#2-2
慌てて声のしたほうを見ると、いつの間にか千歳さんは帰ってきていたらしくお盆にお茶の湯飲みと急須を乗せて帰ってきていた。
いったいどれほど集中して考え込んでしまっていたのだろうか。
隣に戻ってくるまで音すらも聞こえてこなかった。
千歳さんは俺の前にお茶を置くと部屋の隅に積んであった座布団を崩すと、俺の前までもってきてお茶を継ぎ始めた。
口の中が緊張で渇いてしまっていたが、事態が呑み込めていないので先に千歳さんの言葉に返答することにした。
「夢じゃない、ですか?」
たっぷり数秒悩んで何とかそう返すと、千歳さんは深くうなずいた。
「うん。夢じゃない。画面の先に居るのコルセアちゃんも。君が見たコルセアちゃんも。ちゃーんと現実だよ」
「あれが現実」
「うん。誰かが作った偽物なんかじゃなくて、竜人っていうちゃんとした人だよ。血が流れていて、普通の人間と変わらない生きている人。それは間近で見た君が一番理解できるんじゃないかなって。にゃはは、説明するまでもないよね」
千歳さんの言葉にあの時の彼女を思い出す。
自分に触れていた氷のように冷たいコルセア様の体温と、腹部の上に乗られた時の質量をもった確かな重み。
生物とは思えない体温はしていたけれど、服越しに触れた彼女の肉体は確かに本物の生き物と何も変わりなかった。
この目で見た現実のコルセア様は画面の中のコルセア様とうり二つだった。
何より言動も声も……。何時間もコルセア様の声を聞いているのだ。それこそ親の声よりも聞いたかもしれないというほど、彼女の放送は聞きこんでいた。
姿だけじゃない。俺の目の前に居た彼女の声と抑揚も、間違いなく彼女の物だった。
今更現実じゃないと言われた方が不自然に感じるほどに。
「ね、ちゃんと現実でしょ?」
「そう、ですね。あれは確かに現実のものだったと。少なくとも、経験した俺はそう思います」
信じられない事態だったとしても、ある種の理想が目の前に存在していたのだ。夢だったなんて泣くほど思いたくはない。
だから千歳さんに夢じゃないと言われた時、ほんの少しだけほっとしたのも事実だった。
ただ、現実とのギャップで戸惑っていると、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
「千歳さん?」
「ふふふ、ごめんごめん。君は本当にコルセアちゃんが好きなんだね」
「そう、ですか?」
千歳さんにコルセア様のことが好きだ、と指摘されてもあまり実感はわかなかった。
嫌いか好きかと問われれば確かに俺は彼女の事が好きだろう。それはコルセア様に誓って間違いはない。
でも、俺は流行にのってその中で見つけた彼女が一番輝いて見えたから、彼女を推しているだけだ。
好きとか嫌いとか言葉で表現しようとすると、自分の中では少し違和感を覚えてしまう。
しかし、千歳さんは再び笑うと「そうだよ」と言葉を続ける。
「だって、今、才三くんは彼女の事を夢だなんて思いたくないって顔してたもん」
「それは、そうですけど……」
「にゃはは、思った通りの君でちょっと安心しちゃった」
「安心ですか?」
「うん。話はコルセアちゃんから聞いてる。君が彼女の部屋に押し入ったって」
「そ、それはドアが開いていたからで――」
慌てて弁明しようとすると、千歳さんに手を上げて制されてしまった。
「焦らない焦らない。そこも聞いたからね。でも、コルセアちゃんの事を知っちゃったからにはこれからの事をちゃんと話さないとねー」
これからの事と聞いて心臓を鷲掴みにされたかのような緊張感に襲われる。
今からここを出て行ってもらうなんてことになったら路頭に迷うのなんて目に見えている。というかできれば前の家に戻りたくはない。
慌てて千歳さんの方に向き直る。
「ど、どうすればいいんでしょうか。その、引っ越し先とかが決まるまではここに住んでいいとか」
「うん? ……ああ、大丈夫大丈夫。君に出てけーなんて言うつもりはないから」
「で、出て行かないくてもいいんですか?」
あまりに軽くそう言われてしまって呆気に取られてしまう。しかし、千歳さんはその反応も予想済みだとでもいうように湯飲みに手を伸ばしていた。
「むしろここに住んでもらうための条件が増えた。のかな? ん、元々そのつもりだったからあんまり条件的には変わらないかもしれないけど」
「えっと……」
「にゃはは、君には説明しないとね」
「説明……。えっと、コルセア様のこととかそう言うのですか?」
