大海の森の魔女
恋愛……? 恋愛……? と思いながら書きました。難しいなあ……。
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もし誤字脱字などあれば、ぜひご報告ください。
『この町の北の【大海の森】にはね、お母さんのお母さんの、そのまたずーっと前のお母さんの頃からこわぁい魔女が棲んでるのよ』
その台詞はエドゥアルトが生まれる以前から人々により連綿と語られてきた。辺鄙で、不便で、出てゆく者が後を絶たない町と呼べるかどうかも怪しいこの地を有名にしているのも、【大海の森】に棲む魔女の存在だ。どうやら魔女の存在は世界中で知れているらしく、数えきれない人間が魔女の実在を探るためにやって来た。そして、一人も帰ってこない。【大海の森】へ赴いた人間は忽然と姿を消すのだ。
だから町で生まれ育った者は決して【大海の森】に足を踏み入れようとしない。たとえ森の浅瀬であろうとも、そこに稀有な獣が生息し豊かな山菜が成っていても頑なに背を向けてきた。
町を出てゆく人間が多いのは、魔女の存在を疎んでいるからだ。そしてあたかも御伽噺として語り継がれるだけの人物が実存し、今も生きているかのような反応を示す町の人間たちをおぞましく感じる若者がいるからだ。
『──だからねエドゥアルト。あなたももし、魔女が恐ろしいのなら。魔女が生きているかのように恐れる町の人間が疎ましいのなら。ここから出て行っても構わないのよ? もう町へ残った同じ年頃の子は、あなたくらいのものだし、他の子は怪我や、病で、町から動けない子ばかり。さぞ退屈でしょう? あなたはまだ子どもだけど、ここを出て行っても問題のないように育ったと見えるわ。あなたはどう思うの?』
義母は常々エドゥアルトの内心を探るように魔女のことを口にした。両親を亡くし、行き場のないエドゥアルトを養ってくれたのは彼女だ。そもそも御大層な名前をつけたくせに両親はエドゥアルトを嫌っていたし、自分の平穏しか視野にない町の住民たちでは子どもを引き取って養育するなど論外で、ひとり生きることになる子どものことなど気にかけもしない。これは野垂れ死ぬしかないな、と覚悟を決めたところで現れたのが養母だった。
町のありとあらゆる人間から【大海の森】の魔女には気をつけろ、と言われ続けた。大人も子どもも、人生そのものを諦めきった町の住民は習慣と惰性だけで途切れることなくやって来る人間たちに忠告しながら、折々に魔女の存在を語り続けた。
町の人間は森に近付きすらしないのに。
外からやって来た人間は、ひとりも帰ってこないのに。
確かに魔女も町の人間も疎ましい。だが、エドゥアルトの養母には彼らのような瑕疵はなかった。出てゆく理由などない。養母に魔女のことを訊ねられるたび、「まだここに置いてほしい」と懇願し続けた。すると養母は決まって、「あらそう?」と軽く首を傾げ、何にもなかったかのように世間話を再開させる。そうしてエドゥアルトは出てゆけと告げられなかったことに深く安堵し、同時に養母が自分の存在をどう捉えているのか、酷く不安を抱えることになって三日は寝付けなくなるのだ。
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エドゥアルトが二十を迎えようかという年の春、養母は珍しく瞳を輝かせて話し掛けてきた。
「ねえ、エドゥアルト。あなた、こっちとこっちならどちらが似合うと思う? このドレスに合わせたいのよ」
いったいどこから取り出したのだと思うほど、養母が手にした首飾りは豪華だった。ふたりの暮らす家は広大なものの質素倹約を心掛けているし、仮にエドゥアルトの知らぬ貯蓄があったとしても、普段家から出ようとしない引きこもりの養母が、どのような手段でこれを手にいれたというのだろう。
「フロレンティーナ、これはどうしたんだ。こんなものどうやって手に入れたのだ? 貴女は家から出ないじゃないか。なのにこの首飾りもそのドレスも、貴女が身につけるのか?」
「ええ、もちろん私が着るに決まっているわ。だって私のものだもの。私のものをなぜ私が着てはいけないの? それよりも、さあ。答えてくれるかしら? このドレスを着た私により似合うのはどちら?」
「…………右の首飾り……、だろうか」
「あらそう? そうなのね。しょうがないわ。あなたの言う通りにしておこうかしらね、今回くらいは」
エドゥアルトに負けず劣らず大層な名前の養母は、エドゥアルトの答えを聞くと一瞬でいつもの世を嘲笑った笑みを浮かべて赤い宝石が眩しい首飾りを雑な仕草で小箱のなかへ仕舞うと、今度は壁にかけられたドレスに残した銀細工の首飾りを宛てがって「ねえ本当にこれでいいのかしら。なんだか地味ではないかしら」やら「まあでもエドゥアルトの選んだものだし、仕方がないって受け入れるべきよね。今回ばかりは特別ですもの」と、独り言なのか話しかけているのか判断に困る言葉を息付く間もなく口にした。
