#2-3
やっとのことで解放されて、俺は自分の部屋の前まで戻ってきていた。
部屋に入らずにコルセア様の部屋から出た時の様に、今度は柵に背を預けて雨よけの端からわずかに見える星空を見上げていた。
時間はすっかり夜中もいい時間になってしまっていて、明日が授業もバイトもない日だったのを感謝したいところだった。
しかし……。
「どうしたものかなあ」
正直なことを言えば、千歳さんの申し出は願ってもないことだった。
この先どういう事に巻き込まれてしまうのだろうとか。自分のやりたいことが出来なくなってしまうのかなとか。そう言った迷いがないと言えばうそになる。
それでもコルセア様の最も近くで、それでいて彼女の配信を見守れるというのであれば、それは自分にとって――、少なくとも今の自分にとって何よりも嬉しいことなのだと思う。
なのに俺はまだ手伝うことを決められていない。
優柔不断というべきか。
自分が家を出ることになったのもこの優柔不断が原因で、そこから抜け出したかったからなのに何も変わってないらしい。
「まあ、返事は待ってくれるって言ったし、ちゃんと考えようかな」
今はとりあえず保留することにした。
そろそろ部屋に戻ろうかなと思っていると、急に隣の部屋――コルセア様の部屋のドアが開いて中からコルセア様が出てくるのが見えた。
先ほどの特注のシャツと下着だけでなく、これまた特注と思わしき白いパーカーとだぼだぼのズボンをはいていた。
しかし、相変わらず翼と尻尾は出たままゆらゆらと揺れているがそこは大丈夫なのだろうか。
自分が柵に寄りかかったままだったことを思い出して、慌てて柵に体重をかけるのをやめて姿勢を正す。すると向こうもこちらに気が付いたのだろう、一瞬驚いた顔を見せるとすぐに配信でも見たことがある笑顔を見せて後ろ手に手を組んでいた。
「恵殿か。先ほどはすまぬな、迷惑をかけて」
「あっ、いや。俺こそ悪かったって思う。部屋に無断で入るのはさすがにやりすぎって今でも思う」
「ん、ならお互いさまということだ。余もドアを閉めなかったのが悪い」
「あー、ありがとうございます」
「あはっ、あまり硬くなるでないぞ。余はもう冷やしておらぬのだからな」
彼女はそう言ってくすくすと笑うのでつられて笑いそうになり、数秒遅れて、彼女が冗談を言っていたのだと気が付いて本当に噴き出してしまう。
「ああ、そういうことか!」
「分かりにくかったか?」
「ははっ、現実で凍り付く事態になるなんて思わなかったから」
「ふふっ、貴重な経験だな。――大家殿の話は終わったのか?」
「え? ああ、うん。終わりました。ちょっと理解し難かったけど」
「そうか。……、やはり、人間のおぬしにはいまだに信じられぬか?」
「えっと、コルセア様がそのままの姿で配信してた事が?」
「あはっ、なんで余の事限定なのだ」
「あ、あれ。違いましたかね」
「もっといろいろあっただろうに。魔法や余の存在のような者をおしえられたんじゃないのか?」
言われてみればその通りだった。
コルセア様のような存在については聞いていなかったが、千歳さんが魔法使いで本当にそんなものが存在するのかという衝撃の方がはるかに大きいのではなかろうか。
俺にとっては彼女が居るという事実の方がはるかに衝撃は大きいが。
何と答えようと悩みかけて、すぐに答えは出た。
「魔法の事は意外ではあったけど、なんともかな。ただ、本当にあるのかっていうのが大きくてちょっと混乱してるだけって感じがする」
「本当か? 何も知らぬ人間としては平然としておるな、恵殿は」
「そ、そうかな」
「うむ。少なくとも、余は初めて見たぞ。普通の人の子であれば驚くのも仕方なかろう?」
「そりゃあ――」
コルセア様だから。
そう言葉にしようとして、相手が当の本人だったからつい遠慮してしまった。しかし、見抜かれているのか、そうではないのか、首をかしげて「そりゃあ?」と聞き返されてしまう。
ちょっとずるいくらいに可愛い。
「コルセア様だから」
「余だから?」
