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想い深々と

作者: 澪標。

どこにでもいるような、郊外に住むとある一家の物語。4人家族の雪野家が家族と改めて向き合い、人生について考えていくお話。

~~処は天界にて~~


今日はクリスマスも近づく12月19日。

この期間はクリスマスやら正月やらと、目まぐるしく町の様相が変わっていく期間だ。様相のみならず、人々の心も世相もである。

年末年始のこの期間、忙しいのは下界だけではないらしい。雲の上でも同様に、妖精や天使たちの動きに忙しさが見え始めていた。

妖精たちは魔力を使って雪を降らせたり風を吹かせたりなど、自然現象を司っている。無作為な自然現象も多いが、作為的な自然現象も起こして人々のつながりを保たせたり作ったりもしている。

一方で天使たちは、下界にいる人々のあああって欲しい、こうあって欲しいと願う心を集めている。別に特別なことは必要ない。人々の願いはいつの間にか昇華して空高く昇り、高い高い雲の上の住人たちに届くのだ。

それを天使たちが集め、願いを聞き届けた運命を司る者、すなわち運命の神様は、可能な限りその人の望む運命へと導いていく。そして天使たちとムード作りに奔走するのだ。天使たちは神様の足を引っ張りながらも、健気にお手伝いをしていた。


雲の下にぶら下げてある厚ぼったい白い袋、その中に入っていた水は少しばかり凍っていた。この水が少しでも凍り始めれば、地上の気温も氷点をまたいだという指標となる。

「さて。今の地表の気温は氷点をまたぎ、マイナス1度となった。もう1度ほど下げるべきかな?」

いやいや、まだ早いだろう。前もそうやって無駄に雲を使ってしまったじゃないか。夜に備えて今はこの気温を保とう。

その一方で、タイミングを逸しては意味がないではないかとも思う。そう、まさに今雪を降らせることで、より多くの人々に穏やかな心を与えることができる。やはりそろそろ温度を下げるべきか。

待てよ。意外に少ないこの雲の量では後で足りなくなるかもしれない。そしたら雲はどこから持ってくる?難しいところだ。

思い切って雪を降らせようと考えをまとめた。その時ふと気づいたのだが、先ほど苦心してかき集めた雲は明らかに減っていた。こちらのことなんてお構いなしの天使たち、妖精たちの仕業だ。

「君たち。勝手に雲をちぎらないでもらえるかな?」

「はあい!」

やれやれ、雲をちぎって遊んでいたようだ。全く油断も隙もない。風を回して、また雲を集めてこなければならない。

こんなことをしている彼女たちだが、普段はちゃんと私の手伝いをしてくれている。………曲がりなりにも、だが。

しかし、結局彼女たちの力なしに私は何もできない。人々の気持ちを集めることができるのも、雪を降らせたり空気を冷やしたり出来るのも、全て彼女たちのおかげなのである。下界にいる人々に小さな心の変化を与える事を可能にしているのだ。

そんな努力の甲斐もあってか、町に和やかな雰囲気が満たされていく。きたるクリスマスのために。少し明るい未来のために。

完結に言ってしまえば、運命の神様は『ある事象の変域のうち、より良い選択肢を選ぶ』ということをしているのだ。これは人間の世界ではしばしば統計学の分野で『ブレ』、『ズレ』などと表現されるものである。ただの人間がみれば、それは偏っているようにしか見えない。

世間一般で使われる『奇跡』、『運命』といった事象のほとんどは私が司っている。そうすることこそが、人々のつながりを形成していくきっかけとなる。

徐々に陽の沈み始めた下界を見渡す。町を行き交う人々の表情は穏やかだ。子どもも大人もカップルも一人者も、いつも以上に幸せそうだ。

「さて、そろそろ雪を降らせようか」

条件は整った。人々の願いを叶えるために、人々の心を動かすために。この趣深き雪を降らせよう。時間も位置もちょうどいい。

神様はおもむろに白い箱を開け、光り輝く粉をまいた。雲にそれがつくと、はらはらと美しい六花が舞い降りていった。

「………さて、しばらく様子を見よう。悪い方に傾かなければ良いのだけど」

私の手元にも水の花が咲く。雲から降りては下界へと降りていった。それは水の妖精が好んだ美しき形状。揺るぎなき完全数がなし得る、瑕瑾なき姿。


第1章 雪野家の平凡な日常


そんなことが行なわれていることを、当然だが下界の人々は知らない。単なる自然現象として真っ白な雪が降り始めた都会。ここでもまた、表面化しない忙しさが人々を奔走させていた。

とあるビルの窓の中。足を止めずせわしなく働く人々。その中で、上司にこき使われている男性が一人いた。

「こっちの仕事は誰が請け負ってた!?田中、竹下にここに戻って来るよう伝えておけ!宍戸、お前はデータ処理に専念しろ!

ったく………、くそ忙しいな。雪野、悪いがこっちの仕事から頼む!」

「はいっ!」

どこかのビルの、白髪混じりの特徴のないサラリーマン。先輩の右腕として使われる機械のような人間だ。特に重要な役職に就いているわけでもない彼。だが、それは社会から見た一辺に過ぎない。

彼は立派に一戸建ての家を持ち二人の子どもを持つ父親である。堅実だが趣味のないことが悩みで、唯一子どもたちや妻の笑顔を見ることが楽しみとなっている。家族で外出や外食をする度に明日頑張る力が湧いてくる。だから働けるんだ。

そんな彼の家、雪野家。なんの変哲もないこの一家に、これから一騒動舞い込むこととなる。


郊外のとある高校の窓の向こう側。

暇そうにしている窓際の地味な女の子がいた。彼女は雪野家の長女、愛。好きな色は黒なため、今日もグレーと黒を基調とした服を着ている。授業なんてばか臭くて聞いてられない部類の人間である。

彼女は先生の無駄話に飽き飽きしていた。時間を無駄にするのは彼女にとって一番の苦痛なのだ。無駄話にはほとんど耳を貸さず、雪の降り出しそうな空を眺めてボーッとしていた。

「―――ということで、来年も元気で出てこいよ。先生からは以上だ」

ホームルームは何ということもなく終わったようだ。今日は先生の無駄話少なかったな。有難い限りである。

ひとまず今年の授業はこれでおしまいか。大したことやってるわけじゃないんだから、もっと授業やれば良いのに。光陰矢の如しとは良く言ったもの、時が経つのは早いわ。

明日からは冬休みとなる。別に休みなんていらないが、学校のカリキュラムがこうなのだから仕方ない。今日は早く帰れるから、さっさと家で寝ようかな。

教科書、筆箱をまとめて帰る準備を整えた。教室を出て放課後の冷えた廊下を歩く。結露した窓に目をやると、淡い日差しを遮断する灰色の雲が見えた。

外を見ると、雪が儚く地面については溶けていった。その様子は初冬を思わせる。

「(雪だ。………なんだか綺麗)」

ぼんやりと窓に映るのは私の姿。黒目、黒髪、鼻はやや低い特徴のない顔。恋愛関係には乏しく好きな子もいない。そのため大して身だしなみにも気をかけたことはない。

でもまあ一人ってこんなに気ままだし、相手の顔色を伺う必要がないため自由で楽しい。やりたいことは自由にやれる。ただ、窓に映る私の顔は果たして満足している者の表情だろうか?

ふと横に目をやると、廊下の向こうから誰かが歩いてきた。それは弟のテツとその友達ナオだった。

「あらテツ。それにナオも。これから部活?」

ナオは緊張した様子で言う。

「はいっ。テツ君と一緒に部活に行く途中です」

テツは軽くうなずいた。

「ふーん。寒いから怪我しないようにね、二人とも。こんな寒いのに良くやるわ」

特に意味のない、差し当たりのない言葉。私は部活になんて別に入りたいとも思わない。何が楽しいのかわからないからだ。

そんなことを考えていると、冗談めかしくテツがこう言った。

「あれ、もう家に帰るの?俺がやりかけてるゲームに足を引っかけないよう気をつけて」

テツは早起きで、ものぐさな私より遥かに早く身支度を整える。しかし時間の使い方は下手で、ロープレやシミュレーション系といった時間のかかるゲームを短い時間にやろうとする。無計画さはお母さん譲りか。

「またあんた、ゲームやりっぱなしで家出たの!?少しは時間の使い方覚えなさないよ!」

「わかったわかった、これからは気をつけるから。じゃ、そろそろ部活行くかな」

何かを言いたげではあるが話さないナオ。話せない、が正しいだろうか。その様子を見る限り、ナオは何か言いたげな様子であった。

前に心理学の本で読んだのだが、男の子はわりと頻繁に言葉が詰まるそうだ。それは脳の使う位置が局所的だかららしい。しかし女性の視点から見てみれば、いつまでも返事が返ってこないためじれったく感じる。故に私は男の子が得意ではない。

適当に会話を終わらせて、さっさと家に帰ろうと思った。

「さってと。帰って一眠りしようかな~?」

それを聞いて、テツが質問をした。

「今日は図書館で勉強してかないの?姉ちゃん」

いつもはよく図書館で勉強しているが、今日は気分が乗らなかった。勉強は家ではそれほどやる気が出ないし、やれるときにやらないと後で面倒くさい。そのため普段だったら勉強していくところなのだが、今日は寒いため気乗りしなかった。

まあ今日くらいは勉強しなくても良いかな。こういうサボりたいときのための勉強の貯蓄だ。"蓄勉"とでも呼ぼうか。

「今日はなんだか疲れたし、とりあえず帰って寝るわ」

別に疲れるようなことをしたわけでもないのに疲れたというのは、私の悪い口癖だ。癖だからなかなか治らないものである。

しかし疲れたという言葉は、勉強をやらない口実としてはなかなか便利である。私は気分の乗らないときには勉強をしない主義だ。しかし勉強以外に特にやることもないし、基本的に寝ることとなる。

「じゃ、俺たちは部活を頑張るとするか」

そう言ってテツはナオのほうを見る。ナオははっと気がついて、適当な相づちを打っていた。

「あ………、うん。そうだね」

「部活もいいけど、勉強も頑張んなさいよ。あんたたち」

そう言うとテツは痛いところをつかれたといった表情を見せ、面倒くさそうに返事を返した。

「わかってるよっ」

ナオは素直に前回の迷惑をやんわり詫びた。

「この前みたいにならないように、頑張ります!」

「おう、この前ね」

事は今年の7月頃の前期試験のときの話になる。二人は部活に力を入れていたため、数学をほとんど手つかずで放っておいたらしい。だがさすがにそのままではまずいと、私にすがって助けを求めたのであった。

あのときは仕方なく私が勉強を見てやったのだが、何故まず基礎さえも理解していないのかキレそうになった。………いや、キレてたな。

「良ければまた、勉強を見てください」

「はいはい、いつでも来なよ。じゃ、私はそろそろ帰るから。じゃあね」

切れかけの蛍光灯に照らされた薄暗い廊下。二人の後ろ姿をただ見守っていたが、最後に見たナオの表情は少し暗かった。

「(………?なんかあったのか?)」

そうは思うも、人のことには無頓着な私だ。ナオにそのことを聞くこともなく、正面玄関へと向かった。

下駄箱の辺りまで来たところで、不意に後ろから高い女の子の声が聞こえてきた。

「こんにちは、アネさん!もう帰るんですか?」

背のやや低い、短髪で活発そうな印象を受ける女の子。彼女の名はユカリである。幼なじみであるため付き合いは長い。

「おう、久々~。最近見てなかったけど、勉強の調子はどうよ?」

「ほぼ完璧です。今の調子なら100点も取れそうですね」

「はは、そりゃ良かった。

(けどまた勘違いしてたら困るな~。実力もついていれば良いんだけど)」

ユカリは素直で真っ直ぐな子だ。正直だし誰にだって媚を売らないし、ケンカでも殴り合いをして決着をつけたりと、感情表現がストレートだ。男受けは良いが、女受けはかなり悪い。

素直であるためか、テストはやたら点数が伸びるときと全く伸びないときの二通りがある。現行の試験の流れを考えれば納得ではある。問題の引っかけにかかったり、思い込みによるミスなどが目立つ。

本当はユカリのような要領の悪い子にも点数を取って欲しい。けれど、なかなかそうもいかないのよね。まあこういう子は初々しくて可愛く見えるよなあ。

「一つ助言をしとくよ。問題を全て解き終わったら、一旦立ち止まって一つ一つの問題をもう一度見直す事を心がけておきなさい」

「わかりました。今回は確実に得点しますよ」

「それができると良いんだけど。分からないところは早めに聞きに来なさいよ」

「りょーかいです!でわ、部活がありますので!」

ユカリもテツ、ナオと同様に部活に入っている。彼女は身体を動かすのが好きなためバレー部に所属していた。快活なのは見た目だけではない。

ユカリに適当に別れの言葉をかけておく。

「じゃ、今日も寒いからさ、怪我だけはしないようにね」

そういうと、いつもの全く関係ないいじりが入った。

「近いうちに愛さんのシフォンケーキを食べに行きますのでよろしく!それでは!」

「ケーキ焼けってか………」

こんな適当ないじりが入るのもユカリの特徴だ。私はお菓子作りは出来るしそれなりに得意だが、特に作る事自体好きではない。食べる方は好きだけど、作って食べたいとは思わないのだ。

まあ焼いてやらないこともないかな。クリスマスイブにはテツ、ナオ、ユカリにケーキでも振る舞ってやるとするか。この財政難だというのに、材料費がかさみそうだ。


凛として静かな学校からの帰り道。高校から家までそれほど距離はないため、通学に使っている愛用自転車を飛ばしていた。

途中すれ違う車の音と用水路の水以外に音を立てているのは私くらいか。道路と道路脇に広がる田畑は雪に覆われ、ベシャベシャになった雪が路面を執拗に濡らしていた。

「やっぱり寒いな………」

白くまだ薄明るい12月の冬の空。一度は止んだと思われた雪が、音もなくチラチラと舞って降り始めた。

「うわっ。また降り始めたかぁ。部活の練習大変そ~」

テツとナオのことを思って身震いした。部活のせいで帰れないなんて可哀想になぁ。けどまあ好きでやってるんだし、平気なのか?

私の家はややへんぴな場所にある。辺りには田畑が広がっているのだが、とはいえ家がそれほど建っていないわけでもない。過疎ではないが都会でもないような、そんな土地である。真っ直ぐでない道の分岐の先にある自分の家に帰った。

お母さんがよく使っている自転車が一台足りないことに気がついた。それは、お母さんが買い物に出かけていることを示唆していた。

ポケットの中に手を突っ込み、家の鍵を取り出した。鍵穴に差し込み鍵を回すが、開いた手応えはなかった。どうやら鍵は既に開いていたようだ。

「お母さん、また開けっ放しで………」

家の中に入ると、やはりお母さんはいない様子だった。今朝使ったと思われるお父さんとお母さんのマグカップがテーブルに置かれていた。

暖房はかかっていなかったものの、居間には微かな温もりが残っていた。恐らくお母さんが出掛けたのはそれほど前でもないらしい。

年期の入った石油ストーブにスイッチを入れて冷えた身体を暖めた。続けてインスタントコーヒーに湯を入れ、やや冷えた椅子に座る。空から降り続ける雪を見つめ一服した。

お母さんどこ行ったのかなあ。一応ここらはそんなに危ない地域じゃないだろうけどさ。けど不用心だし、やっぱり鍵は閉めたほうが良いだろう。

テレビをつけると、お昼の特に興味を惹かない番組がやっていた。特に観たい番組もなくあれこれチャンネルを回していたら、入力が変わってテツが今朝やりかけて今まで放置しっぱなしのゲームが続いていた。

「あっ、これか。

それにしても、あいつまたゲームやりっぱなしで。ここらで一発お見舞いしてやんないとわかんないのかなぁ?」

今朝からプレイヤーに放置された主人公が武器を持ち盾を持ち、ただ立ち尽くしていた。ゲーム機本体も結構熱くなってきている。あきれたものだ。

一発かましてやろうとは思うも、このゲームは難易度が高くなかなか良いところまで進んでいるのが見てとれた。これを消したら最低だな………

まいっかと、暇な午後のコーヒーブレイクを楽しむ。お菓子をつまみくつろいでいたら、なんだか眠くなってきた。コーヒーはわりと飲むほうで、もはやカフェインの目覚ましの効力などはないに等しかった。

「ふう~。

(………適当にご飯とか準備しなきゃなぁ)」

お母さんは一人では家事がこなせない。よく失敗するし、一言で言えば抜けているからだ。故に私が家事を手伝っておかないと晩飯が遅れることになる。

炊飯器のかまに湯を張り洗い、米をとぎ、かまにセットする。同時にやかんに水を入れて、麦茶を沸かす。

これでご飯の準備は終わった。麦茶も沸かした。

「よし、これでおしまいっと」

ひとまず作業が終わった頃、どうやらお母さんが帰ってきたようだ。ドアの開く音がした。

「ただいま~」

「あっ、いよいよ帰ってきた。おかえり~」

玄関に行き、お母さんの買い物袋を取る。

「お母さん。いつも言ってるけどさぁ、ドア開けっ放しじゃダメでしょ。誰か入ってきたらどうするの?」

「あら、鍵かけ忘れてたかしら?」

「かかってなかったよ。もう、ちゃんと鍵くらいかけてよね。本当にだらしないんだから」

お母さんに注意を促しながら、買い物してきたものを冷蔵庫や棚に片付けていった。

「あ、そうだ。今度インスタントのコーヒー買ってきて」

「あら、もうなくなったの?」

「それから牛乳がないのと、砂糖はきれかけ。麦茶の素は4回分しか残ってないから。あ、それとマヨネーズも少ないから」

「お母さん覚えきれないわよ」

「そうだろうね。そう思って紙に書いといたから。それとメモ帳は肌身離さず持ち歩くように。何事も忘れる前に書く!」

「はーい」

さて、その後まったりコーヒーを飲んだら、軽い睡魔がやってきた。お母さんは家事が苦手なものの努力はするほうなので、私がいなくてもなんとかこなしてくれるだろう。

とはいっても、皿洗いは3日に一枚のペースで食器を破壊するんだよなあ。食洗機を買えば、きっと長期的には安くあがるはずなのに。なかなか出費が多くて踏ん切りがつかないらしい。早く買ってほしいものだ。