彼女の言葉に応えるかどうか悩んでいるうち、ひとしきり思ったことを言い切って満足したらしきフロレンティーナはさっさとドレスと首飾りをテーブルの上へ放り、エドゥアルトに向き直った。
「次はあなたの番よ、エドゥアルト。これを着なさい。これはね、私があなたのために用意したの。とても名誉なことよ? 誇りに思ってちょうだい。暇つぶしに拾った人間の男にしてはあなたは優秀だし、従順だし、ついでに顔も人間にしては飛びぬけているし、良い拾い物をしたと常々考えていたのよ。人間なんて十年もあればそのうち私を恐れて出てゆくなり、殺そうなんて考えたりするものだけれど、あなたは私を恐れないし、殺そうともしない。まして私を養母と呼び、臆面もなく真名を呼ぶなんて、素晴らしいわね」
フロレンティーナはそんなことを言いながらも浮かべた笑みのかたちを変えたりはしなかった。彼女の笑みは嘲りと怠惰に満ちて、紫の双眸はさっきの輝きがどこへ失せたのだと疑問に思うほど昏い。
押し付けられた衣装一式は世間に疎いエドゥアルトをしてひと目で高価な品だと理解できた。フロレンティーナのドレスとも劣らぬ────というより、光沢といい柄といい、どう考えても共布で設えられている。
「こ、これを俺が?」
「不足かしら?」
「いや、そうではなく! なぜ俺がこんな……高価なものを着るのだ? 貴女も、着飾るなんて今まで一度もなかったではないか!」
エドゥアルトは両親からまともに食事を与えられなかった幼少期を持つが、今ではフロレンティーナの背も、町一番の男の背丈も抜いた。外から来る人間と比較しても高い身長を持っているし、森を散策するフロレンティーナについて回るうち自然と鍛えられた身体はそこそこ引き締まっている、と思う。女のドレス一着を設えるだけでかなりの額がするはずだが、それに加えて男の正装着を上から下まで一式など、フロレンティーナはいくつのゼロが並ぶ金を支払ったのだ。そこまでの金を使って衣服を仕立てて、何がしたいというのだ。
「だってあなたが十年も私のもとを出てゆかないなんて予想外だったもの。はじめから、人間にしてはこれだけ長くいると分かっていれば、もっと早くに用意したわ。なんならあなたを拾った年の魔女集会に連れて行ったわ! まったく、とんだ与太話ね。こんないい歳した人間の男が初めての魔女集会で右往左往するよりも、あのなよなよしい小さな人間の子どもが恐ろしがってぶるぶる震えている様子のほうがずうっと面白いに決まっているのに!」
最後は苛立たしげに吐き捨てて、フロレンティーナは十年前から変わらない美貌をゆがめて「さあ早く!」とエドゥアルトを急かす。
「ここで一度着てみなさいな。まさか不備があるはずもないけれど、あなたにも似合う似合わないはあるでしょうし、万一似合わないとなれば仕立て屋には相応の呪をかけておかなくてはいけないのだから」
「フロレンティーナが……義母の言うことならば、俺は貴女の望む通りのことをしよう。……だが、その、流石にこの年にもなって、いくら魔女たちの集会に連れられても右往左往はしないと思う。期待に添えず申し訳ないが、そこは諦めてくれ。なんなら今から望みの年頃の人間を拾ってこよう。女と男、どちらが良い?」
「あなた私の用意した服には慌てるのに魔女集会には怯えないの? つくづく人間にしておくには惜しい精神構造をしているわ。本当に残念。愛玩用でしかない人間でさえなければ使い魔にでもしたいところね」
「怯えはしない。恐れもしない。フロレンティーナが魔女だということは初めて会ったときから分かっていたし、むしろ自ら森へ入った自殺志願者を愛玩動物として拾った貴女のほうが不思議だ。魔女は気まぐれだとは聞いていたが、人間を拾うのはよくあるのか?」
「まさか。別に人間に限らず、大抵の種族は魔女にとってみれば愛玩動物ですらないわ。あなたの言った通りよ、気まぐれなの、私たち。人間であれ獣であれ混血であれ、基本的にはどうでもいいもの。だけど魔女は気まぐれが多くて──私の場合たまたま気まぐれの対象があなたという人間だった。それだけのことなのよ」
「なるほど、理解した。それでフロレンティーナ。あなたが気まぐれに拾ってもいいと思うのはどういうモノなのだ? 人間? 獣? 混血? 男? 女? 雌雄同体という種も性別すらない種も世にはいるのだと聞いたことがあるが」
「結構よ。あなたみたいなレアものは早々いやしないのに、どうして私の視界に入り、私に話しかけ、私に触れようとする不快なモノを《片付け》ないでおく必要があるの? どうせ一年ともたないでしょうし、余程の数がなければ魔法の糧にもならない存在なのよ?」
