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勇者が消えた後で  作者: 葉月秋子


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29 月の夜


 きれいな満月が、丘から登って来た。

 中天に懸かる頃泉につけるように、わたしとミューさんはゆっくり林の中を歩く。

 茂みは黒く、シラカバたちの幹はほの白く、木の間隠れに蛍の燐光がちらちらと浮かんでは消え、眠そうな小鳥の声と、夜啼く虫の音が混じり合う。

 林を抜ける風も心地よい、初夏の宵。



 近くに飛んできた蛍が、なんだか大きいな、と眼をこらすと。

 え?


 短いドレスを着た、小さな女の子?

 蜻蛉のような羽根を煌めかせて、すいっと飛んで行って、ふっと消えてしまった。

 それを目で追ったミューさんが静かに言う。

「こんな夜には、『古の勇者』の夢が、彷徨い出して来るのです」


 茂みの下で、二匹のハリネズミがくすくす笑っている。

 ボンネットをかぶったガチョウが、雛の行列を引き連れて行く手を横切る。

 小さな王冠をかぶった蛙が、眼の前をぴょん、と跳ねていく。



 そして、木立に囲まれた、泉が目に入る。

 

 満月に照らされ、銀色に輝く泉。


 差し込む月明かりの中に、浮かんでは消えていく、いくつもの幻影。

 白鳥が翼を広げて泉から飛び立ち、大気に溶けていく。

 人魚が泉の端に坐って、竪琴を奏で始める。

 金貨、銀貨がきらきらと輝きながら、落ちて来る。

 見事な白馬がたてがみを振りたてて躍り出る。


「ターニァ殿を歓迎しておるのか、今宵は夢たちも騒がしいようでございますな」


 だが、私は、ひとつの幻影に、釘付け。

 何枚もの幕の向こうにいるような、人影。

 片手を胸に置き、片手を垂らして、横たわっている男性。

 絶対に忘れるはずのない、そのシルエット。


 見つめていると、月光で作られた幕が一枚ずつ剥がれるように、その姿が鮮明になってくる。

 月の色をした雲のような褥の上で眠る、若者の姿。

 月の光が、その穏やかな寝顔を優しく照らし出す。


 ああ、神様、これが幻なんて、ひどすぎます。


 ミューさんが一歩下がり、私は一歩踏み出す。

 叫び出さないように、両手で口を押え、消えないで、消えないで、消えないでと祈りながら。

 足を進め、泉のふちまで進み出る。


 そして。



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