洗濯物については、以前はしょっちゅう洗剤の分量を間違えたりしていた。だがこの前家にやってきた洗濯機くんが優秀なため、母さんにも恐らくは使いこなせるだろう。

麦茶も炊飯も万全。ま、私が寝てても問題ないでしょう。一段落つくと、再び睡魔が襲ってきた。

「ふあ~………、ねむ。一眠りしとくか」

一眠り前の歯磨きをして、いざ布団に入った。今朝の温もりが若干残っていて、至福のひとときを感じさせる。

「あったかーい。おお、幸せ~」

Zzz……


~~再び、天界にて~~


天界では天使たち、妖精たちが安穏と遊んでいた。雲の糸を紡いで丸めたマリを投げたり転がしたりするのだ。

「いっくよー、それ!」

水の妖精がそのマリを投げる。やや逸れたマリを追い、走って追いかける天使たち。

「わあ、飛ばしすぎ~!」

雲について転がる度、雲がマリにくっついていく。それに従いマリはどんどん大きくなっていった。

するとそこに、神様が白い箱を持ってやってきた。天使たちが元気にはしゃいでいるのを見て天使たちに注意した。

「もう少し離れたところで遊んでもらえるかな?今大事なところだから」

神様の言葉は、夢中で遊ぶ天使たちには届かない。

マリはすでに押して転がすほどの大きさになっていた。マリを押して転がし遊んでいたときのこと。

「そろそろかな………」

状況を見計らい、箱のフタを開けようとしていたとき。

「神様~!ほら、マリ大きくなったよ~!」

天使は神様のそばに歩み寄って、大きくなったマリを見せようとした。しかし勢いが余り、誤ってマリを神様にぶつけてしまった。

「うわっ!」

出し抜けに押された神様は、その拍子に箱を落としてしまった。必死に手を伸ばしたが届かず、箱は下界へと落ちていった。

「うわあっ!!」

「大変っ!!………」

「………落っこちちゃったっ!!」

神様も天使たちも息を呑み、水を打ったように沈黙が流れた。まさかあの箱を下界に落としてしまうなんて。非常にまずいことになってしまった。

幸せの箱を失ってしまっては世界が崩壊するかもしれない。それもあの箱一つで、である。まさかのことに言葉も出ない。

「ご、ごめんなさい!!」

「ああ………。まあ、幸いクリスマスまで日があるからね。それまでになんとか探し出せれば良いんだよ」

そうは言ったものの、無くてはならないものに変わりはない。あの箱の代替を取れる物もない。みんな意気消沈した。

「私、今から下界に降りて箱を探してきます」

「そうだね。それが懸命だ」

神様は指揮力を取り戻し、天使たちに指示を出した。

「まず、正確な落下地点の計算をしよう。そして落下地点近くのうち、どの範囲にある可能性が高いのか確率分布を調べてほしい。あとは幸福の濃度を計測してもらおう。3人で協力してこれらを調べてくれるね。後は私がやるから、何も心配はいらない」

神様の言葉は冷静でも、行動は明らかに取り乱しているようだった。おふざけの代償としてはあまりに大きすぎる。

神様も天使たちも、全員気が気でない状態に陥った。あれがないと世界の流れがが無軌道になるからだ。もはや無駄口一つ発せない緊張状態となった。


~~その頃、地上では~~


ポンと、白髪混じりの頭に冊子のような資料が乗る。雪野家の父は上司に軽く注意を受けていた。

「おい雪野、今日はミスが多いな。疲れてんのか?」

「はい?何か間違ってました?」

「これも、ここも。変換ミスや脱字が多い。ま、慌てんなよな。ほれ」

日頃は後輩のケアレスミスを何も言わず修正する先輩に、結構なご指摘をいただいた。それだけ失敗しているというのは見るより明らかであった。

どっと何か重いものが肩にでも乗ったような疲労感が出た。手渡されたのは缶コーヒー。

「どうもすみませんでした」

何故だろう、確かに間違いは多い。疲れているのだろうか?

上司からもらった缶コーヒーを開ける。落ち着いて深呼吸をし、コーヒーを飲んでいた。

「(こんな日もある、あるんだ。とりあえず落ち着こう)」

私は元々完璧主義なところがあり、これほど内容を間違えていたということに気づいてショックを受けていた。先輩の大事な時間を割いてしまったということも、意識してみればショックなことだった。

気分を取り戻し、再び仕事に取りかかろうと思っていた頃。不意に遊んでいた缶コーヒーを握る右手が、柔らかい何かとぶつかった。お茶を運ぶ女性にぶつかっていたのだ。

「おわっ!」

「わ、ごめんなさい!」

ぶつかってしまったためにコーヒーはこぼれ、お互いの服が汚れた。書類も床もコーヒーまみれとなり、凄まじい惨事となった。

「ごめんなさい、私の不注意でした。お仕事増やしてしまってごめんなさい………」

一瞬怒鳴りそうなくらいの怒りを感じた。だが………

このコーヒーは先輩が自分を気遣って買ってくれたもの。それに自分自身にも当然過失はあった。誰が何が悪い、と言うことではないはず。なら自身より立場が低い者の責任にするのは、絶対に間違っているじゃないか。

「落ち着け。取り返しのつかないものでもない」

気が気でない彼女にフォローを入れる。

はぁ、今日はいろいろとダメな日なんだな。そう思って不運を諦めた。

この歳になると私を叱るものも減る。昔は良く叱られたものだが、今では失敗しても大したことを言われないのだ。それは、私が叱る立場になったからか。

失敗は部下のせいにする手前、手柄はしっかり上司が持っていく。私もまた、そんな一人になってしまっているのかもしれない。

だが私は、後輩のミスに寛大でいてやりたいんだ。

「………私の、不注意だったよ」

「えっ!?」

「大丈夫、訂正文を先輩に聞いてもう一度書き直すから。どうせ間違いだらけだよ。このデータを印刷して、お茶を入れてきてくれるかな?」

「はいっ!」


~~各々の時が流れていき~~


日はだんだんと傾いていく。状況も刻一刻と悪い方向へ変わりつつある。

夕方の灰色の空が徐々に暗闇へと変わっていく。夜は近づき街灯が灯るが、それは闇を濡らすような淡い光だった。冬至前の夜闇は深い。

「(うーん………。良く寝た~)」

一眠りした私は身体を起こし、布団から出ようか考えていた。

「さっむ~。………テツたち、まだ部活やってんのかな?」

こんな極寒で外に出たら私ヤバイよ?部屋なのにこんなに冷えてるとは。部屋の中も外ほどではないだろうけど、冷蔵庫みたいに冷えていた。

「寒すぎる………。まるで冷凍食品の部屋みたいになってんじゃん」

寝ぼけ眼で寝る前の記憶を呼び起こす。そうだ、お母さんに家事を任せて寝たんだった。

………待てよ?お母さんに家事を任せて大丈夫なんだっけ?心配になった私はさっさと布団から出て下に降りた。

居間に行くと、お母さんはガチャガチャと音を立てて皿洗いをしていた。

「あら、愛。お米といどいてくれたのね。有り難う」

「………何してるの?」

「皿をどれから洗おうか迷っちゃって。どうしましょ?」

ん?意味がわからないぞ?

また訳のわからないことを言っている。迷うより先に、さっさと上から洗えば良いのに。

「ちっ。もういいからテレビでも見てて」

そう言って強制的に居間に戻した。そして食器たちの無惨な惨状を確認した。

「くっ、私がやっておけば良かったものを………」

まずワインのグラスは金だらいの一番下にあり、重さに負けバラバラに割れていた。食器皿は少々欠けていたりして、薄めのものは真っ二つになっていたのもあった。お父さんのマグカップも取っ手が欠けてしまっている。

「おいおい………」

金だらいの水を抜き、怪我をしないようガラス片を紙袋に入れていった。気がつけば三角コーナーもゴミでいっぱいである。こまめに片付けないと溢れかえってしまう。

ゴミ処理と皿洗いをしたら、ずいぶんと大仕事になっていた。ふとお母さんを見ると、お母さんはお笑い番組を見ながらせんべいを食べていた。その姿にやや苛立ちを感じた。

「とりあえず皿洗いとゴミ処理は終わったから。掃除機がけくらいはお母さんがやってよね」

「これ見てからね」

その言葉にいらっとした私はテレビを消した。

「あらっ」

「何をモタモタしてんの!?今すぐやる!!」

お母さんはトロトロと掃除機がけを始めた。全く、なにかにつけて行動が遅いんだから。さっさと始めれば良いのに。

くたびれてしまった私は、再びあの安っぽいコーヒーを飲んで休憩していた。基本テレビはくだらない内容が多いためつけないのだが、そのときはニュース番組をつけて見ていた。

天気予報によれば、今夜から明日にかけては雪ではなくみぞれが降るらしい。十分雪が降ってもおかしくない気温なんだけどな。

各地のニュースでは、多くの山間部で大雨のため地盤が緩み、土砂崩れが発生している地域があるようだ。また神奈川と埼玉のある地域では送電線が切れてしまい、一部停電している箇所があるらしい。今のところ原因は不明だという。

「なんだあ?なんでこんなことが立て続けに起きてんのよ?」

映像が切り替わる。首都では、電車がデータトラブルのため運転を休止したらしい。何故データトラブルが起きたのか、原因はわかっていないという。交通マヒのため帰れない人々が駅に溢れているという。

「うっわ。かわいそ~」

今日は嫌なニュースが多いらしい。機嫌も良くないため、さっさとテレビを切った。

今は6時か。そろそろ炊飯のスイッチを入れよう。スイッチを入れたので、後は勝手に炊けるのを待つのみとなった。

掃除機のかかる音が耳に入ってくる。良かった、お母さんもちゃんと掃除してるようだ。

どのくらいボーッとしていただろうか。この前読んだ心理学の本の内容を思い返して、頭が疲れたため一段落したところだった。

休憩に入ってからしばらく経ったとき、窓の外に人影が通っていくのが見えた。おそらくテツだ。

「ただいま~」

テツが当たり前だがお父さんよりも先に帰ってきた。………あれ?何か忘れてないっけ?

あっ、そうだ!あいつゲームやりっぱなしだったんだ!ゲームが消えるじゃん!

「お母さん!ストップ!」

時既に遅し、だった。そう、トルネコは掃除機の餌食となってしまったのだ。

「うおわあ~!!!」

実に、へたくそなテツにもツキが回って来ていたのに。かなりアイテムが揃ってたのに。

「ああ、あっけねえ………」

「あらら。ごめんなさい」

テツはがっくり肩を落とした。深くため息をつき、床に伏せ伸びてしまった。泣くでも笑うでもなく、ただ無表情で倒れていた。

「テツ、ごめんなさいね。お母さん悪気があってしたんじゃないのよ」

「………ああ。うん」

しょげる気持ちはよくわかった。確かにそのゲームの難易度は知っていたし、あれだけ上手くいってたのを消されたらへこむな。

一応なぐさめにもならなそうな一言を言っておいた。

「まあさ、気を取り直してもう一回頑張りなさいよ」

テツは動かない。大好きなゲームだっただけに傷も大きいようだ。

でも元はと言えば、朝からゲームを放置しっぱなしのテツが悪い。しかし中断セーブの書き方を知っていながら書かなかった私にも責任がある。

そして元凶はお母さんだ。私が我慢して掃除機がけをやっておけば良かったものを。お母さんには皿洗いをさせとけば良かったんだ。

………いや、そうするとお母さんはワインのグラスで指を怪我してしまうかもしれない。ならいつ、どう判断すれば良かったのか?

人生はゲームより簡単だ。しかしやり直しが利かない。その上向かう方向が漠然としている。しかもゲームの世界よりうんと多種多様な、予測不可能な事故が起こってくる。

だがそれを逆手に取れば、解決法は無限大にある。しかも、大概の失敗では殆ど人生に影響はない。本当は小さな不幸で悲観する必要などはないのだが………


その後もテツはしょげたまま、険しい表情をしていた。やがて晩御飯の時間となると、お喋りもせずに黙々とご飯を食べていた。しかしお母さんはマイペースなため、テツがへこんでいることなんてお構い無しに話をする。

「あら、この金目鯛美味しいわね!」

私とテツは黙ったまま。その後もお母さんはマイペースに一人話し続ける。

「こないだお母さんねえ、友達と一緒に―――」

なんと無神経な人間だろうか。私たちの空気をわかっていないのか?それともわかっててわざとやっているのか?

そんな状態が続き、すまし汁を私が飲んだとき。

「っ………これ………」

私が苦い顔をしてお母さんの方を見た。

「どうしたの?しょっぱかった?」

「………カキは苦手なの!なんでこんなの入れたのよ!?」

お母さんは別段表情を変えるでもなくこう答えた。

「お父さんの好物だからよ。そうね、愛はカキが苦手だったわね。じゃあ、私が食べるから」

お母さんは私のすまし汁を食べ始めた。このことが頭にきた私は、さっさとご飯を片付けた。

「ご馳走さま!!」

イライラが止まらないまま、早々と部屋に引きこもった。自室に戻り、布団の上で天井を見つめ考えていた。

「なんでお母さんああなのかなあ?昔っからあの調子だよね?」

そう、お母さんは物心ついた頃からこんな感じだった。遡れば小学校の入学式のときも、お母さんは着物を右前掛けにしてすごく目立っていた。思い出してみれば、お父さんがお母さんに注意してたっけなあ。

今でも鮮明に覚えている。校門の前で写真を取るときの風景だ。お母さんは何故か着物を右前掛けにして着ていたのである。

「………それじゃ死人だぞ、母さん」

「あら、そうかしら?でも写真を撮ってから直しましょ」

お父さんは何故お母さんが撮影時に右前掛けを直さないのかわからなかったそうだ。後日撮った写真を見ていたとき、お母さんはこんなことを言っていた。

『あら?写真って、鏡写しに写るんじゃないの?』

まさかぁ、戦前のピンホールカメラでもあるまいし。どうしてお母さんはああなのだろう?抜けてるというか、おかしいというか。

更に言えば、自分への悪口は全く聞こえない耳を持っているらしいのだ。これはなかなか都合が良い。

今日は勉強する気がなくなっちゃったなあ。………寝とくか。


~~しばらく時間が経過し~~


夜中の11時頃。ついにお父さんが帰ってきたらしい。結局本を読んで過ごしていたため眠らなかった私は、お風呂に入るために居間に降りた。

「お帰りなさい。今日も遅かったわね」

「仕事が少し、立て込んでてな………」

フラフラと居間に入ると、テツが夢中でゲームをやっていた。そう、彼は消えた記録のリベンジをしていたのだった。

しかし、お父さんはそんな経緯を知らない。学校から帰って勉強もせず、夢中でゲームをやっているようにしか見えなかったのだ。

「いい加減、ゲームはやめなさい」

「………うん」

そこで終われば良かったのだが、仕事でここまで遅くなってくたくたになって働いているのに、ゲームをして夜更かしをしている息子を父はどうしても許せなかった。

お父さんはコントローラーを取り上げると、本体ごと壁にぶん投げた。そして思いきりテツをひっぱたく。そして説教は成績に言及した。

「こんなものばかりやってるから成績が伸びないんだろう!?真面目にやれ、この馬鹿者が!」

お父さんは非常に怒鳴った。

テツは長い説教をもらい、ゲームはまたも消された。

テツは口答えする子ではない。ただお父さんの説教を聞いていた。あんまり可哀想だったので、私は助けに入った。

「私のほうから良く言っておくから。ほら、おいで」

ゲームを消して、ひとまず2階に避難した。私の部屋に入れて、とりあえず座らせて落ち着かせる。やはりテツは、非常に不服そうな顔をしていた。

「ついて、なかったわね」

「ああ、今日はついてないよ」

顔を真っ赤にして、ポロポロと涙を流し始めた。

「なんで、俺ばっかり………!?」

今日に限ってなんであんなにお父さんが怒ったのか、私たちは理解に苦しんだ。お父さんは昔は成績が低かったからと、今まで成績のことでお説教なんてしたことがなかったのに。こういうときは、どうなぐさめて良いか分からないものだ。

「(お父さん、今日は機嫌が悪かったのかなぁ?)

………まあ、そういう日もあるよ」


~~一方、下の階では~~


「とりあえず飯だ。飯を出してくれ」

「はいはい、今持ってきます」

お母さんはご飯を盛り、すまし汁もよそった。良く冷えたビールも用意された。そうして晩御飯の準備が整うと、二人は椅子に座った。

「えっと、お父さん。今日はちょっといろいろあって―――」

お母さんは全てをそのまま話した。

テツがゲームをやりっぱなしで学校に行ったこと。

お母さんが掃除機をかけている最中、間違ってゲームを消してしまったこと。

初めテツは落ち込んでいたが、別段文句を言わずまたゲームを始めたこと。

そしてお父さんが帰ってきて、あの状況になったこと。

「だからね、テツをあまり叱らないでほしいの。私のせいでもあるし、テツは勉強してない訳でもないのよ?」

「何を言うんだ?そんなの自業自得だろう。テツが悪いんじゃないか」

「そう………かしらね?」

お母さんは言い負かされて何も言えなかった。だが、父としても思うものがあった。

私も昔は親父が嫌いだったな。事の内容を良く知らないくせに一方的に文句を言うし、更に口答えも許されない。私としては、事態を知らない者に物言われるのが非常に気に入らなかったんだ。

だが、今の私はあのときの親父と同じじゃないか。そうはなりたくないと思っていたのに………。ただ、上がった手は下げられない。

子供たちより旨い飯を食い、よく冷えたビールを飲むこの位置に、何か複雑な気持ちを感じた。透明なグラスに注がれた黄色い液体から、小さな泡が出ては消えていった。

こうしてこじれた夜は更けていく。


~~天使たちの散策~~


雪野家の家近くの道路に天使が一人。街灯の灯りを便りに歩いていく。あの白い箱を探しに。

「この辺りのはずなんだけど………」

あちこち歩いた。くまなく探したつもりなんだけど………。この日の捜索は断念し、どうすることもできないまま雲の上へ帰ることにした。

天使が帰ってくると、神様は一縷の望みを背にすぐさま天使に駆け寄った。

「どうだった?幸せの箱はあったかい?」

天使は残念そうに、首を横に振るだけだった。みんなに気まずい空気が流れる。

「………今日はダメだ。なんてことだろう、下界に負の力が充満している。下界へ降りてはいけないよ」

それを聞くと、天使や妖精は揃ってうなずいた。肌で感じる、この危険な空気を。負の力が夜闇を深く深く支配していった………


今日は12月20日。

昨日の惨劇があってか、テツは早起きしなかった。部活を頑張り疲れて帰ってきて、息抜きのゲームもあのザマである。私だったら発狂しそうだ。

可哀想だけど救う手だてはない。ついてなかったと諦めるしかないか。しかし、なんであんなにお父さんは怒ったのかなあ?