「んー、それもあるんだけど。どこから話そうかなー」
いったい何を言われるのだろうか。
そんな恐怖にも似た感情を覚えながらも、何を言われるのかと身構える。
「えっとね、才三くん。僕はね、魔法使いなんだ」
身構えていると彼女はそんな言葉を口にしたので、身構えていたような内容ではなく、もっととっぴな話で思い切り殴られてしまった。
「魔法使い、ですか?」
「うん。本当は魔法使いって言うよりも、魔力のある人間が知識を学んで行う力の行使だから、魔術とかのほうが近いんだけど、そこはほら分かりやすいように考えてくれればいいかなって」
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
いろいろな出来事が連続して起きてしまっていて頭の中で整理がつかなくなってしまう。
ライバーのコルセア様は現実世界に存在している本当のコルセア様で、自分が住んでいるアパートの大家さんは魔法使いでそれを知っていた。
正直、俺にとっては最初のだけでも大きい事件であるのに後半も後半でそれなりに大きい話なので理解できない物の波が押し寄せてくる。
多人数で遊ぶネットゲームをしていて、通話が必要な場面が多かったから集まって通話をしたら相手に小学生が混じっていた時のそれに似ている。
目の前で起きているからこそ、信じられない。そう言った感情だろうか。
「お、信じられないって顔だね。奇想天外な事態には不慣れかな?」
「俺は普通の人間ですよ。慣れててたまりますか!」
「お、すごい。ド正論だ」
「……ただ」
「ただ?」
「信じたい、とは思います。千歳さんがこんな場面で茶化すような人ではないと、ここ数か月でよくわかってますから」
「んふふー、そっか。そっかそっか」
俺の答えが気に入ったのか千歳さんはそう言うとにやにやと嬉しそうに笑いだした。
「えっと、それでなんですけど」
「うん」
「信じたいのはそう思うんです。俺も男ですし、魔法とかそう言うの興味はありますから」
「にゃはは、女の子でもあると思うけど、そうだね。男の子のロマン大事だね」
「なので、魔法使いだっていう証拠とかあったりします……?」
「おっ、いいね才三くん。君のこの手の非日常者として鉄板の反応はとても説明しやすい。えっと、ちょっと待っててね、っと」
そう言って千歳さんは一度立ちあがり近くにあった茶箪笥の戸を開けると、中から何か取り出した。
俺の方を見てにやりと笑うと嬉しそうに戻ってきて、パソコンと俺の間に何かを置いて「どーぞ」と言われてしまった。
千歳さんの言葉につられて置かれたものを見ると、そこにはミミズのような線が引かれた、普通の石がのせてあった。
「これは……?」
「手に取ってみてもいいよ」
「はあ……」
言われるがままに手に取ってみる。
それは歪な小さい石だった。手触りはすべすべとしてはいるが、河原に落ちている普通の石となんら変わりない普通の石だ。何か特別なものが掘られているのかと思って、文字を事細かに観察して手の中で遊ばせてみるが、千歳さんの言いたいことはさっぱりわからなかった。
ただ、とても綺麗だな、と感じるだけだった。
「どう?」
「どう、って言われても……。綺麗な石だな、って」
「それが? 本当に?」
「?」
そう言われて、再び石を観察する。
一見何も変わらない、そう思っていたのだが千歳さんにそう言われた瞬間から、徐々に徐々に石そのものが歪な形をしていた事を思い出し綺麗な石とはお世辞にも思えなくなった。それこそ河原に行けばもっときれいな石はたくさんあるだろう。
綺麗だと思っていた自分が信じられなくなる。
「なんで……。こんな歪な石じゃなかったはずなのに……」
慌てて千歳さんの顔を窺うといたずらに成功した子供のように笑っているのが見えた。
呆然としていると手のひらの上にあった石を取り上げ、自分の手元で遊ばせ始めていた。
「ふふ、不思議でしょ。この石にはね、付与された魔力に比例して強く人を惹きつけるっていう魔法を使ってるの」
「惹きつける、ですか?」
「そうそう。才三くんは庭での事を覚えてる?」
そう言われてふと庭に入った瞬間に違和感を覚えたのを思い出した。何かに引き込まれるような感覚がして、千歳さんに手を引っ張られた時には、いつの間にか池の方を向いてしまっていたのだ。
あの時も不思議な感じがしたが、もしかしてあれも魔法と言うものなのだろうか。
「はい、覚えてます。なんか、引き込まれる感じがしたあれのこと、ですか?」
