現実となる夢の続き
静かな森に、聞こえる音は鳥と木々が呼吸する音だけだ。他には誰も、何も聞こえはしない。
それでも、見る夢は、夢だと分かっていてもおぞましいものだった。
赤々と燃え上がる炎と、人々の泣き叫ぶ声。
全てが崩れ去ろうとしているその光景は手を伸ばしても決して届かないもので、どうすることも出来ずに、その光景を見ているだけだった。
その時、パンッと何かが弾け飛ぶ音が頭の奥まで響き、何とか恐ろしい夢から目を覚ます。体を起き上がらせて、何か冷たいものが頬を伝う。右頬に流れるのは紛れもなく涙だった。
しかし、そのような事を気にしている場合ではない。
再び、パン、パン、と乾いた音が響く。
「……嘘でしょう……。だって、あの結界は……」
小さく呟いているうちに、バリンッ、と大きな硝子の塊が頭上から床へと落ちた音がして、体全身にその衝撃が伝わったかのように鳥肌がたつ。
「村が……!」
魔法で張った結界が簡単に破られたのだ。そのような事、今までなかった。
恐らくこの結界を破ったのは力の強い魔物だろう。魔物にも種類があり、人や動物を食らうものもいれば、植物などの生気を食うもの、人間の魂や魔力を食らうものなど種類は様々だ。
結界を破って、村へと入ったというのならば、この村より下の麓で人を襲って力を得たに違いない。そういう魔物は厄介なため、すぐに退治しなければ被害が更に拡大していくだろう。
エイレーンはベッドから飛び降りて、靴を履き、上着を羽織る。扉の隣の壁にかけていた弓矢を背中に背負って、鍵を開けて扉を開くと外から強く吹いた風に家の中へと押し戻された。
「……っ、どうして止めるの!?」
その風は紛れもない、昼頃に自分の元へと忠告に来た風だった。
『行くな……行くな……。奴らは、どうにも出来ぬ……』
低い声がその場に響く。どこか震えているようで、焦っているようにも聞こえた。
『奴らはお前を……悪だと言う。お前を化け物だと言う。……そんな奴らを助けるな……』
「だから、見過ごせって言うの!?」
自分が村人からどう思われているかは知っている。それでも、自分が行かなければ、あの村に被害が出てしまうかもしれない。
魔物という生き物は普通の人間では倒せないのだ。例え、息の根を止めたとしても、すぐに浄化の炎で焼き尽くさなければ、彼らは周りの魔力を引き寄せながら再生するし、魔物の死体の匂いに誘われて、新しい魔物が来てしまう。そうやって、魔物の世界は循環している。
だが、それを知っているのは「魔物」という存在を認めている者だけだ。村人のような魔力のない一般人は知っているはずがない。
「……ねぇ、風よ。あなた、本当はここへ何が向かってきているのか知っていたわね?」
問いかけには答えず、風は静かにその場の空気を揺らし続ける。どうやら肯定らしい。
「どうして黙っていたの!? ちゃんと、何が来るか教えてくれていれば、事前に対処出来たかもしれないし、村が襲われることもなかったわ!!」
『……エイレーン。それはお前の驕りだ……』
悲しみを込めた声で呟く。
『奴らは愚かだ……。お前が助けても、意味はない……。誰かに自分の負を押し付けなければ、生きられない、悲しい生き物なのだ……』
悲しい生き物。確かにそれは分かるが、その中に自分も入っているのだろう。
「……知っているわ、そんなこと」
エイレーンは一歩、強く踏み出した。
「でもね、最悪な事態になると分かっていながら、それを見ないふりする方が、私にとってはよほど愚かなことなのよ」
恩を着せたいのではなく、助けたいだけだ。脳裏によぎる叫び声と業火の色を払拭させるためにも。
「そこを退きなさい」
エイレーンの空色の瞳が、風が佇む場所を逸らさずに見つめ続ける。静かな風音がすっと、消え去った。
『……後悔、するぞ……』
その声とともに風も空の方へと昇っていく。自分が頑固なことは長年一緒にいた、あの風がよく知っているはずだが、今回はなぜが素直に引き下がるところが不気味に感じられた。
風が消え去ったのを見届けてから、扉の外へと飛び出し、村がある方向へと走り出す。
夜の森はたまに散歩程度に歩くくらいだが、これほど急いで木々の間を突き抜けるのは初めてだ。久しぶりに心臓の奥が高鳴り、喉から何か出そうな気分だ。
……どうか、何も起きていないで。
今まで生きてきて祈ることなんて、片手で足りるほどだろう。
だが、神がいるならば、どうか叶えてほしいと思う。何もなければそれでいい。自分が「悪」だとしても、何もなければそれでいいのだ。ふと、鼻先に嗅いだ事がある臭いがかすめる。
「っ……。これって……」
まるで、暖炉の煙突から逃げていく煙のように焦げ臭い。だが、臭いだけではなかった。今は真夜中のはずなのに道を進めていくたびに、視界が明るくなっていくのだ。