一階に降りて、両親の飲むコーヒーを作っておく。自分の飲む分はインスタントだ。

これは別に日課ではない。することがないからしてやっただけのこと。休みの日などは学校に行かなくて良い分、無駄に早起きをしてしまう。

朝刊を読み、まったり緩やかな時間を過ごしていた。すると誰かが起きてきた。お父さんだった。

「おはよう、愛」

「おはよう、お父さん」

席につく前に、パンを焼き始めた。昨日の一件もあって私は腹が立っており、敢えて無駄話はしなかった。私的にはお父さんに非があったと感じていたのだ。

部屋にやや重い空気が流れる。私は高圧的な態度で足を組み、堂々と椅子に座って新聞を読んでいた。

気まずい空気が漂う中、お父さんはテレビを付けようとした。しかし私はテレビの主電源を切っていたので、リモコンではつかなかった。私はあまりテレビが好きではないからだ。

お父さんは諦めたのか食パンをオンボロトースターで焼き、黙々と食べていた。

食後のコーヒーを飲み終えると、いよいよスーツに着替え始める。ああ、そろそろ仕事に出るんだな、と思った。そのときお父さんは懐から何かを出した。

「………今日はみんなで、どこかへ食べに行きなさい」

お父さんがテーブルに置いたのはお金だった。5000円だ。

「お父さん、なんなのこれ?これで機嫌取ろうって?」

「………まあ」

「こんなのいいから、今すぐテツに謝って!可哀想に、部活も勉強も一生懸命頑張ってるんだから!」

「そんな暇はない。会社に行く時間だ」

「お父さんって本当にひどいね。いつもそう、自分からは謝ろうともしない!叱った手前謝れないんだ!」

お父さんは聞く耳を持たず、そのまま出ていってしまった。

「何なの、もう………」


~~そして時間が経過する~~


モヤモヤが取れないまま、朝日の強くなってきた頃。

「へー、お父さんがねぇ」

「私の方がテツよりも勉強できるけど、一方で私もゲームだって結構やってるでしょ!?息抜きなしで生きてる人間が世界中のどこにいるのやら!

まあテツの成績自体はそこまで自信の持てるもんじゃないけどさ。けどそんなにゲームばっかりやってるようには見えないけどね。

お母さんからも何かお父さんに言ってよ。あれじゃテツが可哀想よ」

確かにテツにも非はあった。しかし正当性もある。ただ、それを知ったところでお父さんとしても折れるわけにはいかず、それ故お金で機嫌を取ろうと思ったのであろう。

なんとお父さんらしい、がさつなやり方か。女の私としては、こんな方法では誠意がイマイチ伝わらないと感じる。

「でも、世の中には悪い事しても謝らない人なんていっぱいいるでしょう?お母さんはこういう優しさも好きよ」

「ふん、男らしくもない」

………ふぅ、コーヒーが不味くなる。考えないようにしよう。

10時過ぎの白くあからいだ空は、黒く深みを見せる液体の上に揺れて浮かんでいた。


~~一方、天使たちは~~


「コホッ、コホッ………下界は空気が汚いなあ。早くあれを見つけないと」

天使は今日も下界に降りては箱を探し回るが、依然として見つからない。タンボ、ハタケなどと呼ばれる場所やイエ、ヤネ、クルマなどを探したが、あの箱はなかった。

計算した通りだと、確かに落下地点は合っている筈なんだけどな。何故かその周辺を探してもあの箱は落ちていない。

くまなく探したが見つからず、ついに息が苦しくなってきた。たまらず雲の上へと戻る。

「ゴホ!う゛う゛ぅ~………。苦しい………」

弱る天使の元に神様が駆け寄る。

「どうだった!?例の箱は見つかったかい!?」

神様の期待も虚しく、天使は首を横に振る。またしてもみんながっかりした。

「やっぱりか………!箱が気の流れに流されてしまったんだ」

箱は人々の間に流れる『気』によって流される性質を持つ。だが、流される要因はそれだけではない。幸せのないところへと流され易い性質をも併せて持っているのである。

下界には負の力が充満し過ぎていて、もう箱の場所を予測することさえもできなかった。箱を探す際に天使が必要とする力である『魔力』が、邪悪な『妖力』によって妨げられているのだ。

もう、何も出来ることは残されていない。足掻くことさえできない一日なんて、実に何気なく過ぎていく。

とうとうこの日もあの箱は見つけられなかった。世界の終わりが近づいている―――


12月21日。箱を落としてから3日目が経過した。

彼らとしてはなんとしてでもこの日のうちに例の箱を見つけたいと思っていた。下界には負の力が充満しきっており、このままでは無作為な運命が選ばれるのみである。

「そろそろ、本当に不味い状況になってきているよ。こんな状態が続くようなら、人類はあっけなく滅びるだろうね」

「………」

天使たちはもう何も話せない状態だった。反省、後悔、そしてこの世界が滅ぶという紛れもない事実。それらが頭を埋め尽くしていた。

「もうね、既に影響がありありと出ているんだよ。これほどまでに負の力が下界を支配するなんて、今まで一度もなかったことだ」

「やはり無作為な運命では不味いですよね。しかしこれほど影響が顕著に出るなんて………」

「そう、あの箱の力は小さな力だが、やがて大事を作り出すほどの大きな力でもあったんだよ。せっかくだから良く見ておきなさい。この世界の終わりを」

もう神様に雪を降らせる力などない。凍えるほどの凍雨が人を打ち、心から身体から熱を奪っていく。

もはや天使たちが下界に降りられるレベルではなくなっていた。徐々に人々の心をむしばんでいく負の力。そこから生まれる無作為な運命が、強く強く人々を振り回していく。

円から外れた玉が二度と帰って来ないように、世界は行く末を定めなくなったのだ。人類が滅びるのはもう、、、時間の問題だ。


第2章 運命の逸脱


まだ円から逸脱しきってはいないこの世界。しかし下界では早くも人々がその影響を受け始めていた。人々との隔たりが大きくなり、互いにピリピリとした空気が流れる。

白髪混じりの男が一人。社員食堂で誰と馴れ合うでもなく、静かに休憩を喫していた。

その男に話しかける、気さくな中肉中ぜいのメガネの男が一人。

「おい雪野!元気ねえな~」

「あっ、先輩………」

いつもと同じはずの昼休み。話しかけてきたのは私がいつも迷惑をかけてしまっている先輩だった。

「先ほどはすみませんでした。立て続けに先輩方にご迷惑をおかけしてしまって。真面目にやってはいるんですが………」

「はは、お前がふざけてる姿を逆に一度見てみたいもんだ!堅物野郎め。

気にするなよ。実は俺も昨日今日と調子が悪くてな。ろくなことが起こらない」

「その通りですね。昨日は後輩の失敗が連続して、先方に謝罪の電話を終日入れていました」

「昨日からニュースを賑わせてる内容もだけどよ、他愛もないことで殺人事件を起こしたり、飛び込み自殺で電車がえらく遅れたり、意味もなく送電線切って感電死した奴もいたよな。

どうやら俺たちだけがおかしくなってるんじゃなくて、みんながおかしくなってるみたいなんだよ。マウスの異常行動みてえだな」

「不思議なものですね。人だけでなく、機械も調子が悪いみたいですし」

「確かにそうだな。視野は狭いが突然パソコンが壊れるし、データがおかしくなるし、書類の誤字脱字が頻発するし、電話の回線がおかしくなるし………」

人間なのだから出来ることなんて限られている。それほどに人間とは不完全なものなのだ。それをいつもは神様が世話をしていたのに、それさえ今は行き届かない。手が及ばず出来なかったことは、しばしば運が悪かったと理由づけされる。

「運命がそういう巡りなのでしょう。じっと耐えるしかありません」

そう言ったところで、先輩は私の方を凝視した。

「………さっきから気になってたんだが」

「はぁ、何でしょうか?」

「昼飯、なんで団子だけなんだ?」

いよいよ突っ込まれたか。それは昨日お小遣いが一気に消えたためである。

「まあ、いろいろありまして………」

「働いて稼いでるいい年こいた大人が、そんなもんで昼飯だなんてホント涙が出るぜ。奥さんと喧嘩でもしたのか?意地張るのもみっともねえぞ?」

「確かに意地を張る結果にはなってしまいましたが、妻とではありません。子どもとですよ」

それを聞いた同僚は、ああと言った感じで話す。

「そりゃあ、解決も難しいよなあ。子どもとの適切な間合いが判らないっつーか………」

「そう、そんな感じなんです!どうすればいいのやら………」

少し考えて、先輩はこう答えた。

「お前も子どもも不完全だってこと、しっかり頭に入れておくんだな。自分が正しいばっかりじゃ子どもも言うことを聞かなくなる。最初は共感から入って、徐々に、だが確実に子どもには常識を教えていけば良いのさ」

「なるほど………」


~~一方、雪野家の家では~~


「テツ、私の猫マグカップ知らない?」

「ああ、あれ?あれは昨日母さんが割ったみたいだけど」

「またか、母さん………」

「その代わり、犬の絵のついたマグカップを買ってきたみたい」

「はあ!?犬はダメだってば!猫じゃないと!」

「ま、コーヒーの味は変わんないだろうけどね」

それを聞くとイライラが抑えられなくて、テツの頭をかき回した。

「ちっ!ああ~もう、違うの!機能性の問題じゃなくてデザイン性の問題なのよ!犬だなんて………!」

「そんなに大問題?まあ、ご愁傷様」

「くっそ~!マグカップ買ってくる!」

その後自転車を乗り回したものの、凍った路面で何度も転倒した。店になんとか辿り着いたものの、猫のマグカップはなかったため買えなかった。

私の『きぃ~!悔しい!』の一言は、凛とした道路や家々の間を鋭く突き抜けて消えていった。その言葉が空や建物などに跳ね返り、延々とこだまする。

帰宅するともう気力は尽き果てて、大人しく部屋へと戻った。冷えきった身体を布団で温めているうちに、眠りについていた。


~~愛の過ごす怠惰な冬休み~~


12月22日。冬至。今日は暗黒の支配する日だ。

温もり残る布団から起き上がる。ゴロゴロを継続したいところだったが、ついに空腹感に耐えきれなくなったのだ。時計を見ると時刻は14時に迫っていた。………ちょっと休みだからって寝過ぎたかしら?

やや汚い自分の部屋をフラフラと出ていく。12月の冷えきった廊下を踏みしめ一階に降りた。そういえば、昨日お母さんに洗濯物を頼んでおいたっけ。居間にいたらちょっと聞いてみよう。

案の定、居間を見るとお母さんがいた。もし洗われていなかったら私の外行きの服は一着しか残っていない。

「お母さん、服洗っといてくれた?」

そうお母さんに聞くと、お母さんはいつものうっかり顔を見せた。

「あら、いけない!すっかり忘れてたわ」

まあいつものこと。別に洗われてない服をどうしても着たいわけでもない。今手元に一着あるわけだから、問題はないわけだ。

「ふーん、そう」

特に怒っている様子でもない私に、お母さんは言い分を話す。

「お母さんさっき洗剤買いに出かけたんだけどね、そこで何を買うためにスーパーに来たのか忘れちゃったのよ。やっぱりメモに書かなきゃダメだわねぇ」

そばには衝動買いしたと思われるうどんとネギ、豚肉に豆腐、白菜、そしてキムチ鍋の素が入っていた。その辺に置きっぱなしで片付けないところがお母さんらしい。

ナマモノも入っているのが確認できたため、マイバッグを取り冷蔵庫に片付けていった。

「………鍋にはタラを入れるわけね」

昨日はハンバーグにしようとか言ってたのに、何故突然キムチ鍋になったんだ?『変わったハンバーグ作れそうだね』と言う前に、お母さんが言った。

「あら、しらたき買うのも忘れてた!ごめんね。洗剤も一緒に買ってくるから」

一応服のほうは大丈夫。今は冬休みだから外出なんかする機会がないし、遊びに行くほど行動的な友達もいない。

「まあ、慌てず買い物に行ってきなよ」

そう問題なさげに振舞ったが、そうなると今の服を汚したら大変なことになる。替えの服がないのだから気を付けないといけない。いつ汚してもいいように、いつものジャージに着替えておくことにした。


~~天使の訪問~~


お母さんが家から出ていくと、なんだか家の中が静かになった。テツは友達と町に出かけたっきり帰って来ないし、家には私一人しかいなかった。何気なく窓から外を見ると、やや雪が降り始めている様子だった。

「あ~あ、雪なんか降っちゃって。お母さん大丈夫かな~?」

車の運転は自信がなくて怖いからと、近くには自転車で出かけるお母さん。変なところでこけて怪我してないと良いんだけど。そう思うと、私が代わりに買い出しに行ってあげれば良かったと後悔した。

まあ過ぎたことは仕方ないし、今日は寒いから布団の中で本でも読みながら過ごすとしますか。

部屋に入りエアコンを入れようとした。とりわけ寒がりなほうでもないが、底冷えするほど寒いのはご勘弁いただきたいものである。

「どうしてこう寒いかねぇ。飲み物取りに下に降りるのも億劫………。んん?」

エアコンのリモコンを操作したが、どういうわけかエアコンの電源が入らないのだ。異変に気がついて部屋の照明のスイッチも押してみたが、照明はつかなかった。どうやら停電のようである。

まだ昼間だし停電だから困ったという気にもならない私。布団に潜り込むと、訪問者が来たのかピンポンが鳴った。古風な家なので停電でもしっかり鳴るタイプだ。

「はぁ………!?も~!」

バサッと布団から身を出すと、誰かが待つはずの玄関まで行ってみた。やはり廊下の冷たさは足に染みる。

玄関前まで行く。音を立てぬよう覗き穴を覗いて、誰がいるのか調べることにした。これは訪問客への対応の基本。お母さんは騙され易いたちなので、会っていい人と悪い人を見極めるのだ。

面倒臭いセールスとか、知らん男とかは基本無視する。ここまで音を立てずに来たのはそのためだ。

覗き穴を覗いた。しかし不思議なことに、いるはずの訪問者は覗き穴の向こうにはいなかった。

「………(あれ?確かにピンポンは聞こえたんだけどな?)」

ここで出るべきかどうか迷う。どうせ視界に入らないようなところで待機していて、開けたら出てくるつもりなのだろう。悪質な勧誘か何かだろうか?

………待てよ、テツの仕業か?その可能性も否めなくはない。ただあいつはそんな幼稚ないたずらをする奴ではないはずだ。

となるとピンポンダッシュか。最近は近所にそんなガキもいないと思っていたが、あるとすればそれくらいか。全く腹立たしい。

誰もいないため、音を立てずに部屋に戻った。また布団に入り、惰眠を貪る。

ふと思い出したことがあり、クローゼットに向かった。安いときに買い貯めしておいたお菓子がここぞとばかりに出てくる。

こんな用意周到さには、自分に惚れ惚れする。安く買えているわけだし、しかも外に出る労力がない。こんなに効率的なことがあるだろうか。

「は~あ、お母さんにいつも言ってるのになぁ。『洗剤なら長い期間置いとけるんだから、買い貯めしとけば?』って。言ってあげてるのにそうしないんだから、買い物の手間は私のせいじゃないわね」

好きなせんべいを片手に、手に取った本は『深層心理学』。人の心とは何かを考え始めたことがきっかけで、数学で言うところの『方程式』のようなものが心理学にもあると知ってますます興味を持った。

やがていくつかの法則を知るうち、心理学にますますのめり込んでいった。今では主要な趣味になっている。

ゴミ箱の上でバリバリとせんべいを食べているとき、またピンポンが鳴った。

「またぁ!?誰なのよ………」

仕方なくしぶしぶ降りていく。そろりそろりと廊下を歩いていき、覗き穴を再び覗いた。

誰かが待つはずの外を見た。だが、先ほどと同様に玄関口には誰もいなかった。溶けた雪に濡れる道路と向かいの家が映るばかりだ。雪は心なしか強くなってきている様子である。

「(はぁ~?いい加減にしろっつうの!)」

楽しい休憩時間を邪魔されたこともあって、わりと腹を立てながら戻っていった。待てよ。せっかく一階に降りたことだし、コーヒーでも入れてから二階に上がろうか。

居間に行き、インスタントのコーヒーを私の犬のマグカップに入れた。

………くそう。

停電中のためお湯はプッシュ式で出す。

お湯を注ぎコーヒーの香りを嗅ぐと、思わず心が和んだ。白い空からの薄明かるい日差しがきれいだ。ふぅ~、こんな時間が永遠に続けば良いのになあ。

「(雪が強くなってきたみたい。お母さん、こけてないかな~?)」

そんな心配をしていたときだった。またしてもピンポンが鳴ったのだ。訪問者が見えるはずの一階の居間にいたため、このピンポンには驚いた。

「(だ、誰も来た影がなかったのに………!)」

ちょっと工夫をすれば可能かもしれないが、基本的には一階の居間の窓から見える玄関までの通路を通らなければ、玄関口には辿りつけない。通路には誰も通った影がなかったはずなのに………!

少し気管に入ったコーヒーでむせて、そーっと音を立てないよう玄関に向かう。

一体さっきから誰なのよ!?見えない相手に対するいらだちもあったが、同時に恐怖心もあった。対象が見えないとは不気味である。

こっそりと覗き穴の向こうを見る。しかし、またしてもそこには誰もいない。どういうことなのだろうか?

若干恐怖はあったのだが、そこは高校2年生の私。幽霊の存在を信じなければ別段怖い生き物も人もいない。外には凛として静かな14時の静寂があるだけじゃない。

こんなことに恐怖を感じた自分が馬鹿馬鹿しくなって、ついにドアを開けた。

冷たい空気が私を襲う。ドアを開けたガチャっという音が家の中にも外にも響いた。

「あれぇ………?」

ドアの外にはやはり、誰もいなかった。外へ出てあちこち見渡したのだが誰もいない。猫や犬なども、今日は休日とばかりに歩いていたり吠えたりもしていなかった。遠くで走る車がエンジン音を響かせている他に、特に音などなかった。

「何なの?本当にもう………」

雪はうっすらと積もってはいたのだが、不思議なことに足跡はどこにも残っていなかった。ピンポンダッシュをするガキの仕業であれば、ちゃんと工夫をしない限り足跡は必ず残るはずなのだが。。。

まあいいか。そう思いドアを閉めようとしたとき、私はひっくり返るほどに驚いた。それは玄関に、見知らぬ白い靴があったからだ。

「なっ、何これ!?………何で靴が!?」

少しも足音なんてしてはいない。ましてや足跡だって残っていない。じゃあどうして!?どうして見知らぬ靴があるのよ!?