嫌悪感もあらわにフロレンティーナはエドゥアルトのための衣服を乱雑に手にした。強く掴まれた上着は高価な布を使い、丁重に縫われた上物にも関わらず哀れにシワを作っていた。ここは彼女の主張を聞き入れ、服を試着することにしよう。だが、彼女曰く人間は論外らしい。覚えておく必要があった。
彼女は【大海の森】の魔女の姿を暴こうとする目的の人間が領域内に侵入したところで、森を囲う形に設置した転移魔法を除いて特に対応しようとしない。目の前に転移してきた人間の生命活動を停止させることに躊躇いはしないが、過激な反応を示すこともない。ただし転移させられた人間のほうが魔女が目の前にいることに恐怖して酷い醜態を晒すので、そうなればフロレンティーナは気分が悪いと人間を《片付け》る。対してエドゥアルトは魔女を前にして騒がず、動揺せず、特に話しかけもしなかったので、生きている。取り敢えず三日ほどフロレンティーナの姿が視界に入る距離をキープしていたら向こうから反応が返ってきたのだ。
あちこちに落ちていた《片付け》られた元人間を森の一角に集めたのはエドゥアルトだが、あの数からして魔法に人間を使おうとすれば本当に膨大な量が必要になるのだろう。だってフロレンティーナはエドゥアルトのずっと遠い祖先の代からここにいたのだから、土に還ってしまった元人間も、獣に喰われた元人間もごまんといたはずだ。それでいて足りないなら、人間は魔法の材料には適さない、ということだ。
「なら混血あたりはどうなのだろう。特に力ある種族であるとか、それならば使えるのではないのか」
「どうでもいいわねぇ。人間よりは効率的でしょうけど、私は別に、魔法に困ってはいないし」
それよりもあなたよ、とフロレンティーナは取り合ってくれなかった。魔女集会に連れられても彼女が望む反応を示せない、それならば連れていく必要はないと説いても聞く耳持たずで、あまり気が進まないエドゥアルトに対し強引に衣装一式を着させて上から下まで微細にわたり確認を続けている。
エドゥアルトとしては集会より彼女のお眼鏡にかなう逸材を探しに行きたくてたまらないのだが、もうあと二、三日後に期日が迫っているという集会までに逸材を探し当てるのは困難だという自覚もあった。次の集会までには────と固く誓ったところで、フロレンティーナはまた珍しく喜色を浮かばせて衣服の出来を褒め始める。
「そうか、良かった。貴女の思った通りだったか?」
「ええ、素晴らしいわ! これならば私の側に侍ってもおかしくない。ああ、楽しみね、エドゥアルト! 集会に連れていけば、あなたは魔女がどんなものか知るでしょうね。魔女というものが人間の価値観と相容れないものだと理解するかしらね? とうとう出てゆこうとするかしらね? 恐怖に駆られ、私を殺めようとするかしらね!」
エドゥアルトは心底愉快でたまらないと笑い続けるフロレンティーナへ微笑み、ひとつひとつの言葉へ相槌を返しながら内心で彼女の想像を否定した。
エドゥアルトは決して【大海の森】の魔女フロレンティーナの傍らを離れない。人間の定命を終えるときまで。養母に追い出させるまで。魔女の気に障るまで。
フロレンティーナはそういったエドゥアルトの心理を理解出来ないし、しない。そしてエドゥアルトもフロレンティーナの心理を理解出来ないし、しないのだ。エドゥアルトはフロレンティーナの望みに従い、生かされることも殺されることも嬉しいから、さていつ自分の命は尽きるのか、楽しみで仕方がないのだけど。
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今日も、明日も、町の人々は【大海の森】の魔女の恐ろしさをやって来る人間たちに語りきかせる。町はそう遠くないうちに消え去るだろう。もはや最後のひとりが息をするだけの、孤独の町なのだから。
だが、幾年幾世代を経ても【大海の森】の魔女の存在だけは世界で噂され、実在を暴こうとする者たちが後を絶たない。過去幾つもの国が興り滅んでも、魔女が森に在ったように。この先も彼女は【大海の森】の魔女であり続ける。その魔女の真名を呼ぶことを呼んだ許された人間がひとりだけ存在していたことは、永遠に人の世の与り知らぬことではあるけれど────。
エドゥアルトとフロレンティーナはこの関係から進むことはないです。
この先、エドゥアルトは人間なので当然老いて死ぬし、フロレンティーナは魔女なので老いず生き続けます。ただ、フロレンティーナはエドゥアルト亡き後は誰も側に置かなかったし、決して気まぐれを起こして誰かを拾ったりなんてしません。気まぐれな生き物である魔女なのに。
正真正銘、エドゥアルトがフロレンティーナにとって最初で最後の特別です。