「うむうむ。あれはこの石を少し危険にしたやつなの。池の底にもっと強い魔力を込めた石を鎮めてるから、魅了された人が自分で溺れちゃうって仕掛け」
「えぇ……。じゃあ、俺は死にかけてた、ってことですか?」
「にゃはは、平たく言うとそういうことだねー。普段だったらそんなこと絶対起きないんだけど、君がコルセアちゃんの事を知っちゃったから、たぶん石の魔力に惹かれちゃったんだろうね」
笑いごとの様に千歳さんはそう言った。
しかし、命を落としかけていた。それを自覚させられると笑い事では済まなくなって、顔から血の気が引いて行くのが分かる。
しかも今の説明だと、これからもそんな不思議なことを体験するかもしれないという事だ。
「あの、もしかして、今までコルセア様がリアルで存在するって知らなかったから、普通の生活をしてても不思議な目に合わなかった、という事なんじゃ……」
「おお、うん。それはその通りだと思うよ。頭いい」
「ちゃ、茶化さないでください……」
「あはは、ごめんごめん。まあ、不思議な事に会う人は決まってるっていうのはそう言うのも原因の一つだからね」
「じゃ、じゃあ、その、これから俺は怪奇現象とかに襲われたりすることもある、ってことですか? その、例えがあれですけど、漫画みたいに」
「あ、それは安心して大丈夫だよ」
「そうなんですか?」
「ふっふっふ、もちろんだよ。このアパートにはちゃんと人と魔避けを張ってるからね。吸血鬼みたいに招き入れたりしなければ誰も入ってこれないって寸法だよ」
「な、なるほど……?」
千歳さんの説明を聞いてもあまり理解はできないがとりあえずは大丈夫とのことらしい。
しかし、人を惹きつける魔法という不穏な単語で嫌なことを考えてしまう。
つい画面のコルセア様と千歳さんの顔を交互に見つめてしまう。
千歳さんは池に引き込まれそうになったのを彼女自身の魔法だと言った。原因はコルセア様が人間ではないことを目視したから、とも。
思考が良くない方向に入ってしまう。
もしかしたら、コルセア様も同じように何かしらの魔法を使っているのではないか。
不敬にもそう思ってしまったのだ。
「ふふ、心配しなくてもコルセアちゃんは使ってないよ。あの子は魔力を持ってるけど、僕のとは使い方が違うから」
「そ、そうですか」
「安心した?」
「いえ……」
千歳さんの言葉を否定こそしたが正直なことを言えば、安心してしまった。
彼女がそんなことをしていた事を考えると素直に推せなくなる。どこかでそう思ってしまったのかもしれない。
しかし、仮にそうであったとしても、俺は一生彼女を推すのは間違いない。
そんなことを考えていると、また千歳さんの笑われてしまう。
「ふふ、才三くんは正直だね」
「……昔から、よく言われます。顔に出るって」
「にゃはは、いいところいいところ。全部を隠せる人は隠すのがうますぎて何を抱え込んでるか言われるまで分からないからねー」
千歳さんはそう言ってお茶を飲んだ。
その言葉はいったい誰に向かっていったのだろうか。
あえて追求せずに心の中にしまい込んでしまうことにした。
それよりも、俺には気になっていることがあった。
「あの、千歳さん。聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「うん、なにかな」
「どうして、話してくれたんですか?」
「僕が魔法使いってことを?」
「それも含めて、です」
普段からの言動から察するに千歳さんは俺がコルセア様の大ファンだと知っていて、俺をこのアパートに入居をさせてくれたのだ。そのうえでこのような事態になっても俺なんかに説明しようとしてくれている。どうしてかは知らないけれど千歳さんの中ではそう言うことになっているらしい。
「多少遺恨は残るかもしれませんが、俺は……千歳さんも知っている通り、コルセア様の大ファンです。今回の事だって俺を丸め込む方法はいくらでもあったと思います。なのになんで全部俺に話してくれたんですか」
「んー、ドストレート。まあそれぐらいなら答えても大丈夫かな。まあ、簡単な話、君が適任だと思ったからだよ、才三くん」
「えっと、それはどういう?」
「そのまんまだよー。ばれちゃったのもいい機会だし、この際に説明しちゃおうと思って」
「いい機会ですか」
「さっき言ってた住んでもらう条件が増えただけって話、覚えてる?」
「は、はい。出て行かなくてもいいよって言われたので」
「そう、その話。それでなんだけどね――」