家に入るべきかと悩んでいた。誰かが不法侵入した可能性があるからだ。

と、出し抜けにテツの声が後ろから聞こえてきた。

「ただいま。どしたの、姉ちゃん?」

私の不安そうな表情を読んでか、テツは心配そうに尋ねる。私は事の成り行きをテツに説明しようとした。

「ああ、テツかぁ。おかえり~。今さあ―――」

私がこの疑問を話そうとすると、お母さんの高くてふわふわした声が後ろから聞こえてきた。間髪入れずお母さんも帰ってきたのだ。

「あら、テツ。おかえりなさい。ずいぶん早く帰ってきたのね」

そういえば、テツは友達と駅前に行って遊ぶ予定だった。しかし何故こんな早くに帰って来たのか?

「まだ昼間だから気づいてないかもしれないけど、実はここら一帯全部停電してるんだよ。電車動かないと駅前には行けないし、また次の機会に遊びに行こうってことになってね」

やはり、この町内は停電しているらしい。そして降り方の強くなる雨交じりの雪を眺めて、昨日の天気予報を思い出していた。

今日の夜はかなり雪が降るらしい。今朝のニュースでは明日いっぱいまでかなり雪が降るという予報だった。今は凍雨が降っている。

行動を制限されたような気分になったが、お母さんには関係のないことのようだ。お母さんが相変わらずの能天気な様子で言った。

「今日はあまり遠出はしない方が良さそうね。だって、お母さん自転車で買い物に出掛けたけど、道路が凍ってて何回も危ない目に遭ったのよ。

お母さん4回もこけちゃって。ふふふ」

………お母さん節の炸裂である。良い年した女性が転んだら骨折などが心配だ。私は少々きつい口調でお母さんに尋ねた。

「『ふふふ』じゃないでしょ、お母さん。怪我とかはしなかったの?」

するとお母さんは元気にこう答えた。

「大丈夫よ。3回は受け身取ったから!」

たまらず私とテツは声を合わせてこう言った。

「1回取れてねえ!」

そんなお母さん節を聞いていたとき。なんとまさかのお父さんまで家に帰ってきたのだ。

「なんだなんだ?みんな揃って玄関口で?」

「あらお帰りなさい。ずいぶん早かったのね」

頭を掻きながら疲れた表情で言う。

「発電所でトラブルがあったらしくてな。あっちも停電してるんだよ。パソコンもプリンターも使えないから仕事にならなくて、自宅待機をすることになった」

「じゃあ臨時休業になったのね」

まあ、そんなもんか?………いや、自宅待機だろ?なんか違うような。

「………ところで、お前たちはなんで揃って外にいるんだ?」

お父さんの質問にテツが答える。

「俺今さっき帰ってきたんだ。そしたら姉ちゃんが外にいてさ」

お母さんは私を見て理由を尋ねる。

「愛、何かあったの?」

えっと、何があったんだっけ?そうだ、あの靴の事を話さないと。不法侵入かもしれない。

私は家にいたときの一部始終を話して聞かせた。

「―――と、こういうわけ。ほら、靴があるでしょ?」

「確かに、見知らぬ靴だわねえ」

「誰かが間違って家ん中に入り込んだんじゃない?」

「え~!?どう考えたって故意でしょ?」

「よし、俺が家の中を調べる。危ないとわかったらすぐ逃げるんだぞ」

お父さんは傘を武器にして家の中に入っていった。なんとなく家の中に危険な存在がいる気はしなかった。ただ、やはり悪意のない誰かがいるような気配はした。

「俺、やっぱり父ちゃんだけじゃ心配だから行くよ」

「待ちなさいテツ。お前も怪我をしたらお父さんに怒られてしまうでしょう?ここはお父さんを待ちましょう」

お母さんの制止を聞いて待つことにした。しばらくすると、お父さんが驚いた表情で家から出てきた。

「ちょっとお前たち、居間まで来てくれ。幻覚かもしれないが、、、天使がいる………!」


ん!???


それはもう驚くとかという感情ではなかった。あまりに突拍子もなくて、みんなポカンとした。何を言ってるのか?としか思えなかった。

「じゃ、入ってみましょ!」

母さんは警戒するでもなく家の中に入っていく。さっきまでの注意はどこへ行ったのか。それを見て、慌ててテツが止めに入る。

「あっ!危ないよ、お母さん!」

結局お母さんを制止することができず、みんなお母さんに引っ張られるような形で家の中に入っていった。居間まで行くと、そこには私と同じくらいの身長の天使がいたのだ。

「(うわあ………、綺麗な姿………)」

人のような容姿だが、背中には真っ白な羽が生えていた。体格は私より若干小さいだろうか、少し小柄な体つきが可愛らしかった。

真っ白な服に身を包んでいて、穢れを一切感じさせない。服の下に隠れた真っ白な肌も印象的であった。顔立ちはとても美しく、思わず見とれてしまうほどであった。

「驚かせてすみません。はじめまして」

みんな唖然とし、ただ状況を理解できず立ち尽くしていた。この気高さからだろうか、すっかり気持ちが畏縮させられたような気分に陥った。

もし相手が人間だったなら、ここまで緊張することもないだろう。恐れいってしまうくらい彼女は浮世離れした美しさを持っていて、触れることもためらわれる気品を持っていたのだ。

肌で感じる、矮小な存在を寄せ付けない凛としたこの気高さ。そして無意識に感じる、これだけの完全な存在を目の前にして、己の存在がいかに不完全であるかという劣等感。

そんな中でも、お母さんは天然ぶりを発揮する。

「天使さんがいらっしゃるなんて、生まれて初めてね!この家に何かご用件かしら?」

天使はお母さんに尋ねられて、ここに来た用件を話した。

「わたくし、、、『幸せ』の入っている箱を、誤って天界から地上に落としてしまったのです………」

先ほどは姿に気を取られていたため気づかなかったが、天使の透き通るような声に思わずうっとりしてしまった。あまりに美しく、気分が晴れやかになって心がフワッとするほどだった。

お母さんは冷静に、天使の話に質問を返した。

「『幸せ』の入った箱、ですか?その箱がないとみんなの幸せがなくなるのですか?」

「その通りです。それがないと、、、あなた方のような家族のつながりが保てなくなったり、これからできるはずの縁ができなくなってしまうんです。このままだと人類は………」

そう言って天使はポロポロと泣き出してしまった。

何の事やら?そういった縁というのは単純にお互いが努力して繋ぎ止めているから繋がっているのではないのだろうか?

今一つ事態が飲み込めない。現在のこの状況も理解できなかったが、それ以前に何故天使はこの家に来たのだろうかという疑問もあった。

気にはなったが聞けなかった。畏縮して声が出なかったのだ。まるで喉に何か物が詰まってしまったかのように。

お母さんは幸せの箱探しに協力するつもりらしい。

「私たちでも天使さんにお力添えできるかしら?一緒にその箱を探しましょう」

そう言って私や弟、お父さんに協力を求める。

テツは行動的で他人の世話をするのが好きなため、協力するのは明らかだ。天使が美しい女の子というのもあって、下心で手伝いそうだ。

お父さんは困っている人に親切で、自分が損をしても相手が喜んでくれれば自分も嬉しくなれるような人だ。

朝の通勤で電車に乗り遅れたら遅刻だというのに、通行人の落とし物に気づいて急いで渡しに行ったこともあったらしい。その後会社へはタクシーで向かい、お小遣いがすっ飛んだという。良い話なのか、馬鹿馬鹿しい話なのか。

一方、私はというと―――

正直私は、誰かに時間を割きたくはない。お願いや命令で拘束されるのが嫌なんだ。故にやらなければならないことは言われる前にさっさとやっておく。言われてやるのは億劫だから。

今回の場合も拘束されるのが嫌なわけだが、最も嫌なのが外が寒いということだ。とどのつまりその箱は縁結びの箱というわけだ。縁なんて結ばれなくても良いんじゃない?

なんで見ず知らずの人間の幸せのために、私が寒い思いをしなければいけないのだろうか。みんな独り身で通せばいい。本音は断りたいところである。しかし、話は協力する方向で進んでいった。

お母さんがいつもの献身的な姿勢を見せる。

「私で良ければお手伝いします。お役に立てるかしら?」

同様にお父さんも続く。

「当然手伝わせていただきます。一緒にその箱を探しましょう」

更にテツも続く。

「俺も暇ですから探します。手伝いますよ」

その流れで断れるわけがない。はいと答える他なかった。

「………ま、探してあげないこともないかな?」

それを聞くと、天使は屈託のない笑顔を見せて言った。

「ありがとうございます!お力添えをお願いいたします!」

こうして私たちは天使のお手伝いをすることとなった。

………面倒なことに巻き込まれたなぁ。私は内心そう思っていた。


~~天使の説明~~


天使は私たちに説明しておきたいことがあるという。何かを始める様子だ。

「ちょっと驚かせてしまうかもしれません」

天使が私たち4人に幸せの箱の存在意義を教えるため、記憶のような形で見せた。

「………!!」

まさに、記憶そのもののように頭に入ってくる。言葉で伝えるには不完全で、人間の脳で理解するにはあまりに複雑過ぎるものであった。かいつまんで説明するとこんな感じである。

要は幸せの箱というものは、友情や愛情を作るために不可欠な『勇気』を保存したものらしい。これがあるからこそ告白の際のあと一押しの勇気が出たり、誰かに声をかける勇気が与えられるのだという。

この『勇気』こそが人々の友情を作り、恋を成就させ、多くの人々とのつながりを作る大元となっていたのである。

明後日はクリスマスだ。人々の良いムードも高まり、彼女たち天使が活躍して人々のとりわけ恋を成就させる『勇気』を与える必要があったのだ。しかし天使のせいで、人々にあと一押しを与える『幸せの箱』を誤って下界に落としてしまったらしい。

幸せの箱がなくなるとただ縁が出来づらくなるだけにとどまらず、出来てはいけない縁、いわゆる『呪い』のようなものが結ばれてしまうというのだ。

今までは地上にまかれる幸せと、人々によって生み出される不幸で±0~僅かに+、となっていたわけである。これで均衡が取れていたのに、箱がなくなった今は+がなくなって不幸だけしか残らない。これではまずいのは明らかだ。

箱がどの辺りに落ちたかのはわからないが、この付近であることは間違いないらしい。そこでちょうど魂の波長がキレイなこの家族を選んだ、ということらしい。

そこで面倒なことが一つある。幸せの箱は真っ白な箱である、ということだ。今日はよく雪が降っているため、雪に敷かれ真っ白になった界隈から白い箱を探し出すのは難しくなるであろう。

意識があったはずなのに、今意識が戻ったような気がした。はっとしてそれぞれが顔を合わせる。

「?? 何今の?」

「さあ………」

軽くしっかりうなずくと、天使は更に説明を続けた。

「ご理解頂けましたか?それでですね………」

天使はおもむろに手に力を込めた。目を瞑ってという指示の後、突如私たちの目に映像が飛び込んできたのだ。

「おわっ!」

「うわ!」

みんな声をあげた。だしぬけに衛星写真のようなものが目一杯に映ったからだ。私たちが驚く様子を見て天使が謝る。

「説明もしないですみませんでした、準備がなかったもので。網膜に直接映像を映しているところです」

「へー、こんなこともできるんだ………」

テツは感心のあまりそんな言葉を漏らした。私はもはや声さえ出ないほどに驚かされた。

「ここ一帯の雲の上からの様子です。幸せの箱はこの辺りで落としてしまったので、、、」

コンパスを回し説明を続ける。

「この範囲内に落ちた可能性が高いのです」

なんか、確率の話で見たことがある気がするなぁ。

そこで、テツは気になったことを質問した。

「風とかは考慮しないんですか?流されている可能性は?」

天使はやや笑みを含んで、こう答えた。

「その箱には質量がないのです。なので、物理的な風などの影響は受けないのです」

その言葉に、テツはキョトンとした表情を見せた。

「質量がない???」

そこで、お父さんは趣味である物理学の知識を用いて説明した。

「つまり、物質としての振る舞いはしないということだ。だから風にも吹かれないと」

と言ったところで、今度は天使にこう質問をする。

「………しかしそれだと、今度は光速度の速さで動くことになりませんか?質量は持たないんですよね?」

「う~む、、、鋭い質問ですね。どのように説明すればよろしいかしら………」

天使の説明はなんだか人間には理解し難いようだ。さっきから我慢はしていたが、私はついに思っていたことを口に出した。

「あのさあ、天使さん。あなたは理解してるのかも知れないけど、そんな難しい説明じゃ人間である私たちは理解も納得もできないでしょ?もう少しわかるように説明できないの?」

私がそう毒づくと、天使は困った表情を見せた。

「す、すみません………」

テツは天使に味方し、こう言った。

「まあまあ姉ちゃん、そう毒づくなって。とりあえず探しましょうか」

テツは私の言葉を無視して話を先に進めようとしたが、天使は首を縦には振らなかった。

「ごめんなさい、私の説明では至らない部分が数多くあると思います。わからないですよね。何を説明してないんだっけ………?」

天使はまたポロポロと涙を流し始めた。私に冷たい視線が注がれる。

「なっ、何よ!?私はちょっと気になったことを注意しただけで………」

するとテツは私に毒づいた。

「姉ちゃん、可愛い子には冷たいよな~」

その言葉に何も言い返せなくて、とりあえず状況を誤魔化した。

「………うるさーい!この、この!」

そう言ってテツだけはやっつける。依然として両親からは冷たい視線が注がれていた。

天使は精神を立て直したらしく、こう続けた。

「………すみません、説明がまだあります。幸せの箱には主に3つの特徴があるのです」

そう言われて、注意は天使の話に集中した。

「3つの特徴??」

「はい。まず一つ目は流動性です。幸せのないところに幸せが流れていくという特徴があります。高濃度の溶質は低濃度の側に流れていきますよね。あれと同じ原理です。

二つ目はほのかに金色に光っているということです。しかし光はほんのかすかなものなので、夜でも見つけることは難しいと思います。

三つ目は生物が箱が放つ金色のモヤと接触したとき、幸せだった時間を回想させられるということです。この感覚は触れてみればわかります」

ふ~ん、なるほど。幸せの箱は流動性、発光性、そして回想させる力を有しているわけか。

「よし、じゃあそれを探せばいいわけだ。みんなで探すぞ!」

お父さんがそう言って、家族に団結を求めた。まあ、お父さんがそう言うならしょうがないか。やる他ないな。

お母さんが乗り気でない私に協力を仰いでか、こう言った。

「さて、愛。みんなと箱を探しましょう」

テツは見つける気満々で言う。

「寒いしさっさと箱を見つけますか」

みんなが乗り気の中、私だけ浮かない表情で続ける。

「………仕方ないなぁ」

こうして幸せの箱を探すため、みんなは町に散った。


第3章 両親の記憶


天使は長い時間下界にはいられないらしい。ごめんなさい、どうか探してください、とだけ話した。スウッと光の筋が空から延びてきて、天使は天界へ帰ってしまった。私の本音としてはこの行為に腹が立った。

今は14時30分。外は凍雨が降っていた。この時間ではまだ明るいから、光で箱を見つけるのは難しいだろうな。4人で手分けして町内を捜索することにした。

学校、公園、集会所、図書館、アーケード、マンションに商店に団地の中まで。。。

結論から言うと、箱はどこにもなかった。地域範囲こそ指定されているものの、あまりにも探すべき場所が漠然としすぎていて要領を得ない。

どうしたら効率良く箱を探せるのかを考えていたが、特に名案もない。携帯でテツと連絡を取り合い、家の前で落ち合った。

「よ、姉ちゃん。ちゃんと探してる?」

「しぶしぶ探してるわよ。今のところ箱はどこにもなかったけど。テツは?」

「俺の方もさっぱり。どこにあんのかな?あっ、母さん!」

お母さんはびしょ濡れで自転車にまたがっていた。何度か転けたのか、雨に濡れて泥だらけになっている。なんだか痛々しさよりもお母さんの要領の悪さに対して憂いが勝った。

あまりに不憫で、私はお母さんにこう言った。

「お母さん大丈夫?もう家で休んでなよ。風邪引いちゃうよ?」

するとお母さんはいつもの元気を見せた。

「大丈夫よ、愛。いつものことだから。みんなの幸せのためだもの、諦めず頑張りましょう」

お母さんはやはり、自分よりも他人の幸せを優先することが多い。けどお母さんだけが損をしたり貧乏くじを引くのは、そろそろ見過ごせない。

「私たちで探すから、ひとまず家で休んでてよ」

どうせ聞かないんだろうな。そんな推測が頭をよぎる。

ふとお母さんが思い出した様子で言った。

「………そういえば、お父さんはどこかしら?」

「お父さん?さあ………」

みんな、お父さんがどこを探しているのかなど知らなかった。家には車がなかったため、車で移動してはいるんだろうけど………


愛用車を乗り回し、幸せの箱を探す白髪混じりの中年男性が一人。男には妙な勘があり、ある場所へと向かっていた。

幸せの箱がどんな代物かは知らないが、自分の幸せの形ならよく知っている。一番幸せだった、あのときの記憶。箱はあそこで待っているのだろうか?

