでも、それでもあんたを、ずっと愛してる。


涙を流しながら、あたしはもう一度、愛おしい我が子を思って腹を撫でた。それに応えるように、小さな足が、あたしをとん、と蹴る感触がした。




全ての母は、娘である。そんなテーマで書きました。

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