追う者の穏やかささえ知らず
翌日、エイレーンはミリシャに連れられて森の中へと来ていた。手に持っているのは蔦で編んだ籠だ。どうやら、ミリシャは手先も器用らしい。
「この森は食料の宝庫なの。春には山菜や野苺がたくさん生えるのよ」
「……いい場所ね」
この森にも風が住んでいるのだろう。しかし、住んでいた森の風のように話すことは出来ないようだ。やはり、気が合う、合わないがあるのだろうか。
「あっちには川があってね。魚も釣る事が出来るんだけれど、今はまだ寒さが残る時期だから水仕事はしたくないわね」
「ふふっ……。ミリシャは何でも出来るのね」
きっと、生きていくために必要だった技術なのだろう。
だが、彼女は自分とは違う。比べてはいけない。
「うん……。ずっと一人だったから、必要な事は全部覚えようって小さい時に決めたの」
ふと見せる寂しそうな表情はやはり、孤独によるものらしい。エイレーンが何か声をかけようかと躊躇っているとミリシャは小さな笑みを浮かべる。
「でも、今は寂しくないわ。だって、エイレーンが居るもの」
「……!」
思わず、息が止まりそうになった。
「あなたが来てくれてから、私、毎日が楽しいわ。……朝が来るたびに、また今日が来たのかって思わなくなったの」
静かに響く優しい声は切なさが含まれて、よく透き通って聞こえた。森に吹く風でさえ、黙ってその続きも待っているようだ。
「ねぇ、エイレーン。もし……もし、あなたが良ければ、ずっと居てくれていいのよ。あ、無理強いはしないわ。旅をしているもの。……でも、少しでも長く一緒に居てくれると嬉しいな」
その笑顔に込められているのはきっと、孤独の中で生きてきた辛さだ。彼女も同じ気持ちを知っているのだ。それでも即答はせずに、ただ曖昧に笑う事しか出来なかった。
「さて、しんみりした話はやめて、必要な薬草を摘んで、早く帰って夕飯の支度をしましょう? あ、明日は炊き出しの日だったわ……。私は山菜と茸でも採ってくるから、そっちはお願いね」
「えぇ」
ミリシャが少し離れた場所へと山菜を摘みに行くのを確認してから、小さく溜息を吐いた。
居てもいい、と言ってくれるのは嬉しい。この数日で彼女の全てが分かったとは言わないが、一緒に過ごせたらきっと、毎日が楽しいのだろう。
ミリシャはこの森に良く来ているのか、手馴れたように森の奥へとどんどん入っていき、いつの間にか姿は見えなくなっていた。
エイレーンは地面を見渡しながら、目的の薬草を探していく。
それほど、時間は経っていないはずだが、森の奥から茂みを掻き分けて来る音が聞こえて、思わず顔を上げた。
「ミリシャ? もう、摘み終わったの?」
肥料に使おうと思っていた薬草をある程度摘み終わり、ついでに食べられる山菜などを探していたエイレーンは音がする方へと声をかけ、そして固まってしまう。
目が、合ったのだ。
「っ……」
そこに立っていたのは、紛れもなくこの間、自分を追いかけて来た異端審問官の男だった。男の着ている服は所々、土で汚れて破けていた。
長い沈黙の後、先に声を発したのは彼だった。
「…………生きて、いたんだな」
その言葉はどこか似合わないほど穏やかに聞こえた。
「……何よ。ここまで追いかけて来て……それ程、私を捕まえたいの!?」
エイレーンは一歩、後ろへと下がる。
「時間が経てば経つほど、あの村で起こった出来事は君の罪とされ、裁かれる。一緒に来い。主張する意見を持っているならば、伝えろ。俺の目がある限り、嘘は真実にされることはない」
言っている意味は何となくだが、自分の主張を嘘か真か見極める、という風に聞こえた。
だが、エイレーンには、「異端審問官」そのものが信じられなかった。
「あなたを信じろと言うの? そんな言葉を信じる魔女がどこにいるのよ。あなたは魔女の敵よ。敵を信じる人なんて、いるわけないわ!」
エイレーンは籠の中に入れていた薬草を摘まむと、軽く口付けして男の足元へと叩きつけた。
「捕らえなさい!」