ついに着いた、懐かしの病院に。そこはとある総合病院である。ここら一帯で一番大きな医療機関だ。男は入り口前に立ち、辛い過去を回想していた。


~~ 父・雪野 正の記憶 ~~


初めて殊美と出会ったのは、大学のサークルでのことだったな。芸術を学びたくて美術部に入っていたのだが、結局私にその才能はなかったらしい。

何故かいつも話しかけてくる、とぼけたお嬢さん。そのうちそれは私に対する好意なのだということに気がついた。

不思議な作風の絵を描く女性だった。これこそ平和といった感じの、自然と人間の調和を描いた作品が多かった。絵を描くにはいろいろな技法があるようだが、彼女の絵に技法はほとんど見られなかった。

一見落書きのようだが、優しさと美しさと作者特有のメッセージを内包しているような、そんな絵ばかりだった。美術部に行く度、不思議と彼女の絵を見るのが楽しみになっていた。

一方私は自分の好きなことしかして来なかった人間だ。当たり前だが絵も大して上手くはなかった。自分の中から溢れ出てくる何かを表現したくてもそれができなくて、今思えばそれは『心の筆』を持っていない典型的な人間の姿だったと思う。

何かを作るには、何かを表現するには、それ相応の知識が必要なのである。但し、その何かはどんな知識から表現されても構わないものだ。『筆』を知識に例えるとすると、その表現形態の違いは『筆が違う』と例えると分かりやすい。

子どもたちには限りない才能を引き出してあげるため、様々な『心の筆』を持たせてあげることにしている。彼らの描くものが何なのかもまた楽しみである。

どんな落ちこぼれた子でも、必ずそれぞれ個々に才能を持っている。だから個々に適切な場を与えてあげれば、それはそれは素敵な作品を描き上げることだろう。キャンバスに汚い泥を塗るのも、素敵な絵の具を塗るのも、その環境次第なんだ。


美術部に所属するうち、いつの間にか私は彼女に惹かれていた。ただ告白は勇気が出なくてできないままだった。それは良家のお嬢さんということもあっただろうか。

俺のような落ちこぼれの、生活水準の低い人間と彼女とは生きる世界が違うだろうと思っていた。だが、そんなことを気にする必要はなかったらしい。

思った以上にあっさりと相手側の家族に受け入れてもらえた。彼女の両親には本当に良くしてもらったし、普通に殊美とも付き合えた。結婚も許してもらえた。今では殊美の両親を自分の両親より大切に思っているほどである。

結婚後、他のカップルと特に変わらぬ甘ったるい生活をしていたな。よくでれでれしていた。ああいったいちゃついた期間は、生涯でも一度しか味わうことはないだろう。

職を転々としたが、やがて特に珍しくもない会社に就職できた。仕事を軌道に乗せるまでが大変だったが、乗ってからは一緒に旅行したり、遊びに出かけたりもしたな。金はないながらも楽しい生活を送っていたものだ。

そして時が紡いだお腹の中の小さな命に、俺たちは幸せの絶頂を感じていた。

思い出してみれば、この頃の俺はまだまだ父親としての自覚がないただのガキだったな。今でもまだ思考がガキのレベルだが。

しかし、あの頃よりは確実に成長している。それだけ時の流れというものは偉大なんだ。ちっぽけな人間では、絶対にあがなうことはできないほどに。

それから少し経った頃だったか。人生で一番不幸だと感じたのは。彼女の妊娠から数ヶ月過ぎた、あるお昼のことだった。

それは他と変わらない、普通の妊娠だったはずだ。普通通り問題ないと、医師も周りも誰もがそう言っていた。全然他の子と変わらないはずであった。

それなのに、どうしてだろう………

会社に電話が入り、気絶しそうになったことを今でも覚えている。俺たちの子どもが、流れたらしい。。。

電話でそのことを知ったときは、頭が真っ白になった。震えた声でそのことを職場のみんなに説明すると、みんなが固まった。

今でも俺の面倒を見てくれてるあの先輩は俺に近づき、『仕事は良いから、早く殊美さんのところへ行ってやれ!』と、俺の手を強く引っ張ってくれた。非常に動揺し混乱した俺の手を引いて、会社の外まで連れ出してくれた。タクシーまで手配してくれたんだよな、先輩は。

しかし………

ガキのような俺には、その残酷な現実が重すぎた。病院の前まで来たというのに、足がすくんで動けなかった。はっきり言って、そんな現実と向き合いたくなかったんだ。

その日のことはあまり覚えていない。殊美に会いに行ったのは確かだが、その後会社に戻ったのだろうか。家でぼうっとしていたのだろうか。楽天家でいつも屈託なく笑っていた彼女にも、流産はさすがに堪えたらしい。

医師の説明でわかったが、水子が流れるということは実は健康な母子でも当たり前に起こりうることらしいのだ。そう、殊美も悪くないし俺も悪くない。もっと言えば病院の職員も悪くないし会社の誰も悪くないのである。

そんな理由のなさが、かえって俺たちを苦しめたんだ。なら運が悪かったで諦めろと言うのか?ついてなかったで済まされるはずがないじゃないか。また運悪く流れたら、今でさえ深く傷ついている彼女はどうなってしまうのか?

無意味に時間だけが過ぎていった。元の生活のような状態なのだが、何かが妊娠前と違う。時が経つうち、妻は自身を責め続けていたことに気がついた。しかし、俺はどうすれば良いのかわからない。

だが結局、時の流れが強かった。徐々に記憶の痛みが軽減されていき、その記憶を風化させていった。彼女との距離も以前に戻り、また俺は水子を負うことになった。しかし前回の妊娠のことを思い出し、俺も殊美も眠れぬ日々を過ごすことになる。


~~懐かしの病院にて~~


思い出す度に胸が苦しくなるな。あの子がもし生きていたら、どんな子に育ったのだろうか?どんなに家族旅行が楽しくなっただろうか?

ついに病院に足を踏み入れた。静かな、無機質な空間が広がる。どこかで声が聞こえてくるが、どこの病室からだかわからない。導かれるように廊下を歩いていった。

記憶のままだ。地震のときに入ったと思われるやや大きなひびが、修復もされず白い壁に刻まれていた。自販機のゴォー、という音は無機質な壁に染み入り響く。あの時と特に変わってはいない。

妻のいた部屋を探していた。ここでもない、あそこでもない。歩き回るうち、ついにその部屋を発見した。

もうこの部屋には来ないと思っていた。まさか自分の足で来るとはなぁ。ここに幸せの箱があるという確証もないのだが、導かれるようにここへと来てしまった。

あの窓際のベッドを殊美は使っていたんだ。思い出すなぁ、あの頃の空気を。

ふと布団の上を見ると、ベッドの上に何か光る物があることに気がついた。金色に薄明かるく光る箱があったのだ。

「もしや………!これが『幸せの箱』なのか!?」

箱に触れようとしたとき、部屋は金色のモヤに包まれた。

「んん………?」


~~今までの苦労と確かな幸せの回想~~


初めて出勤するときの俺だ。職を転々としてたどり着いたのが、まさに今の会社だったな。挨拶すら知らない俺を、先輩方の多くが面倒を見てくれたよ。

俺のせいでみんなには本当に迷惑をかけたよなぁ。わからないことをわからないままにして仕事をして、それが原因で大事になったこともあったな。仕事を片付けるどころか、増やしてばかりだったんだ。

こっぴどく叱られて、精神的に参ってしまいそうな状態だった。俺が自分で全て尻拭いをするからもうそんなに怒らないでくれ、とも思ったものだ。

残業で捌く分を増やしてしまう度に、あの先輩は最後まで仕事を手伝ってくれたんだ。その後酒までおごってくれて、長々と愚痴を聞いてくれた。かなり泣いたし弱音も吐かせてもらった。翌朝の出勤では、先輩と顔を合わせるのが恥ずかしかったよな。

ついにそろそろ子どもが生まれるときは先輩に、

『ついにお前も父親か。応援してるぞ』

と、声をかけてもらったっけ。あのときは嬉しかったなあ。後日先輩方から多くの服やオモチャなどが届いて、何だかんだでみんなが気にかけてくれていることを思うと嬉しくて仕方なかった。

ついに初めての我が子が生まれた。我が子を抱いたときには、この子の意外な重さで潰れそうになったよ。でもこんなことで潰れていてはいけないんだと、気を引き締めた。この子は殊美と二人でこれから何年も何十年も支えていくのだから。

この子が、この世で一番愛する殊美と俺の間に生まれた、たった一人の子どもなのか。不思議な気分がして気が高揚していた。その日は眠れなかったな。

初の子の名前はいろいろと考えたが、殊美と相談した結果、『愛』と命名することにした。この子は俺と殊美の愛そのものだからだ。お互いの愛を忘れないように。この子を大切にできるように。

これは裏の名前の由来だ。表向きの名前の由来としては、博愛の気持ちを持って万人に接してほしいという希望が含まれている。多くの人に対し愛情を持って接することのできる人間になってほしいと願って。

その後、二人目も無事に生まれてきてくれた。途中で投げ出さず最後まで徹するような人になれという意味を込めて、『徹也』と命名した。その通りの人間に育ってくれたな。

別に名前に託した希望は叶わなくてもいいから、必ず不慮の事故などで亡くならないでほしい、と心の底から願う。二人は私の宝物だから。死んでもこの子たちを守りきるんだ。

家族が増えてからは、大きな失敗をしてもくよくよはしなくなったっけ。失敗を重ねて仕事を覚えていくうち、やがて教える側になっていった。先輩にしていただいたことを今度は後輩にしてあげる番になったのだ。

子どもができてからというもの、実に矢のように時間が過ぎ去ったな。仕事も家庭内も充実した毎日となった。やはり妻の殊美と過ごした時間が、一番いとおしい時間となったよ。

家族と紡いだ思い出は手いっぱいに増えていき、アルバムに収まりきらない程の量となった。しかし私の一生では短すぎるのだ、この子たちと遊び尽くすための時間は。


~~そして回想から現実へ~~


はっと我にかえって病院の部屋を見渡した。既にこの病室にあの箱はなかった。白く太陽を遮るカーテンの先に、幸せの箱はあったと思う。それも勘だがな。

「………ふっ、幸せに足を取られたか」

外はますます寒さを増しているようで、部屋の空気は白い息が出るほど冷たい。しかし、あの日の空を眺める私と同様、心はとても晴れやかで暖かかった。

私のせいか窓はいささか結露し曇っていた。給湯室の湯気のせいだろうか、私の眼鏡もやや曇ってきた。ヤカンの沸騰音のみが、部屋中にこだまする。


~~ 母・雪野 殊美の記憶 ~~


その頃、家で休みを取ろうとする中年女性が一人。娘たちの制止を受けて、しばしの休憩を取ることにしたようだ。

寒い部屋で暖を取り、お茶を飲んで休憩を取っていた。外の寒さのため芯まで冷えきってしまった身体。熱を求めていたのは言うまでもない。

「うう~、身に堪える寒さねえ………。それにしても、お父さんどこへ行ったのかしら?」

カーポートはがら空きで少々寂しさがある。貴方はこの空のどこにいるのかしら?

灯油ストーブの前に座り暖を取っていた。部屋は誰もいないため不気味なほど静かだ。テーブルには愛に買ってきた犬マグカップが凛として残るのみである。

ふと何かを察した私は2階に上がった。別に理由はなかった、なんとなくそうするべきである気がしたから。遠くにいるお父さんと同様、夫婦間で何か共通の勘が働いたのであろうか。

よく冷えた階段を踏みしめ上がっていく。私たちの寝室に入ると、そこには幸せの箱らしきものがあった。

「あら、これが幸せの箱かしら?」

近づいてよく確認しようとした。すると箱から金色のモヤが出てきて、お母さんを包み込んだ。

「きゃっ!」


~~子供たちが知らない、二人きりで過ごしていた時間~~


いつの記憶かしら。まだ子どもたちのいない時代ね。

懐かしい匂い、懐かしい空気。あの一室が私とお父さんの住んでたお部屋だわ。お父さんと結婚した一年目辺りの記憶かしら?

そうそう、安い傷んだアパートに貴方と私は住んでいたのね。貴方はどう感じていたか知らないけど、あの貧乏な生活も意外と粋で楽しかったのよ。ご近所さんとご飯を食べたりお茶をしたり、災害のときにはみんなで協力して生活したり。

私と出会った日や結婚記念日などを貴方は今まで一度も忘れたことがなかった。かえって私が忘れてしまうのだから、貴方には申し訳ないことをしてるわね。

私が貴方の誕生日を忘れていたりすると、貴方は『お前らしくていいよ。面白い』と、怒っているのか楽しんでいるのかわからないことを言って笑い飛ばしてくれる。けど、真意は寂しいわよね。

借りていた部屋での出来事が思い出される。狭くてすれ違うのでさえ難しい廊下。でもそんな距離感がいとおしかった。お風呂も狭くて、とても一緒には入れなかったわね。

立て掛けたテーブルを床に置くと、部屋が狭すぎて壁が背もたれになってた。二人で住むには少し狭かったわね。その代わり、お醤油を取るのには苦労しなかったかしら。

よく『今に楽な生活をさせてやるぞ』と、身を粉にして働いてくれた貴方。私はいつも頑張りすぎで貴方が身体を壊さないかと心配していました。今も昔も変わらなく勤勉ね、貴方は。

今の生活も、あの時代の生活も、それぞれが比較し得ない幸せの形だったのだから。貴方が思うほど辛いものでも、つまらないものでもなかったのだから。そんなに急がないでください。

子宝に恵まれて新居であるこの家に移り住んで、晴耕雨読のような生活ができて。楽しかったのよ、ここでののびのびとした生活は。時代の流れと共にすくすくと成長していく子どもたち。少し成長する度に嬉しさが込み上げてきました。

春夏秋冬、実に多くの出来事が私たちに訪れたわね。本当に楽しくて幸せな時間だった。春夏秋冬各々の季節が訪れる度に思い出す。

夏にはキャンプに出掛けた。愛、徹也と楽しくバーベキューをしたわね。食材を買い揃えたりアウトドア用品を車に積み込むだけでも一苦労だった。朝早く起きての料理の仕込みは大変だろうと、貴方は私を気遣って言ってくれましたね。

けれどそれは違います。料理の仕込みは楽しくて仕方なかったのよ。私が準備した肉の串焼きを、子どもたち二人と貴方は喜んで食べてくれた。ご飯もいっぱい食べてくれた。

貴方から見たら大変なことなのかもしれないけれど、自分の作った串焼きを喜んで食べる子どもたちの顔を見れることが実は何よりの楽しみだったのよ。

その夜に花火をしたことも良い思い出ね。子どもたちがロケット花火や打ち上げ花火など派手な花火に夢中になっている傍ら、私たちは二人っきりで線香花火を楽しんでたわよね。子どもたちにはまだ線香花火の楽しさはわからないようだった。二人っきりで線香花火を見つめての語らいは楽しかったわね。

秋には栗拾いに出掛けた。秋の山はそれはそれは美しくて、心地よい爽やかな金風が流れていた。

貴方は写真を撮ることに夢中でしたね。秋の山々を撮って、私たちの笑顔を撮って、かけがえのないその一時を収めてくれていた。

けど夢中になるあまり愛がいるのに気づかないで、愛を足で押しちゃったのを覚えているかしら?愛が転んで地面に手をついたら、栗のイガが刺さっちゃって、あの子大泣きしたわよね。愛はその後も『お父さん嫌い!』と、しばらくすねてました。深刻に貴方が私に、『どうすればいいんだ………』とちょっと泣きそうな顔で尋ねてきたのも良い思い出。

冬はよくスキーに出掛けたわね。私と愛は下手で滑れないのを見ると、貴方は付きっきりで滑り方を教えてくれた。結局私と愛は上手く滑れず、転んでばかりだったかしら。徹也は元々運動神経が良く飲み込みも早い子で、あまり教わることなくスキーを楽しんでいました。徹也は貴方に良く似たわね。

子どもたちは冬になると決まって、あちこちから雪を集めて来ては家の庭でかまくらを作っていましたね。『良くできたでしょ~』って、二人が屈託のない笑顔で嬉しそうに言うのよ。ソリにスコップを乗せて、集めてきた雪をどんどん持ってきて積んでいました。

お父さんが雪の中に埋めて冷やしていたビールを、雪を集めていた徹也がスコップで割ったのを覚えてるかしら?あればかりはおかしくて、笑うのを堪えきれなかった。かまくらはビールの匂いがプンプンしてました。

それで貴方の週末の楽しみが消えたけど、貴方も私もみんなが笑ってた。かまくらの名前は『エビス』になったわよね。

クリスマスにはサンタさんが来て、二人を喜ばせたっけ。徹也は正直だけど愛は正直ではなかったから、結局何がほしいのか最後まで言わなかったのよね。あの子、お菓子の詰まった靴下は喜んでいたみたいだけど。

新年が明けるとみんなで年明けうどんを食べて、朝まで遊んだわね。お年玉をもらった愛が何を買うのかを見てて、そのときやっとほしいものがわかった。あらゆる種類の、学術的な本だった。心理学の本や数学の本が中心だったかしら。あの子らしい、実用的で真面目なものが欲しかったのね。

そして、春。貴方が毎年公園の桜を背に私たちを撮影する。その写真にはいつも貴方が写っていない。私が代わりに撮ってあげれば良いのだけれど、私はいつも忘れてしまう。

けど来年の春は絶対に、私が代わりに撮ってあげたい。家族思いの、貴方の今のありのままの姿を。

春夏秋冬無邪気に遊ぶ子どもたち。季節が流れ成長する毎に、彼らはそんな元気な姿を見せなくなっていった。

愛も徹也もしっかり者で、ちょっと成長する度にいろいろな料理を覚えていった。愛なんて今や私よりも上手に美味しい料理を作れるようになったし、徹也も一人暮らしには困らない程度に料理が作れるから、いつ一人暮らしを始めても心配ないわね。

二人は掃除洗濯の仕方も、そして礼儀までも覚えて、みるみるうちに手がかからなくなっていきました。それがやはり寂しくて、あの時点で時が止まって欲しいとさえ思った。また遊ぶ事で忙しい春夏秋冬を送りたいもの。

子どもたちが巣立っていなくなっても、私は貴方が居てくれれば幸せです。この先にどんな運命が待ち受けているかはわからないけれど、そんな未来を静かに待ち望んでいます。


~~そして、二人の寝室にて~~


「はわわ………??」

白く霧がかったような外の光景。空気は実に冷たいが、心には何か熱いものがしっかりと残っていた。

何が起きたのか、理解するまでに時間が必要だった。それでも確かにわかっていること、それは今の自分が幸せであるということだった。

表の外灯がいよいよ灯ろうとしていた。まだ4時過ぎだというのに外は妙な暗がりであったが、私の心の中は春の晴天の日のように晴れやかだった。


第4章 子供たちの記憶


自転車であちこちを走り回り幸せの箱を探す高校生が二人。しかしやはり、幸せの箱は見つけられない。愛のストレスはいよいよピークに達していた。

「さむ~い!も~う嫌だっ!」

「まあまあ、そう言うなって。みんなの幸せがかかってるわけじゃん。頑張らないと」

「みんな独り身で過ごせばいい!独り身でも死にはしない!結婚なんかしなくてオッケー!」

「あのねえ………」

そんな会話を続けていると、不意にテツは大切な用事を思い出した。

部活の友達にメールで、友人の誕生日をこっそり祝おうと誘われてたんだった。今日は15時以降にそいつの予定はないはずだったから、いきなり押しかけてお祝いしようと約束していたのだった。

朝に駅前に出てみんなで金を出し合い、いたずらグッズと安いプレゼントを買おうとしていた。しかし停電のため電車は動かず、諦めてみんな個々に袋菓子でも持ち寄ろうと考えていたのである。

正直こういうのは前もって買って準備しておくものなのだが、無計画な男子はこうなるのである。協調性のない仲間しかいないことに諦めさえ感じた。

「ああ~………」

無意識のうちに声を出してしまった。

あ、声に出したらまずい………!