もう、頭の中では分かっていた。自分の脳裏から離れないあの光景が現実のものだと。
森を抜け出て、息を切らしながら緩やかな坂の上から村を見下す。高々と燃え上がる炎は空に向けて黒い煙を吹いている。まるで昼間なのではと疑う程、明るく、そして全てが見えた。
「そんな……」
瞬きをする事も出来ずにその場に立ち尽くす。夢が現実になったのか、それとも現実のような夢なのか。しかし、そのような朦朧とした考えも、甲高い叫び声によって現実に戻される。
緩やかな坂を跳ぶように一気に下りて、村の中へと入っていった。炎で焼かれる家々は確かに自分が昼間に通った道に建てられていたものだ。
「うあぁっ!!」
叫ぶ村人の男の足に犬のような四肢に角が生えている魔物が噛み付いていた。
「っ!」
弓矢を構えて魔物の頭に狙いを定める。そして、右手を弓から放した。矢はただ真っ直ぐに魔物の頭に突き刺さり、そのまま家の壁へと魔物ごと刺さった。
「ひっ……」
男は突然の出来事に悲鳴を上げたが、矢を放ったのがエイレーンだと知ると、さらに脅えた表情を見せる。
「何をしているの!? 早く、逃げなさい!!」
その叱責に男は後ろに下がりながらも何とか立ち上がり、走りだした。それを見届けてから、指を一回鳴らす。家の壁へと矢ごと突き刺さった魔物から火が燃え上がり、すぐに灰となる。
一人救ったところで安心は出来ない。自分が張った結界を破ったということは、あの魔物一匹だけではないだろう。恐らく、この魔物は群れで行動する奴らのはずだ。
この村の人口は多くはなく、家自体も少ないが、村の中心から離れて家を持つ者もいる。村の中心の方に人が多いため、魔物もこちらに多いだろうが、念のために中心から離れた場所にも見回りに行った方がいいだろう。
「誰かぁぁ!」
細い路地裏から声がして、すぐさまその道へ入ると、路地の角にいたのは昼間に自分に向けて石を投げていた少年だった。
少年は空の木箱に隠れていたのだろう。その木箱は魔物によって、壊されかけており、あと少しで大きな穴が開く寸前だった。
すぐに弓矢を構えたが、少年はエイレーンの姿を見つけると悲壮な顔をする。
「い、や……助けっ、助けて……!」
少年は殺されると思ったのか、目をぎゅっと瞑った。彼は、自分に向けて石を投げてきた。
だが、傷つけられたとしても、それを同じ代償として返すべきではない。エイレーンはただ静かに矢を放した。風を切り、矢は魔物の頭へと刺さる。
「燃えなさい」
魔物から勢いよく炎が上がり、灰へと変わる。それを見届けてから、少年に背を向けた。
「……どうして……どうして、助けたんだよ!」
後ろから、少年のか細い声が聞こえた。その言葉に、一瞬だけ立ち止まる。
「俺は、あんたに……石を投げたのに……!」
少年は先ほどよりも泣きそうな顔をして、拳を握り締めている。「魔女」だと疎んじていた者から助けられれば、自尊心に傷が付くだろうと、分かってはいた。
「……それは、あなたを見殺しにしていい理由にはならないわ」
ただ静かに答える声は、轟々と燃える炎にかき消されることはなかった。たとえ助けたとしても、彼がこれからも自分の事を疎むことは分かっている。その時だ。
「あ、あの! ……ありがとう」
後ろから、年頃の子どもらしい声でお礼を言われたのだ。思わず口元が緩みそうになるのをぐっと我慢して、しっかりと前を見据える。
「あなたも早くここから逃げなさい。出来るだけ、頑丈な家の中へ入って、高い場所に隠れているのよ。両隣にある家にももうすぐ火の手が回るわ」
それだけ告げて、その場から去った。村人から、ありがとうと言われたのは初めてだった。
しかし、嬉しいと感じる心に余裕は生まれなかった。冷静さを保っているように見えて、心の中は焦っていた。一匹ずつ倒していっても、手が回らなかった方に被害が出るからだ。
……焦ってはだめよ。確実に、でも村の人たちの被害が出ない方法を見つけないと……。
深く息を吐いて、村の中心の広場へと立つ。数本の矢を握り締め、言葉を紡いでいく。
「あなた達は聖なる矛よ。この村に邪悪をもたらす者達に罰を与える矛よ」
矢を端から端まで撫でると、光を帯び始める。弓に矢を構えて、真っ黒な空へと向けた。
「今こそ、邪悪なる者に業火の罰を下しなさい!」
ぱっと放された数本の矢はそれぞれが別の方向にいる魔物へと飛んでいき、狙ったものに直撃したのか、魔物の引き攣った鳴き声が違う場所から次々と聞こえる。
……私が守ってみせるわ。
自分を受け入れてくれなくても、出来ることはある。
エイレーンは奥歯を噛み締めながら、次の数本の矢を構えた。