投げられた野草は地面に根を張りながら、男の両足に蔦を伸ばし、絡みつき始める。
「……その手はもう、見切っている」
男は背中に隠し持っていた槍をすぐさま構えて、足に絡みつく蔦をひと薙ぎで刈っていく。
「っ!」
「無駄だ。魔法が効かない自分に、武器があれば、不利なのはそちらだと見れば分かるだろう」
男は一歩ずつ近づいてくる。まずい。せめて、魔法が効いてくれればと、この一瞬で何度思っただろうか。
だが、その時だった。
「エイレーン? 大きい声がしたけど、どうかしたの……?」
茂みの向こうから掻き分けてこちらへと向かってくるミリシャの姿を見つけ、エイレーンははっと、我に返った。
「ミリシャ! こっちに来ちゃ駄目……!」
「えっ?」
ミリシャも目の前に立っている男を目に留めると少しだけ、怪訝な顔をした。男もミリシャの姿を見つけると、動きを一瞬だけ止める。
その瞬間を見逃さなかったエイレーンはすぐさま男の横を大きく迂回するようにミリシャの方へと走り出し、彼女の右手を掴むと森の出口へと向かって走り出した。
「え、エイレーン!? どうしたのっ?」
「ごめんなさい、説明は後よ。今は走って!」
ミリシャに気付かれないように、そっと足に負担が掛からない魔法をかける。これで、少しだけ速度が出るはずだ。
出来るだけ、連なる枝がミリシャに当たらないように道を選びながらエイレーンは後ろを振り向くことなく出口を目指す。男にミリシャの存在を知られたくないため、とにかく走って逃げるしかなかった。
しばらく走った二人は、森の出口に差し掛かると速度を緩め、そして立ち止まる。
「っ、ごめんなさい……。急に走って……」
息を整えながら、隣で同じように深呼吸しているミリシャの方を振り返る。
「ふぅ……。大丈夫よ、体力はあるから。……でも、驚いたわ。逃げるように走るんですもの。あっ、もしかして、さっきの男の人に何か嫌な事でもされたの?」
心配そうにミリシャはエイレーンの顔を覗き込んでくる。その仕草に出てきそうな言葉をぐっと、堪えるように息を飲み込み、困ったように笑みを作った。
「まぁ、そんなところね……。前に一度だけ会ったことがあるんだけれど、出来るなら二度と会いたくない人だったの。ごめんなさいね、巻き込んでしまって。まさか、森にいるって思っていなかったから……」
話の内容に嘘はついていないが、彼女に嘘をつくことになってしまった。彼の正体にだけはどうか気付かないでほしい。
気付かれたらきっと、自分が魔女だと知られてしまう。
「そうだったの……。しつこい人もいるのね。……ねぇ、やっぱり怪我が治っても、もう暫く、私と暮らさない? 一緒に居れば、私、あなたを守ってあげられるわ」
ミリシャがエイレーンの両手を取り、微笑みかけてくる。
「……でも、あなたにまで迷惑がかかってしまうわ」
困ったようにエイレーンは笑みを返す。迷惑どころではない。魔女を匿っていると知られれば、ミリシャにだって、罪が被せられるかもしれない。
「大丈夫よ。絶対に大丈夫。私がエイレーンを守るわ。こう見えて、腕っ節には自信あるの」
大丈夫、守る、その二つの言葉が心の奥に深く染み込んでいく。この目の前にいる自分と歳の変わらない少女はどれ程、自分に初めての気持ちをくれるのだろう。
「……ありがとう、ミリシャ」
だが、エイレーンはそれだけしか答えられなかった。
自分が彼女に迷惑をかけてまで、一緒に居たいと思ってはいけないと分かっているからだ。
「追いつかれる前に、帰りましょう。夕飯と、それから明日の炊き出しの準備も手伝うわ」
エイレーンはそっとミリシャの手を離し、帰路の方向へと体を向ける。
「えぇ、お願いね。あ、それなら炊き出しの献立を考えながら帰りましょうか。エイレーンも献立に手を加えてくれる? 献立を目新しくしたいの」
「いいわ。でも、味見はしてね? 料理を作るのは久しぶりだから、忘れているかも……」
小さく笑い合いながら、二人は隣に並びながら歩き出す。ふと、帰り際に森の出入り口の方を見やったが、男の姿はなかった。