「ん? どうしたのよ?」

ヤバい、姉ちゃんが察したぞ。

「いや、なんでも」

上手く誤魔化そうと平静を装う。様子を伺うと、姉ちゃんの眼光がやや鋭くなっていた。姉ちゃん、勘が鋭いんだよな~………

「あのさ、姉ちゃん。一緒に探すよりも効率は良いはずだからさ、やっぱ手分けして探さない?」

そう言うと、姉ちゃんは俺の表情を伺い言った。

「まあ良いけど。サボんなよ!」

おっ、良かった!同意してくれたぞ!上手くいったか!?

「わかってるって!じゃあ俺は学校方面を探すから」

「ったく………」

最後の一言がなんか怪しかった。やっぱり見透かされてるのか?

気にはなったもののそれは聞けなかった。逃げるように自転車をこいで学校へ向かった。


~~ 次男・雪野 徹也の記憶 ~~


とりあえず単独行動を取ることに成功した。急いで学校に足を進めると、体育館近くの『友の木』と呼ばれる木に向かった。電車が動かないとわかったときに、メールを使ってこの場所で仲間と落ち合う約束をしていたのだ。

がら空きの駐輪場に自転車を置き、部活動をしている生徒以外いないであろう学校の敷地内に入る。いつもは聞こえている吹奏楽部の練習の音もなく、今日は運動部の姿も見当たらない。停電してるからかな。

急いで友の木の下に向かう。だが、案の定そこには誰もいない。残念ではあるがこれは仕方ない。俺が遅れたせいなのだから。

「やっぱあいつら、俺抜きでお祝いやってんのかな………」

携帯を出して友達に連絡を入れようとした。かばんの中にしまった携帯を取ろうとして不意に地面が視界に入った。視線の先には、雪と同化した幸せの箱らしきものがあったのだ。

「あっ!?これが例の箱か!?」

よ~く箱を確認すると、かすかに黄色がかった光がほのかに漏れていた。箱の中身を見ようと箱を掴んだが、そのとき金色のモヤが箱から出てきて、俺は一気にモヤに包まれた。

「うわっ!」


~~ 男の子の夏休み ~~


ああ、懐かしいなぁ。セミの鳴き声が聞こえる。木々が生い茂っている。この記憶は恐らく夏休みの期間のものだ。どこかで見たことのある風景が広がっている。

「お姉ちゃ~ん、お姉ちゃ~ん………」

あっ。小さい頃の俺がどういうわけか公園で泣いていた。どうしたんだ?

「あっ!お母さん、テツヤがいたよ!」

その声を聞いた俺は、お母さんと姉ちゃんなもとに駆けていった。

「お姉ちゃ~ん………」

姉ちゃんに抱きつき泣きじゃくる俺。ああ、俺はこの時迷子になってて公園で泣いてたんだったな。それにしても恥ずかしい………

「バカッ。一人で勝手に出かけるからよ」

姉ちゃんに抱き締められて、安心したのを覚えている。心底安心した表情を浮かべる俺。

姉ちゃんは不安を隠すのが得意だ。だがそうは言っても、このときの表情はさすがに気が気でない様子だった。お母さんは今と同じくおっとりした性格のままで、優しい表情をしていた。

「愛、さすが徹也のお姉ちゃんね。徹也を見つけてくれてありがとう。

徹也が見つかって良かった。さあ、帰りましょう」

お母さんの言葉に、俺も姉ちゃんも同時に頷いた。

「うんっ!」

道の風景を見て、これがいつの記憶なのかを思い出した。

あっ、これ夏休みに帰省中、親戚の家に行ったときの記憶だ!勝手に外に出て道がわからなくなって、迷子になったんだった。それに姉ちゃんが気づいて親戚の人に話してくれて、親戚一堂が迷子になった俺を探してくれてたんだった。

昔から姉ちゃんには心配も迷惑もかけっぱなしだったな。申し訳なくて頭が上がらない。だが当人は恩着せがましいことは言わないし、全然気にしていないようだ。

姉ちゃんとお母さんに連れられて、親戚の家に帰れた。もう帰って来れないかもしれないとさえ思ったほどだ。

居間に入ると、窓際の椅子に座り新聞を読んで平静を繕う親父がいた。心配していない様子でいるが内心は心配してくれていただろう、俺を見るとホッと安心した表情をしていた。

親父はいつも心配をしていないようで、実は常に家族みんなの心配をしてくれているんだ。大概こういうときは座って熟慮していることが多い。動じないのではなくて、全体の動きを良く観察しているのだ。

俺たちが本当に危ない目に遭うとき、親父は必ずそばにいて助けてくれるんだ。陰でそっと見守ってくれているんだよな。そういうことを口に出さないところを俺は密かに尊敬しているし、真似もしてるんだ。


親戚の子達とは良く遊んだものだ。専らお祭りとか海水浴に一緒に行く約束をしてたっけ。たまらなく楽しかったことをよく思い出す。

翌日の昼間は歩いて行けるほどの距離にある、近くの海岸に行った。汚い海ではあったがそこでよく泳いだものだ。

日差しが強く照り返し、暑くなった砂浜や身体。それを冷してくれるのは海だ。夏の香りがすがすがしく、爽やかな風が海にも山にも流れていた。みんなと浮き輪やボールで遊んだよな。

泳ぎ疲れて砂浜で休んでいたときだった。ふと止まることのないさざ波の音を聞き、悠久を感じさせる彼方の水平線を眺めていたときのこと。

不意にこの海岸に自分しかいないような、捉えどころのない不思議な感覚に陥った。初めて『知覚』に疑問を持った瞬間だったと思う。人々の賑わいや、ひいては自分の存在でさえもがここに存在していないような、そんな感情。

その後も親戚の子達や家族と一緒にいたはずなのに、楽しい時間を過ごしていたはずなのに、何故か孤独な気持ちが拭えなかった。そのことを夏になる度に思い出す。

良くも悪くも、そんな体験が俺に哲学の思想を考えるきっかけとなった。思い悩んだ時間は果てしない。夏には時折、こういった不思議な空気が流れるものなのか。

お祭りのある日には、親戚の子達と射的や型抜きに夢中になっていた。気がつくと財布の中が空っぽになってるんだ。親戚のおじさんからいっぱいお小遣いをもらうものだから、お金持ちになった気がして無駄遣いばっかりしていた。

けど姉ちゃんはこの頃からお金には厳しくて、『無駄金は使わない』と財布の紐をきつくしばっていた。つれないところは今と変わらずかな。ただ、お菓子とか食い物は買って食っていた。

親戚の子達と集まり、射的で誰が一番良い景品を手に入れるかを競って大いに盛り上がったりもしたことがあった。景品はどれもなかなか倒れてはくれなかったが、そんな時間を共有できることこそが楽しかった。

型抜きは結局一度も成功したことがなかったな。単純に下手くそだというのもあるかもしれないが、今でも型抜きの難易度はかなりのものだと感じている。

金魚すくいでは誰が一番多くの金魚をすくえるかを競った。けど一概に金魚の数だけではなくて、大きさや色、珍しさによっても周りの評価が変わるのが面白かった。

遊ぶのに疲れるとちょうど良い高さのブロック塀に腰掛けて、ラムネを飲んだり綿菓子、水飴に焼きそばを親戚の子達やそこでできた友達と仲良く食っていた。ちょうちんの明かりのもとで談話しながら食うのは格別だったな。こうして尽きない笑顔の時間は過ぎていき―――

お小遣いは泡のように消えたよ。確かに思慮分別のある今なら、あの頃の金の使い方は浪費のように感じられる。けど、あれもなかなか無駄ばかりではなかったんだよな。

家族、友達と紡ぐ一見無駄な時間こそが、積年の経過とともにかけがえのない時間に変わっていくんだ。みんな人生の寄り道を経て大人になっていくのだから。人生の寄り道は、料理で言うスパイスみたいなものなのだろう。


また場面が変わる。

あっ、これは家にいるときの記憶だ。親戚の家から帰って来たんだな。夏休みも半分を過ぎた頃かな?

夏のある日、親父が俺のためにカブトムシを買って来てくれた。自慢気にカブトムシを見せて、服の胸の辺りにくっつけたんだ。当の俺はカブトムシなんてわからないから、俺が怖がって泣いたのを親父は覚えてるかな?本当に怖かったんだぜ、あれ。

けどだんだん慣れてくると、カブトムシを触れるようになったし育てるのが楽しくなった。しばしば誰が一番大きなカブトムシを育てているか、誰がより多くのカブトムシを育てているかなどを競ったものだ。

カブトムシを注意深く観察したとき、実に多くの発見があったことをよく覚えている。

カブトムシは木に登るのか。

カブトムシは羽を背中の甲羅の中にしまっていて、必要なときには甲羅の中の羽で飛ぶのか。

カブトムシはこの綿みたいな黄色い口でゼリーを食べるのか。

あっ!角で相手をひっくり返した!

などである。他にも光に向かって飛んでいく性質があることや、実は土の中で生活することも大きな発見であった。

夏も終わる頃、当たり前だがカブトムシは息絶えた。昨日まで動いていたのに、動かなくなってしまったのである。

俺はこのとき初めてだったか、『死』というものを理解したんだ。それが今知っている言葉で言えば『不可逆的』な事象であると、このとき初めて気づけた。

とあるゲームでは死者を魔法で生き返らせるというシステムがあった。それは現実でもまかり通る真実だと信じていたのだ。しかし現実ではそれがあり得ないと気づいて、急に生というものがいとおしく感じられた。今まで粗末にしてきた虫や動物の命を思うと申し訳なく感じられた。

土を片付けていると、土に産みつけられたマッチ棒の先ほどの大きさの小さな卵を発見した。これを育てて初めてカブトムシが育つ過程を知れたことも、今思えば大きな発見であった。

家での毎日も、暑いというのに友達と汗だくで外を走り回ってたな。日中もかなり遊んで、日も暮れて空気もややひんやりとした18時頃、家に帰ると飯が準備されてたっけ。あんまり泥で汚いと、お母さんに『ご飯の前にお風呂に入りなさい』って言われたな。

夜には親父が買ってきたスイカを腹いっぱいに食べた。夏の夜は長く、昼も夜も本当に楽しかったな。

カブトムシを取りに行こうと思い、夜に友達と集まって一緒に公園の木を見に行ったりもした。外灯の下に転がっているのを見つけたときは嬉しかったな。たまにクワガタがいると大喜びで、誰が飼うかで大いにもめたものだ。


いよいよ長かった夏休みも終盤か。姉ちゃんもあの頃はまだ計画性に乏しく、宿題を貯めていた頃だ。俺と一緒にテーブルに向かい、遊びながらも勉強している。

母さんが台所で冷やし中華を作っているようだ。麺を茹で、キュウリ、豚肉、錦糸卵を添えている。苦手な紅しょうがは俺にはなしだ。姉ちゃんは少し食ってたっけ。

母さんの表情は特に何かあったでもないはずなのに、とても嬉しそうで優しい顔をしていた。料理も下手で、片付けも下手で、どんくさくて、適当で、忘れっぽい母さん。


でもさ―――


母さんは俺たちのことを他の誰よりも愛してくれている。父さんでもやはり、子を思う気持ちでは母さんに敵わないのではないだろうか。

母さんが冷やし中華を作って居間に持ってくる。お昼を待ちかねる俺たち。暑さの厳しい昼を、冷えたカルピスを飲んで耐えていた。

出された冷やし中華を夢中で食べる俺と姉ちゃん。その姿を見て、母さんが嬉しそうに微笑んでいた。自分はご飯を食べず、幸せそうに俺たちを見つめていた。

あの日の俺は母さんのその眼差しが何を意味しているのか気づけなかった。けど、今の俺ならわかる。大人に近づいてようやくわかったよ。

これが、母さんの幸せの形なんだな。


~~そして再び友の木にて~~


「………」

息もできないほど、これらの記憶は俺に強いインパクトを与えた。何をするために俺はこの木の下に来たのか、それさえも思い出せなくなった。

未だ頭の整理のつかない俺を置いて、幸せの箱は上空に紛れて消えていった。


~~ 長女・雪野 愛の記憶 ~~


依然として幸せの箱を探す愛。もう日はとっぷり暮れていて、通行人もほとんどいない。

「うう~、寒い………。そろそろ私、ヤバいかも」

四肢は冷えきり霜焼けした手は赤色から紫色に変わっていた。体力は限界を迎えつつあった。

これで町内を回って見つからなかったら、もう諦めて家に帰ろうと考えていた矢先のことだった。公園を通り過ぎると、公園の草むらそばに金色に輝く何かを見つけた。背の低い男の子はその箱を見つめている。

「(あっ!もしやあれが!?)」

自転車を公園の入り口に駐輪し、草むらまで歩く。男の子は見覚えのある顔であった。

「………ナオじゃない?何してんの?」

「あっ、愛さん!」

いつものとおり、言葉が続かない様子。

「その箱、寄越しなさいよ」

「えっ、でも掴めないと思いますよ?」

掴めない?そりゃ困ったもんだ。掴めないならどうやって回収するのよ?

「いいからどいて」

と半ば強引にナオを斥けると、私は幸せの箱に手を伸ばした。

すると金色のモヤが箱から出てきて、私たちは意識を失った。

「きゃっ!?」

「わぁ!」


~~空っぽな自分~~


なんだ?何が起こったんだ?

網膜に直接映像が現れた。天使が箱の落下地点の説明をするときに知覚した感覚と似ている。映るのは私の17年間の人生での、数多くの楽しかった記憶であった。

運動会、芋煮会、学芸会、そして学校での何気ない勉強の日々。家族での団らん、祖父母の家での団らんなど、楽しかった思い出が胸に溢れかえる。

運動会ではおばあちゃんたちが見に来てくれたのが嬉しかったっけ。昔はおばあちゃんも元気だったのになぁ。今ではちょっと体調が思わしくなくて、それが少々気がかりだ。

場面が変わる。

今度は芋煮会での風景だ。不思議とナオがそばにいる記憶が多い。いつものおどおどした態度で私に話しかけるのよね。しかしなんでテツが一緒に芋煮食おうと誘われているときまで、ナオは私と一緒にいたのかしら?

まあ理由はどうあれ私いつも一人であぶれている状態だったから、ナオがそばにいてくれて助かった。お陰で暇もしなかったし。たまにちょっかいを出したりもしていた。

また場面が変わる。

学芸会ではやはりお父さんお母さんに恥ずかしいところを見せたくなくて、気づけば緊張で顔が真っ赤になってたっけ。たかだか2~3の台詞しかないのに、その台詞が片言になっていたことを覚えている。みんなにあがり症なのを知られてしまったのはそのときだった。

あの後クラスの男子にも結構冷やかされたなぁ。このとき初めて、冷やかされたり毒づかれることの苛立ちを知ったんだ。今では良くも悪くもこれが言葉の武器となっている。

冬の放課後には暇をもて余した生徒が玄関口とかに集まってたな。女子はよく雪だるまを作ってたっけ。

一方バカ男子は傘を使って雪合戦をしていた。開いて盾にしたり、剣のように使ったり。これが案外観戦してて暇にならない。上級生に混じって戦うテツがなかなか強かったな。

そう、確かにどれも楽しかった思い出の数々だ。だけど―――

私の思い出は学校と家族の行事ばかり。つまりそうだ、自分が今までほとんど『無感情』で、更には『受け身』で生きてきていたことを、この回想は如実に証明していた。こんなの、本当の幸せじゃない………

忘れかけた時に人は大切な記憶を思い出すものなのかしら。私の中で消えそうになっていた、いくつかの記憶が蘇ってきた。


「(あっ、公園だ)」

小さい頃の私がブランコに乗って泣いている男の子を慰めていた。

ん?………誰だ?あれはテツじゃないし。

ああ、思い出した。あの少し茶色かかった髪の特徴的な、色白のモヤシっ子はおそらくナオだ。

これは何年前の記憶だ?あ、ずいぶん前に撤去されたブランコが設置されているのか。

………確か公園の古いブランコがなくなったのは私が7歳くらいのことだったから、ブランコがあることから察するに、恐らくは私が5、6歳の頃の記憶かもしれない。ちなみに今は別に新しいブランコが設置されている。

懐かしいなあ、これは記憶の中にしかなかった風景だ。今我が家で持っている写真にもこの風景はない。

少々気にかかることがあった。何故ナオはこんなに泣いているのだろうか?

公園の一角には一本大きな木がある。最近ではユカリと集まるときの集合場所にしたり、昔はテツがカブトムシを捕まえるために餌をしかけたりもした。

その木の下で少々体格の良い男の子三人が、当時流行っていたと思われるロボットのおもちゃを使って遊んでいたのだ。

けどそのおもちゃはナオのものだと、その光景を見て思い出した。要はおもちゃを取り上げられて泣いているわけか。

「あの人たちに、ロボット取られちゃったぁ………」

ああ、そうだ。おもちゃを取られてたんだ。このシーンは思い出せたけど………。このあとどうなるんだっけ?