そこで言葉を止めると、今まで手に持っていた湯のみを置いて小首をかしげた。
「君が不法侵入したことを何も言わない代わりに、彼女――コルセアちゃんの身の回りのお世話をしてほしいの」
そんなとんでもないことを言い始めた。
「み、身の回りの、ですか?」
「にゃはは、お風呂とかはさすがに大丈夫だと思うよ? ……たぶん」
「ち、ちがっ! そうじゃなくて! 炊事とか、洗濯とかって意味です、よね?」
もちろん千歳さんの言うようなことも考えなくはなかったが、そんなことをされたら心臓が大変なことになってしまう。
俺自身にそう言う欲望があるかと言われれば、無くはないが、気持ち悪いと言われようとそんなことを考えると罪悪感の方が勝ってしまうたちなのである。
しかし、俺の動揺を知ってか知らずか、千歳さんはくすくすと笑うと言葉を続けた。
「さすがに料理とかお掃除全部とかじゃないけど色々とね? 料理もそうなんだけど、元々竜人族だったから、あんまり人間の生活に慣れてなくって大変らしいから。それに僕は配信の事となるとからっきしだし」
「ああ……」
なるほど、配信のこと絡みでも彼女のお世話をしてほしい、という事だったのか。
それならば確かに間違いなく俺の方が詳しいと断言はできる。
「そうそう! だから、どうせ巻き込まれちゃったのなら、君にも頼みたいなーって」
千歳さんのおねだりに少し頭を悩ませる。
たしかに彼女の手伝いをするという甘い誘惑はとても強い。
身の回りの世話をするのも苦ではないと断言――心の中でだが――していた事もある。実際、彼女の配信活動に協力できるという幸運は筆舌に尽くしがたい。
まるで悪魔と危ない取引でもしているんじゃないかと思うほどだ。
――危ない、取引……?
ふと、千歳さんの話をどうするかを考えて、千歳さんの言っていた言葉を思い出した。
「あの、今思い出してんですけど、いいですか?」
「んー?」
「この話、僕が断ったら、どうなるんですか?」
「ふふ、断るつもりなんだー」
「い、いえ! でももし、断るとしたらどうなるのかなって」
「ふふっ、冗談だよ。んー、でもその場合、申し訳ないけど才三くんにはおうちに帰ってもらうしかないかな……。君の境遇は聞いてるし、危ないことからも守ってあげられなくなっちゃうけど」
つまり千歳さんの言葉を意訳するのなら、断るのは構わないけれど断ったら不思議な目にあう環境からは自分で守れという事だ。
何の力もない一般人がだ。
「そ、そんなことをして情報がもれたらどうするつもりだったんですか?」
「君の指摘はもっともだけど、そこは大丈夫。僕が招き入れた人以外は誰がどう探してもこの家は見つからないからね」
「見つからない?」
「ふふ、僕の魔法は隔離だからね。引きこむのはその応用だから、お茶の子さいさいって感じだね」
「はあ……。えっと、千歳さんたちの情報が他人にばれたとしても、問題はない、ってことですか?」
「勿論だよ。そこらへんはぬかりはない。僕の家では、誰も傷つけさせることはないよ」
やけにきっぱりと、千歳さんはそう言った。
しかし、千歳さんほどの人がそこまで自信をもって断言をするということは、その通りなのだろう。
「要は断ってもいいけど、その後の事は知らないっていう脅しですか」
「ふっふっふ、言わぬが花ってものだよ才三くん。僕だって君にはそんな脅し文句使いたくないからね」
どこか意地悪な言い方をしてるのに、内容が物騒なだけに冷や汗がたらりと背中を流れていくのを止められなかった。
「まあ、君の返事はもうちょっと考えても大丈夫だよ。僕は知り合いの間でも待つのは得意だからね」
千歳さんはそう言って「さて」と立ち上がった。
「僕はちょっと別のお仕事をするから。才三くんはもう部屋に戻っても大丈夫だよ。急に呼び出してごめんね」
そのまま千歳さんは奥の部屋に引っ込んでいってしまった。
つけっぱなしだった千歳さんのパソコンから、うっすらとコルセア様の声が聞こえてきて、つられて画面の中で配信をしているはずのコルセア様に視線を移してしまう。
画面には左右に大きく揺れているコルセア様の姿と、いくつかのお疲れ様のコメントが書かれていた。
いつもなら自分も書き込むのだがさすがに千歳さんのパソコンで書くのは自重する。
このまま残りわずかのはずの配信を見続けていれば、答えは出るだろうか。
結局、配信が終わっても答えを出すことが出来ず、すっかり冷たくなったお茶に手を付けて、千歳さんの言葉とともに飲み込んだ。