常に死を意識していた子供の頃
私が小学校に入学して間もない頃、クラスメイトに向けて「死ね」と言った結果担任教師から三時間ほど説教を受けた事があった。小学一年生の口から出るには刺激的な言葉だったのもあるだろうし、言われた相手が騒いだ事で印象が強まったのもあるだろう。
どうして当時そんな発言をしたのかまでは思い出せないものの、少なくともその時の私は「それだけ嫌な事をされた」という意識があったのだ。なので相手が怒られず自分だけが説教を受けるという事実に納得できなかった。
それでも「確かに死ねってのは言い過ぎたな」という気持ちが僅かにでもあったのか、また怒られるのが嫌だっただけかは定かでないがそれ以降私は特に何を考えたわけでもなく「死ね」という言葉を封印する事にした。
別に命がどうのと道徳的な思考をした結果でない事だけは保障しよう。
それからしばらくして、私は“死”というものの重みを思わぬタイミングで知る事となる。
当時『たけしの万物創世記』というテレビ番組が存在していた。化学だの医療だのと様々な分野に関する情報を紹介していた番組だったと薄ら憶えている。
その番組を当時の私は何も考えず「ほへー」くらいの気持ちで眺めていたものだ。バカな子供がただでさえ学校で頭使ってきたのに夜中にそんな番組見たところで大した吸収もできない。
しかし、一度だけショッキングな回があった。
『富士山が噴火すると火山灰で東京が覆われる』
このような話をしていたと思う。
そして、富士山がいつ噴火するのかは誰にもわからない、と。
当時の私は急激な死への恐怖に飲み込まれた。
大人になった今ならそんな何もかも死ぬというわけではないのだと理解はできる。危険である事に違いはないが首都圏に住まう人々全員が即死するようなものでもなかろう。
しかしあの頃のバカな私はまず火山灰というものが何であるか理解できておらず、「溶岩が自宅付近にまで流れ込んでくる」くらいに考えていた。そのせいで日頃からとにかく死を意識したものである。
今こうして呑気にテレビを見ている時も、学校で授業を受けている時も、休日にゲームで遊んでいる時も、家族で仲良く買い物に出かけている時も。
富士山が噴火するだけで全員死ぬ。
いつ噴火するか、いつ全員溶岩に飲み込まれて死ぬかなんてわからない。
怖くて仕方なかった。自分にとって大切なものが、一瞬で全て損なわれるのだと思うと本当に夜も眠れなかった。
さて、老い先短い老人ならともかく小学生が常に死を意識すると普段の生活はどうなるか。
結論を言えばどうにもならなかった。意識的に普段通りの生活を送り、いつも通りに笑う友達やいつも通りに授業を進める先生を見ては
「ああ、こいつは何も知らないんだな。黙っててあげよう」
「先生は大人だから知っててもおかしくない。覚悟しているんだろうか」
などと思っていたものだ。
そう考える原因が火山灰への無理解だと思うとバカ過ぎて涙が出てきてしまう。
いつ死んでもおかしくないという意識が芽生えても生じる変化は内部に留まる。空を見上げる度に真っ赤な洪水がビル群の向こうに立ち上るような幻覚を見たり、給食を取りに行った際に「もし今噴火したら逃げ場がないな」と周囲をキョロキョロと見回したりする程度だ。
普通に重症な気もするが、ここで親や親しい友達に
「富士山が噴火したら全員死ぬ! 一緒にどっか別の県に逃げよう!」
と呼びかけても相手にされなさそうだと思っていたので、私の死生観の変化は外部に知られないまま膨らんでいった。
まあバカを見る目で見られる結果を免れたのだから、ある意味これも賢明な判断と言えるかもしれない。今の私が小学生にそんなん言われても無視するだろうから。
しかし人間の精神とはストレスから逃れるための思考を常に諦めないものである。
その内私は富士山の噴火という恐怖のイベントに対して、そこまで関心を抱かなくなっていく。
最大の理由は日々のニュースにあった。
殺人事件だの大規模な事故だの他の自然災害だの。
人は死ぬ。その原因は富士山の噴火に限られない。
「富士山が噴火しなくても死ぬ奴は死ぬ」
そんな当然の事実を前にして、死との距離感はそのままに小学生の私は思ったのだ。
「死ぬ時の事を考えながら生きたくねえなあ」
私の中にある「死ぬ時は嫌がりながら死ぬと思うし、そう思いながら死にたい」という考えの根幹はきっとこれなのだろう。とある宗教の熱心な教徒である祖母が「死ぬのなんて全然怖くない」と言っていた時に強い違和感と忌避感を覚えたのもそのせいだ。
そういった経緯もあって、私は今も死ぬ時の事について特に何も考えず生きている。
これは達観ではなく単なる逃避であり、おおよそ私の想像通りに「死にたくない!」と叫びながら私は死ぬのだろう。そうでなければ意識の外側から不意打ちを受けて即死するくらいしか可能性は残されていない。満足しながら死ぬ未来が見えないのだ。
さて、話は小学生時代に戻る。
五年生になった辺りからだ。
その頃には学年全体で「死ね」という罵倒が使われるようになった。
そしてそれを教師陣は何も言わずに見ていた。本当は学年集会などで「『死ね』などと言ってはいけません」くらいは言っていたかもしれないが、少なくとも当時の学年で他人に「死ね」と言った事で三時間の説教を受けたのは私一人だけである。
強い憤りと落胆を覚えた。
私だけが説教を受けたという理不尽だけでなく、「数が揃えば間違いは許容される」という現実が酷く汚らしいものに思えたのだ。更に付け加えるならば、私が小学一年生の時点で通過した点を同級生達が今更になって踏んでいるのが気に食わなかった。
「お前ら、死ぬという事がどういう事かわかってるのか」
「俺がどれだけ死ぬのを怖がってきたと思っているんだ」
そんな気持ちばかりが膨れ上がるも特に言う気にはなれなかった。言ってわかる相手ではないと思っていたし、相手を説得するだけのカリスマ性もボキャブラリーも私には欠けていたから。
というか重ねて言うが、仮に今の私が小学生からそんなん言われたとしても「いや知らんわお前の事なんて」と呆れて終わるだろう。
しばらくして、私も「死ね」という言葉をたまにだが使うようになっていった。
周囲に流されたのかもしれないし、何となれば「こいつなら本当に死んでもいいや」という考えもあったかもしれない。
そんな私が父親の死を受けて何を思ったのか、という話は今回の主題ではないので別の機会にするとして。
やはり死生観として個人的に理想と言える形だったのは周囲に落胆する前の段階、「自分は死と向き合いつつ向き合っていない相手もそれはそれとして受け入れる」という姿勢だったんじゃないかと今になって思う。
この考えなら他者との摩擦も最小限で済むだろうし、私の精神も平穏でいられる。つまり私は子供の頃の方が安定した思考を有していたという事だ。
なので今、私は何かと忙しい毎日の中で「死ぬ時の事」を考えず「今をどう生きるか」という半ば刹那的な基準で動いている。本当ならもっと将来について真剣に考えるべきなのだろうが、私の不出来な頭では精々半年先まで考えるのが計算能力の限界である。
この先どうなるものか、と不安になる度にあの頃の私が蘇って囁きやがるのだ。
「どう生きたって死ぬ時は嫌々死ぬに決まってるだろ」
こんな絶望が支えになるのだから、本当に不出来な頭だし不出来な人生だと思う。