「わかったからもう泣き止んで」

小さい私はそう言ってポケットからティッシュを取り出し、鼻水を拭き取った。小さいながらもまあまあ他人に気を利かせている自分に少々驚いた。意外としっかりしてるなあ。

けど、今の私ならこんなことはあえてしないだろう。女なら慰めるけど、男は基本的に放っておいたほうが良いそうだから。それに、変に気を持たれるのも面倒くさいからだ。

ここで本音が出る。男の子たちにおもちゃを取られたなら、殴り合いでも何でもして取り返せばいいじゃない。昔も今も逃げてばっかりなんだから。メソメソ泣いて、全く男らしくないなぁ。

昔からナオは性格が女のようで、ケンカなどをできるような性分ではないのだ。優しいというのか、血の気が薄いというのか。負けっぱなしでも悔しいという気持ちは湧かないらしく、そのままで良しとする性格だ。これが今も変わらないのよねえ………

「おい!それ返せよ!」

あっ!ちっちゃいテツが出てきた。この頃は子どもっぽくて可愛かったのねえ。今はまあ立派な男になって。

テツは一人で男の子三人に果敢に立ち向かっていく。昔から気は強かったのだ。テツが男の子三人と交渉している。そして、案外すぐに話は決したようである。

彼らは別に悪気があっておもちゃを取り上げたのではない。ただ遊んでみたかったからからおもちゃを取り上げたような形になっていただけのようだ。交渉してみれば彼らはあっさりおもちゃを返してくれた。実は彼らは素直な良い子であったわけだ。

子どもは良くも悪くも正直なものである。欲しい物は欲しいし、嫌なものは嫌なのである。ただロボットのおもちゃで遊んでみたかっただけで、おもちゃを取り上げた行為にも特に悪気はなかったのである。

テツはおもちゃを取り戻すと、嬉しそうにナオの元へ駆け寄った。

「へへー、これお前のおもちゃだろ?ほら」

ナオはおもちゃを受け取ると非常に嬉しそうな表情を見せた。ナオの屈託のない、正直な笑顔。その笑顔を見たとき、なんだか大切な何かを見つけられたような気がした。

テツは私以上に、先に人生を歩んでいたのね。私は自分のことばかりで他人の幸せになんて気にかけたこともなかった。そう、結局は自分の幸せのためだけに。

思慮分別のある今だから理解できる。他者への献身というものは、自分も相手も幸せになれる素晴らしい方法だったのだ。そんなことにようやく気づけた自分が妙に小さく感じられた。

薄々気がついてはいたけど、周りのみんなはほとんどこのことを知っていたじゃない。私だけだったんだな、、、幸せになれる方法を知らなかったのは。


また金色のモヤが流れ、別の場面が現れる。

さっきとはうって変わって、比較的最近の記憶のようだ。我が家での記憶だった。テツ、ナオ、私とユカリの4人が私の部屋で遊んでいる。

ユカリは近所に住んでいる、私より二つ年下の女の子である。良い子なのだが少し快活過ぎる面もある。明るくて男受けは良いらしい。

私たちはどうやらトランプで遊んでいるようだ。話し飽きて更にテレビも見飽きてか、大富豪で遊んでいるらしい。

このときのことを思い出した。大富豪でテツがどういうわけか勝ちまくるのだ。ちゃんとみんなでシャッフルしているときも、決まってテツが勝つのだ。

テツは昔から勉強は人並みとしても頭の回転が速く、私が救われることもままあった。学力は私の方が上だが、判断と勘においては未だにテツの方が上だろう。

私の思考パターンは私の札が一体何の手を有していて、誰が何枚カードを持っていて、あのカードは出たから革命はないとか8切りはないとか、そういった可能性をつぶしていく戦略だ。

それに比べテツの戦い方は、こちらにとって困る戦略をうってくるのだ。ここで切れなかったらあとは微妙なカードしか残らないという状況で必ず勝負を仕掛けてくる。勝ちへのチャンスを潰してくるのだ。

要は私が一番の強敵というわけであろう。私を倒せばあとはナオとユカリしか残らない。もしかするとだが、二人の手の内も読んでいるのかもしれない。

つまり私はルールやシステムから戦略を構成するが、テツは相手を見極めて戦略を構成するのだ。これほど手強い敵はない。

けどまあ、この能力が生きるのは遊びくらいのものだ。この頭脳をゲーム以外の何かに活かせればねぇ………

一方でナオとユカリは下手くそで、こちらも飽きてくるほどだった。決まって私かテツかが大富豪争いをして、ナオかユカリが大貧民争いをするのだ。しかしながら不思議とナオもユカリも楽しそうにしていた。

………勝てなくても楽しいのかなぁ?この二人は本当に相変わらずで、子どもの頃から競争心が全く足りないのだ。少しは競争心を持って欲しいものである。

しかしながら、こうして時間を共有できる事も意外と楽しい時間だったのかもしれない。最近は学校の勉強や部活が忙しくて、一緒に遊ぶ暇もないからだ。

4人で特に統一感のないくだらない話をしていた。せっかく遊びに来てくれたのだからと、二人にお茶菓子を出すことにした。

「そうだ。二人とも羊羮あるけど食べる?」

「はい、食べたいです」

「食べま~す!」

二人とも好意を断る性格ではない。せっかく遊びに来てくれたのだから、少しはもてなしておくかな。

「じゃあ、今用意するから待ってて」

そう言って私は一階へ降りた。

まず湯呑みに茶葉を入れ、急須にお茶を注ぐ。葉は開きすぎるとちょっと濃い目になるため、適度なタイミングで湯呑みにお茶を注いだ。これを放置して、少々ぬるくなればちょうど良い具合になる。

次に羊羮を切り分けようとしていた時だった。呼んだわけでもないのに、突然ユカリが降りてきた。

「ん?どうしたの?」

「愛さん、私も手伝いたいです」

「へ? いいよ別に」

しかし、ユカリは手伝う気のようだ。

「いえ、手伝いたいんです。お皿はどれを使いますか?」

もてなしのお菓子を客人に手伝わせるのもどうかとは思うが、まあ気心知れた仲だし構わないか。そう思って彼女に手伝ってもらうことにした。

「そうねぇ。じゃあ、そこに花柄の皿があるでしょ。それを4枚出して」

「了解で~す」

羊羮を切って皿に分けた。残りの羊羮を冷蔵庫に片付けていると、ユカリは突然恋愛話を始めた。

「愛さんって、好きな人はいないんですか?」

「何よ、突然?」

「いや、愛さんが恋をしたら相手にどういった行動を取るのかが気になって」

「私は待つかなあ?でもさっさと手をつけておくのも手よね。………て、なんでそんなこと聞くのさ?」

「好きな人と一緒にいると、ドキドキして話したいことが何も話せなくて。夜も眠れないんです」

なんだ、ユカリもこんな話をするのか。ユカリは馬鹿で能天気な奴だから、私のような恋愛に無関心な人間にそんな相談してきたのだろうか。と、そう思っていたのだが………

「愛さんもテツ君も本当に優しいですよね。人に配慮できるところが素敵ですし、二人とも本当に尊敬しています」

恋愛の話かと思いきや突然私たちの話に言及するものだから、正直驚いた。

「ええっ、あ、そうなの?有り難う。

………突然どうしたの?」

やや困惑した私にはお構いなしで、更にユカリは質問をしてきた。

「ちょっと質問なんですけど」

「ん?質問?」

「テツ君って、、、彼女はいるんですか?」

テツに彼女??いや、いないでしょ普通に。

その言葉を聞いて、今までのユカリの何気ない行動の一つ一つが思い出された。そしてそれらは、ある一つの感情を示唆したのだ。

何故今まで気づかなかったのだろうか。この時初めて気づいたのだが、ユカリはテツのことが好きだったのである。

ユカリを悲しませないように、笑い混じりでテツがモテないことを話した。

「テツは別にモテてないみたいだけど。バレンタインデーでチョコもらってるのだって見たことないし」

そう言うとユカリは強く反論した。

「バレンタインデーのチョコなんかでモテるモテないを判断する事はできないですよ。特に私のクラスの女の子達はみんな、相手は違えど片思いしっぱなしで意中の男の子を待ち続けているんですから」

「そんなものなの?まあ私は恋なんかしないからそういうの良く分かんないけどさ。

………なんというか、物言える立場でもないんだけどさ。相手に好かれるためにアクション起こさないと、何も始まらないんじゃない?」

「その通りですね。ですからその『アクション』を起こすために、仲介者の力が必要になるんです。愛さんにもいろいろと協力してほしいんですよ」

「ははは………、私に協力しろって?」

「笑い事じゃないですよ!私は真剣なんですから!!」

そのときの真面目な目付きを見て、ユカリがいかに真剣にテツに恋をしているかを気づかされた。こんなに本気でテツを好きになっていたとは知らなかった。

「わかった、ある程度は協力してあげる。けどユカリ、結局はあなた次第だってことをちゃんと覚えておきなさいよ」

そう言うと、ユカリは少々うろたえた。

「はい………、わかってはいるつもりです」

「最近の男は女の子の好意に気づいてても動かない奴が多いみたいだけど。てことは男も女も動かないんだから、先手必勝じゃない?この人が好き、と思うなら、早めに動いたほうが良いってわけね」

「その勇気がなかなか出ないんです………。嫌われたらどうしようとか考えちゃって………」

「ん~。私は本当に恋とかしないから、全っ然そういうのわからないのよねぇ。けどまあ、大丈夫だよ。………」

そこでテツの性格の良さを引き合いに出して『ユカリがフラれることなんてないと思うよ』と言って安心させようと思ったが、潜在意識が口を止めさせた。

落ち着いて考えてみればそうだ。テツが………、テツがユカリのものになってしまうってことなのよね?………

「愛さん!愛さんは、、、私のことを応援してくれますよね!?」

そう言われたとき、なんというか妙に気分が悪くなってしまった。

これは単なる他人事の恋愛相談ではない。血の繋がった弟に恋する女の子の恋愛相談だから、違和感がないほうがおかしいのである。そう思うと、理論と法則でものが言えなくなってしまったのだ。

テツは本当に良い奴だしモテるのも当然納得がいく。しかしながら、二人が恋仲になってしまうことを思うと、テツもユカリも遠くに行ってしまう気がしてならなかった。ひいてはテツを盗られてしまうような、そんな感覚さえある。

「ど、どうしてだろう?急に胸が苦しくなってきたかも………」

ユカリの顔にはいつもの笑顔はない。真剣な眼差しで私を見つめた。

「まさか愛さんも特別な気を持っているんですか?けどお姉さんなのに、弟を恋人にはできませんよね?」

「いや、そんなんじゃなくてさ。………」

私は寂しかった、素直に寂しかったのである。テツもそうだがユカリまでもが私を置いていってしまうような、そんな辛い圧迫をピシピシと肌で感じさせられたのだ。

ユカリも私と同様恋愛なんかしないのだろうと、私は勝手な推測を立てていたのだ。しかしそんな推測は今、大きな音を立てて崩れ去ってしまったのである。まさか、ユカリも恋をしていたのか。。。

しばしの沈黙の後、私は平生を繕ってこう答えた。

「二人の応援はするよ。………だから、頑張って」

精一杯の強がりだっただろうか。そんな言葉でさえ口に出すのがやっとであった。こんなに喪失感を感じたことはなかったのだ。

その言葉を聞いたユカリはパアッと表情が明るくなり、非常に喜んだ。

「やった!有り難うございます!」

やっぱり嫌だ。なんだか取り残された気持ちが拭えないのである。精神的に意外と深いダメージを受けていた私に、ユカリの次の一言が心に突き刺さった。

「将来、愛さんが私のお姉さんになるかもしれないですね。そうなったらとっても嬉しいですっ!」

悪意のない、屈託のない笑顔でそう言われた。ユカリの嬉しそうな表情が私の心を強く圧迫する。

そこで記憶が途切れた。


~~そして再び、公園にて~~


まぶしい金色のモヤの中の世界とは裏腹に、この世界は異常に暗く暗く感じられた。公園にある外灯は私とナオの顔を薄く照らす。幸せの箱はどこかへ行く様子もなく、ただ空中に留まっていた。

すると、不意にテツの声が聞こえた。

「あっ、姉ちゃん!!」

公園沿いに通る道路に父さんと母さん、そしてテツがやって来た。

「早く!その箱を捕まえて!」

みんな幸せの箱を指指した。

「えっ、やっぱりこれなの?」

「そうだよそれそれ!早く捕まえないとどっかに飛んでいっちゃうから、早く!」

テツに言われるがままに、素早くそれを捕まえた。

箱からは依然として金色に輝くモヤがこぼれていた。動く様子のない箱を見てか、お父さん、お母さんとテツは安堵した表情をしていた。お父さんが言う。

「私たちが近づくと幸せで斥力が働くらしいんだ。だから私たちは近づけない。愛、その箱をしっかり持っていなさい」

そんな言葉を聞いて、要は私は幸せではなかったということと、家族のみんなは私の気づけなかった幸せの定義に気づいていたことを悟らされた。

たまらなく悔しかった。どうしてみんな、誰だって知っている幸せの定義を教えてくれなかったのか。

………いや、けどその定義を知っていたとしても、自分の幸せを優先しようとして結局は幸せから遠ざかってしまう選択を私自身がし続けていたに違いない。私と知り合った他者にも軽い苛立ちを感じたが、自身に対してはより強く苛立ちを感じていた。

「何よそれ!?じゃあみんなは幸せってわけ!?………」

見つめた幸せの箱は、依然として私から遠ざかることもない。そのことは私が幸せでないということを如実に証明していた。

みんながそれぞれ持っている『幸せ』が私にだけないと思うと、劣等感と苛立ちで胸がいっぱいになった。どうせこの箱の世話にはなっていないわけだから、この箱をぶん投げてしまおうかとも思った。

淡い光が雲の隙間からすうっと地上に降りてきて、公園全体を淡く照らした。空から清く美しい姿をした天使が降りてきたのだ。どうやら私が幸せの箱を持っていることに気がついたらしい。

「有り難うございます、愛さん。これでまた世界中の人々に幸せを配ることができます」

今まで天界で高見の見物をしてたくせに、突然下界に降りてきて『箱をください』とは、ずいぶんなご身分である。しかも私にだけはまだ幸せを寄越してないんじゃない。私は箱が無くても困らなかった部類か。

しかも困ったことは人に頼んで任せっきりではないか。見つけたきゃ自分で探せば良いじゃないか。

「これは返さないわよ」

そう言うと、家族の全員が凍りついた。ナオはキョトンと事態を呑み込めないような表情をしていた。

お母さんが声を荒げて私に怒鳴る。

「愛っ!それをすぐ天使さんに返しなさい!」

テツが続ける。

「何言ってんだよっ、姉ちゃん!」

お父さんは非常に怒っているようだ。

「愛!素直にその箱を天使さんに返せ!!」

天使はまた泣きそうな顔をして、私に懇願する。

「お願いです、箱を返してください!」

お父さんもお母さんもテツも、みんな良いように天使に使われただけじゃない。しかもこんなに寒い思いをして。風邪を引いたらどう責任を取るつもりなのか。

「厚かましいってのよ。こっちは寒い思いをして探してやってんのに、あんたは天界に戻ってただ私たちが箱を見つけるのを待ってるんだ?あんたも下界に降りて探すのが、本来の姿勢ってもんじゃないの?」

「それは………」

天使はまた泣き始めてしまった。全くよく泣く天使だ。それがまた更に意地悪をしたくさせる要因となった。

「愛っ!」

不意に何者かに左腕の肘を引かれた。振り向き様に左の頬をぶたれた。


パシッ


一体誰が?

振り向くとそこには、険しい表情のお父さんがいた。

「ったあ!何すんのよ!」

お父さんは抑揚のない声で私に言う。

「いいから、すぐにその箱を天使さんに返しなさい」

私はくやしくて、悔し紛れの文句を言った。

「ふん、ちょっと冗談を言っただけなのに………」

普通に冗談だけではなかった。天使が気に入らなかったのは確かだし、みんなは私と比しても幸せを持っているのだから、それが面白くなかったのだ。

けれど、だからと言ってまさか頬を自分の父親にぶたれるとは。天使に鼻の下を伸ばしている男の分際なのに。

「………わかったわよ」

しぶしぶ幸せの箱を天使に手渡した。すると天使は心底喜んで、何度も私に感謝した。

「有り難うございます、有り難うございますっ!」

幸せの箱を受け取ると、天使はいよいよ天界に帰るときが来たようだ。すうっと空へと上がっていく。

「雪野家のみなさん、幸せの箱を探していただき有り難うございました。ご迷惑おかけ致しました」

私は更に毒づく。

「本当に迷惑だったわよっ」

テツはそんな私をなだめる。

「まあまあ、姉ちゃん………」

お父さんは優しい表情をして言う。

「私にだけになら、また迷惑をかけてください」

お母さんも続ける。

「私なんかでお力になれるなら、また困ったときには家に来てくださいね」

それを聞いた天使は泣き顔を隠し笑顔を見せた。最後にお礼を言い残し、はるか天界へと帰っていった。

「………ありがとう」

天使が残していったかすかな明かりと香りが、この狭い公園一帯を暖かい空間にしていた。


第5章 そして家族になる


天界に帰った後も公園で立ち尽くす私たち。天使と先ほどまでそばにいて会話していたことを思うとかなり不思議な気分がした。この気持ちを例えるならば足が地面につかずフワフワしているような、そんな感覚だ。

容姿も美しかったし、透き通るようなきれいな声だった。気品に溢れていたな。辺りはポウッと薄明かるくなっていて、雪明かりを思わせた。

お母さんが呑気に言う。

「ふふ、天使さん嬉しそうな表情をしてて良かった。でもやっぱりお空に帰っちゃったわね」

お父さんは驚きを隠しきれない。

「天使がなあ。こんなこともあるんだな………」

テツは今の神秘的な出来事よりも、今夜の夕飯に意識が回っているらしい。

「うお~………。早く家に帰って晩飯食おうよ~。超寒いし、腹減ったよ………」

お母さんははっとしてこう言った。

「そうだわ!早くお夕飯の支度をしなきゃ!」

それを聞いたお父さんは、疲れがどっと出たのか、かすれて疲れきった声で言う。

「俺、明日も仕事があるんだ。早く家に帰って飯を食って、風呂に入って寝よう………」

くたくたになり、身体の芯から冷えきってしまった私たち。これだけ協力してやってもやはり、天使からのお礼は一切ないのである。虚しさは残るな………

強く雪の降り積もる12月の気候は、私たちの身体の熱を奪い強く疲弊させていた。しかし心だけは違っていた、ものすごく温かかったのである。

父と母とテツは私よりも先に家に帰って行った。


~~幸せの箱が戻った天界では~~


下界から帰った天使は足早に神様の元へと駆けた。

「神様!やっと、やっと!幸せの箱を見つけてきましたっ!」

それを聞いた神様はひっくり返らんばかりに驚き、幸せの箱に飛び付いた。

「おお!!間違いない、これだ!よくやったね!」

良かった、良かった!下界が元通りに、幸せ溢れる世界に戻れるかもしれない!