「そう。大好きなコルセア様だから。勿論驚いたけど、怖さとか、未知への恐怖とか。それよりも、うれしさの方が強かった」
「余だから、嬉しかったのか?」
「ああ。うれしかった。コルセア様に会えたことが、恐怖よりもそっちの方が先に出た」
「そ、そうか。モノ好きよな、恵殿は」
「そう?」
「そうだとも。余は人間ではない。巷では人外とかモンスターと呼ばれる化け物だぞ? そんな相手に会って嬉しさを覚える。モノ好きじゃないならなんなんだ?」
「ん、そう言われればそうかもしれない。でも、好きなら気にしないよ、そんなこと」
「あはっ、気にしないか。そうか」
「まあ、怖くなかったは嘘かもしれないけど。それでも知っている範囲には出来るだけ同じように接するのが俺の信条だったから、動揺したくらいかな……」
「……そうか。本当に……じゃな」
「え?」
ちゃんと彼女の言葉には耳を傾けていたはずなのに、最後の彼女のつぶやきがあまりにも小さすぎて聞き取れなかった。
もしかしたら聞いて欲しくなかった言葉なのかもしれない。
配信をしていると、絶対に言わないでおこうと思っている言葉以外はつい口から出てしまうのは往々にしてあることだ。
いつもなら動画の再生機能を戻したり、配信のアーカイブを見たりすれば確認して心にしまうこともできるのだが、現実ではそうもいかない。
なんて言ったか聞き返そうか悩んでいると、くるりと彼女がアパートの階段の方へと向いてしまった。
「それじゃあ、余は大家殿に呼ばれているから」
後ろ手に組んでいた手をほどいて、コルセア様がそのまま行ってしまいそうになる。
普段は見ることのできない彼女の後姿に感動するのと同時に、先ほどの配信にお疲れさまのコメントを残せていないことに気が付いて慌てて声を上げた。
「あ、そうだ、コルセア様」
「?」
「さっきの配信、あんまりちゃんと聞けなかったけど……、えっと、お疲れ様です」
結局、呼び止めたのにもかかわらず、なんて言っていいのか分からず、また敬語でそう言ってしまっていた。
口にできたと同時に、頬が一瞬で熱くなる。
まさか直接言葉でお疲れ様と伝えるのが、コメントで言うより何倍も恥ずかしいとは思わなかったのだ。
コルセア様もコルセア様できょとんとしてしまっているのが恥ずかしさを助長させられてしまう。
この後もなんて言っていいのか分からずにいると、コルセア様がふっと笑顔を作り、「うむ、大儀である」と配信の時と同じ言葉を返してくれた。
そのまま、千歳さんの家に入っていくまで彼女の背中を見守った。
自分の顔がにやけてしまうのを自覚して慌てて手で口元をおおう。
「やっばい、すごい嬉しい」
これほど間近で、それも直接彼女の言葉が聞けるのが嬉しくないはずがない。例えこの出来事が夢であったとしてもだ。
興奮でいてもたってもいられなくなりそうだったので、部屋に戻ろうとすると部屋のノブにコンビニの袋が下げられていた。
そういえば、コンビニから帰ってきて、袋がそのままノブに引っ掛けたままだった。
さすがに冬場とはいえ、冷蔵庫より冷たいわけではない。しまうために慌てて部屋に戻ろうと袋を持つと、袋が異常に冷たいことに気が付いた。
何かと思って袋の中を覗いてみると、こぶし大ほどの大きさがある青白い光を放つ氷がデンと入れられていて、袋の中がまるで冷蔵庫のようになっていた。
それと中には紙が入っていて、紙には丸く少し歪んだ字で「ひやしておいた」と書かれていた。
名前は書いていないが、どうやら氷の色から察するに、コルセア様がドアにかかったままのこれに気が付いて、氷を入れておいてくれたらしい。
思わず二度三度とその袋の中と彼女の部屋のドアを見つめてしまい、そんなことをしている自分に気が付いて噴き出してしまった。
「そっか。なんで俺は迷ってたんだろうな」
ここまで見ず知らずの相手に優しくしてくれる相手に尽くさないなんて、罰が当たりそうだった。
俺は自分の部屋に入りながら千歳さんの携帯にメッセージを送るのであった。