神様は撒かれなかった分の幸せを急いで下界に撒いた。幸せが撒かれたその途端、淀んでいた空気は透き通って清く浄化された。この世界にいつもの幸せが戻ったのである。

天界にも幸せな空気が戻る。心なしか雲の上も明るくなった様子だ。胸に自然と幸せな風が流れ込んできて、春の陽気が吹き込んできたような気持ちがした。清らかな空気が下界を包み、濁った回転は清く清く変わっていく。


~~その頃、地上では~~


天使は天界に、家族は家に帰った後も、私だけは依然として家に帰れないでいた。帰れなかった理由としては、先ほどお父さんにぶたれたこともあり家族と顔を合わせづらいという気持ちがあったからだと思う。

なんであんなつまらない態度を取ってしまったのか。心の中には少々寂しい気持ちが残っていた。

「は~あ、とんだ災難だったなあ。まだ頬が痛いんだけど」

それを聞くとナオは苦笑いしつつこう言う。

「ははは………。あんなことを言うからですよ。どうしていつも愛さんは突っ張ってるんですか?」

その問いに、私は毅然として答えた。

「別に突っ張ってなんかいないわよ。本当のことを言ってるだけじゃない」

その言葉にナオはやや閉口した。

「それですよ、それ。その行動が突っ張ってるんですよ………

言うまでもないとは思いますが、本音というのは相手にとって不快なことも多いですよ。相手を傷つけてしまっていることはもうご自身でわかっていますよね?今度からは相手の気持ちを配慮してみたらどうですか?」

「ん~、確かに一理あるわねぇ。じゃあ今度は『一歩引く』ことができるように努力しようかな」

「そうですね。その方が愛さんも相手も幸せになれますよ」

「ふふっ、幸せかぁ………。私には関係のないことかも」


二人で何気なく、街灯で薄明かるい公園を散歩していた。別にこの行動に意味があったわけではない。なんとなくそうしてみたかっただけである。足が勝手に動いていたというのもあっただろうか。

先ほどモヤの中で見た過去の記憶を思い出していた。話はその記憶の中の、子どもの頃のことに言及した。

「あんたさ、あのときのこと覚えてる?この公園でメソメソ泣いてたときのこと」

「はい。テツ君が僕のおもちゃを取り返してくれたときのことですよね?さっきその記憶を回想しました」

「あんたって昔っからあんなに気が弱かったのね。けどやっぱりテツの気の強さは今と変わらなかったか。相変わらず良い奴だわ」

「僕も同感です。テツには今でもお世話になりっぱなしですね」

「まあ近くで見てると意外とルーズだし、だらしないんだけどね。

話は変わるけど、芋煮会とか学芸会のときとかも、必ずいつもあんたがそばにいてくれたんだよね」

「………バレましたか」

「バレてないとでも思ってた?本っ当に昔から今の今まで間抜けなんだから。

………でもさ。本音はね、あんたがそばにいてくれて、私嬉しかったのよ。あんたをからかうのも楽しいもんだわ。なかなか口には出せなかったけど、やっぱり一人は寂しいからさ」

内心、ちょっと恥ずかしいことを言ってしまったと思った。大した自己開示をしたことのない私にとって、それは珍しい一言だったと言えるだろう。

するとナオは真面目な顔で私を見つめた。

「僕だって………、独りの淋しさは知っているから。だからこそ、いつも愛さんのそばにいたかったんです」

今までナオの経験してきた記憶が私にのしかかったように感じた。胸が苦しくなる。

「ナオ………」

せきを切ったようにナオの口から言葉が溢れてくる。

「子どもの頃の僕は虚弱体質で、ごはんもろくに喉を通りませんでした。医者には気管支喘息と言われ、その上アレルギー体質もあって、表に出て走り回ることはなかなかできなかった………

友達と走り回ればすぐに呼吸が乱れたり、不意に発疹が出たりする。そんな僕を友達にしてくれる人はあまりいませんでした。更に両親が過保護だったこともあって、僕が危険なことをする度に遊び友達の子にきつく当たっていました。

本心としては、本当はもっとみんなと遊びたかった。そう思ってもそれを母さんは許してくれなかったし、僕の身体もついてこなかった。

やがて別にいじめられたわけでもないのに、僕は孤立していきました。当たり前ですよね、一緒に遊ぶにしてもリスクが高いし泣き虫だし、何にしても足手まといになるからです。

やがて気がついたら、僕は家に引きこもりがちになっていました。学校もほとんど行かず、ずうっとお母さんと家にいて。同じ年の子達と遊びたい気持ちも一緒にいたい気持ちも押し殺して、、、ずっと孤独に耐えていました。

僕は寂しかった。ただただ、寂しかった………」

私はナオの悲しげな顔を見ないように、空を見上げながらこう言った。

「神様って不平等よね。どうしてナオは生まれつき不便な身体なのかしら?」

ナオは声色に悲しみを濁らせつつ、切々と話した。

「身体の特徴については、別に悲観するほどではありません。この体質はもう受け入れてます。単純にこの二つだけを気をつけていれば普通に生活できますから。食事も注意していればいっぱい食べられます。

ただそれによってつきまとう弊害は確かに悲観するに値するものでした。『自分とは違う』という固定観念で見られる周りの視線には耐え難かったです」

そう、本当は他人とのちょっとの違いを気にする必要なんてないんだ。人がいるから不幸になる。人の主観がその人を不幸にしているんだ。

私自身が人々を見て常々感じていることを話した。

「大半の人は主観でしかものを見れてないのよね。だから間違った解釈も生まれてくる」

ナオは私の言葉に対し答える。

「それは、、、僕も愛さんも同じですよ。そういった見方をする人を劣っていると見なしたら、自身の否を認めているのと同じです。

けど、だからこそ。自身とあまり変わらない他人を、更には多くの人を認めさせたくなる」

そんなナオの健気な一言で、私ははっと気づかされた気がした。その言葉でナオの努力溢れる行動の数々の理由が私の中で繋がった。

どうして身体の弱いナオが柔道部に入って身体を鍛えているのかも、どうしてアレルギーと喘息のため病院に定期的に通いながらも学校は休まないのかも、どうして早朝ランニングや筋トレをしているのかも、これで説明がついたように感じた。

それは誰かを、ひいてはみんなを見返してやろうとしての行動だったのであろう。そして今日も彼は、普通以上に立派な身体を持った好青年となっているわけである。

健常な身体を持っているにも関わらず現状に満足している自分に気づき、強く恥ずかしさを感じた。まだまだ頑張っている人がいる。私だってまだまだ頑張れるはず。そう思うとナオがとても立派に見えた。

もう昔の泣き虫のナオはいないようだ。彼の成長ぶりを見て嬉しくなった。本当に身心ともに強くなったわね。

「そうね、その意気よ!あんたの周りにいる人間を見返してやりなさい!

ずいぶん成長したわね、いつの間にこんなに成長したのかしら?」

ナオは照れ臭そうにこう答えた。

「僕の考え方や行動は、愛さんの行動を真似して手に入れた物なんです。愛さんの何気ない言葉遣いや配慮、気品に溢れた姿勢もそうです。どうして愛さんは適切な立ち居振舞いや相手への気遣いを知っているんですか?」

そう言われたものの、いつの間にか身に付いていたものが立ち居振舞いというものであろう。少々悩んだが、なかなか出てこない。

良く考えてみれば、お父さんが私の立ち居振舞いに影響していることに気がついた。

「たぶんだけど、だいたいはお父さん譲りかな?お父さんは規律がしっかりしてて真面目だし、日課はどんなに忙しくても必ずこなすのよ。私も尊敬してるほどね」

「じゃあ、お父さんは誰から立ち居振舞いを教わったのですか?」

「さあ?会社の上司とかじゃない?」

「お父さんも誰かの立ち居振舞いを教わって得ているわけですか。となると、立ち居振舞いや気遣いというのはいつまでも後世に回っていくものなのでしょうか?」

「たぶんね。それを必要と思う人がいる限りは」

「そして、今日も誰かがまた優しい気持ちになれる」

その言葉を聞いて、ナオの成長が嬉しくなった。

「本当に芯が強くなったわね。もう世話を焼くこともなくなるのかな。嬉しいけど、意外と寂しい気持ちもあるかも」

けど私はナオが言うほど優れてもいないし、結局今も空っぽなままなんだ。ナオもテツもユカリもみんなみんな、私を置いて幸せになってしまうのね。

そう思うと、お月様が涙でボヤけて見えた。唇を噛み締める。

「あんたたちがうらやましいなあ………」

素直な心で濁りを知らず、良いものを受ける大きな受け皿を持っている。私だって本当はそうであったはずなんだ。いつからこんなに心が濁ったのかしら?

そんなとき不意に、後ろから私の身体が抱きしめられた。

「愛さんっ………」

「キャッ!」

立派な身体つきで、筋肉が私の身体に当たる。内心ドキドキしたが、平生を繕いこう尋ねる。

「………ど、どうしたのよ?」

「僕はうわべだけを立派に見せる方法は身に付けましたが、やはり中身は弱虫なあの頃の直太のままなんです。それほど成長なんてしていないんですよ。

だけど、それでも身体が弱いなりに身体を鍛えました。一生懸命努力もしました。強くなるために、大切な人を護るために」

「それで良いのよ。自立しなさい。いつまでも支えに寄っ掛かってたら、それだけで毒よ」

「今度は僕が、愛さんを支える番です」

「えっ?何………」

ナオはいつも以上に真面目な顔で、私にこう言った。

「愛しています。僕と付き合ってください」

不意な告白だった。驚きと喜びが混ざる。頭の中がお湯に浸かったように頬は赤らぎ、気持ちの整理がつかなくなってしまっていた。

その言葉は非常に嬉しかった。そんなことを言ってくれる人なんてあと何人もいないだろう。しかし、行動と気持ちは相反していた。

「………何言ってんの?ちょっと放しなさいよ」

そう言って冷たく突き放した。

「やっぱり………、僕ではダメですか?」

気持ちと相反する言葉ばかりが出てしまう………。こんなことは言いたくないのに………

「あんたみたいな弱虫じゃあ、先が思いやられるわ。10年早いわよ」

ナオは傷ついている様子だった。

「………すみません」

ダメだ、こんなに刺々しいことを言いたくないのに。もう少し素直になれれば………

「でも、別に私はダメとも言ってないでしょ。あんたみたいなだらしない奴と一緒で大丈夫かって心配でさ」

「えっ?それって―――」

私の隠してきた、踏ん切りのつかない気持ちがせきを切って出かかった。季節外れの春風が、私の背中をそっと押してくれたのだろうか。

「………いいよ、付き合ってあげる。面倒見てあげるわよ」

ついに、ついに言えた。

そう、一抹の不安のためにいつもしたいことや選びたかったものを避けてきたんだ。けど選ばなければ無が残るばかり。確かにその『選ばない』選択肢は責任を負わなくて済む可能性も高いものであった。けれど、同時に幸せを生むこともなかったのである。

だがこのときは、私の生涯で初めて逃げずに自分の意思で選択肢を選んだ瞬間であった。

「ぼ、僕を選んでくれるんですか!?」

「そういうことかもね。確かにあんたは弱虫だけど、弱い故の寄り道があったからこそ、弱い者に優しい今の直太がある。ひいてはそれこそがあんたを強くしてるんだよ。そういう奴って、私は好きだな」

ジーンときたのか、ナオはポロポロと泣き始めた。

「わかってくれてたんですね!?」

喜びと悲しみ混じるナオの顔は崩れてしまっていた。涙で良い男が台無しになってるよ。けど、やっぱり私はナオのことが好きだったんだな。この気持ちに嘘はない。

「ほら、泣かないの」

あの時と同じように、ポケットにしまっていたハンカチで涙と鼻水を拭いてあげる。

良い子よね。ナオは真っ直ぐな心を持っているから好きだ。いつまでも無垢で健気な姿勢を保ち続けるなら、私が支えてあげないといけないよね。


~~その光景をこっそり見守る父と次男~~


公園外の道路では、樹木に隠れて父親とテツがその光景を見ていた。

「姉ちゃんたち、良い感じだね」

「そうだな。幸せそうで何よりだ。よし、俺たちも帰るとするか」

「そうするかな」

家まで歩いて帰っていく二人。街灯に照らされた道は暗く、夜が深々と更けていった。足音のみがカツカツと空へ響き、家々や隣街までこだまするようだった。

親父の背中には淋しさが滲み出ていた。そりゃそうだよな、娘が誰かのものになるとも捉えられるだろうから。俺にはまだわからない感情だけど、同じく俺の心のどこかにも、確かに淋しさはあったのだと思う。

そんなことを思っていると、不意に親父は俺の方を見てこう言った。

「そういえば、お前は彼女を作らないのか?あの泣き虫の直太くんに負けてるぞ」

「はは、………良い相手がいないからなあ」

それを聞いた親父は、あごで暗がりの10時の方向を指した。しかしそれが何を示しているのかわからない。

「??」

その先を見ると、そこには小さい身体を闇に隠した女の子の姿があった。彼女はどうやらユカリのようだ。

「徹也くん、こんばんは」

「おお、ユカリじゃないか。こんなに暗いのに外を歩くなよ。どうして外にいるんだ?」

「なんだか、徹也くんの顔を見たくなっちゃって」

「ん?そうなのか?

じゃあ俺の面白い顔を見れたんだから、さっさと家に帰ろうな。家まで送っていくよ」

「ちょっと待って。………話したいことがあってさ」

「ん?何?」

「私ってバカだからさ、今日もお母さんに頼まれて買い物してきた卵を全部ダメにしちゃったよ。自転車でこけて膝まで擦りむいちゃった。

どうしてこうなんだろう、私って。昔っから何をやっても失敗ばっかりしちゃうんだよね」

「また自転車で転んだのか………」

「でも徹也くん、私が安全に買い物ができるようにっていろんな工夫をしてくれたよね。

荷物を確実に運べるように自転車には立派な荷台を付けてくれたり、自転車のキラキラをつけてくれたりさ。あれのおかげで夜道は安心して車とすれ違えるよ。

それに、荷台が付いたおかげで荷物は落っことさなくなったし転ばなくもなったんだよ。だいぶお使いもできるようになったんだよ」

「はは、そりゃ良かった。喜んでくれて何よりだ。

けどユカリにはやっぱり自転車は危険だよ。あんまり乗らないほうが良い。また怪我したら、今度は本当に子ども用の補助輪を付けるからな」

やはり転んで大怪我をしてからでは遅いのだ。ユカリへの心配の念から、ちょっとふざけたこんな言葉が出たのだと思う。

ユカリは俺の顔を見て一瞥、こんなことを聞いてきた。

「………徹也くんってさ、どうしてそんなに私に優しくしてくれるの?」

どうして優しくしてくれる、か。

正直なところ、テツの行動にはやはり下心が働いていたのだ。どこかでユカリが彼女になってくれたら嬉しいな、とかユカリと一緒にいたいな、などという心理が働いていたのである。

実際その感情を理解してみると、気恥ずかしくてたまらなくなった。とてもではないが顔が見られなくなってしまった。

「………どうしてだろうな?自分でもわかんないよ」

どうしてだろう?喉に何かが詰まってしまったかのように、言葉が出なくなってしまった。

「徹也くんと一緒にいれて、本当に嬉しいことばかりだよ。徹也くんのしてくれたことが優しくて温かくて。

今年の夏には本棚を組んでくれたよね。私は全然家具なんて作れないって話をしたら、わざわざ家に来てくれて。ぶつけても痛くないようにって角にやすりをかけてくれてたんだね。角に頭をぶつけるまで気づかなかったよ、私。

それと、男の子にはつまらない刺繍にも付き合ってくれたよね。それでお揃いの熊のぬいぐるみも作ってさ。お互い出来たのを交換したのを覚えてる?今も大事に持ってるんだ~。

廃品回収だって一緒にしたよね。私を台車に乗せて坂から下ろしてくれたっけ。あのときのスリルはすごかったよ。結局台車から落ちてすごく痛かったけど、やっぱり楽しかった。

徹也くんと過ごせた一日一日が本当に楽しくって、一緒に過ごせて嬉しかった」

そうか、ユカリはそんなに俺との時間を喜んでくれていたのか。

こんなにも自分と過ごした時間を貴重に思ってくれていた人がいただろうか?いや、家族以外では明らかにいないはずだ。

胸が温かくなる。胸にこもる熱が空へ浮かぶ力を今にも与えそうで、フワフワした感覚が気を惑わせていた。

「………実は、俺もお前には感謝してることがあってさ。

お前が俺のためだけに弁当を作ってきてくれたことを覚えてる?小3の運動会のときに、お前が俺に弁当を作ってきたんだよ。

あのとき初めてユカリの手作り弁当を食べたっけ。あの弁当は色彩も料理の組み合わせもめちゃくちゃで、全体的に茶色かった。今思うと笑えるよな。

おかずはしょっぱすぎだし味の薄いところもあるし、ごはんはもうべちゃべちゃでさ。初めての料理なんてこんなもんかと思いながら食べてたよ。なんとか食いきったときには本当に達成感でいっぱいだった。

けど俺は知ってたんだ、お前の多くの努力を。あの時からそうだ、良い料理を作れるようにって一生懸命練習したり勉強したりしてたよな。それに家庭科の授業も頑張っててさ。

ごく最近になって気づいたけど、お前化粧も練習してたんだな。ちょっと驚いちゃったよ。あの自立できなそうなユカリがこんなにも頑張ってるなんて。

………お前の自分を磨く姿を見てて、本当に素敵だと思ったよ」

それを聞くとユカリは頬を赤らめて顔を隠してしまった。

「そりゃあ………、頑張れるよ。徹也くんのために頑張ったんだから」

「………」

そんな言葉を聞いて、気恥ずかしくて何も言えなくなってしまった。

………いや、ここまでユカリも気持ちを出してくれたんだ。今まで隠してきた気持ちをここで出さないと。このとき人生で初めて、告白の言葉が出た。

「………ようやく自分の気持ちに気がつけたみたいだ。

俺っ、、、お前のことがさ!」

『好きなんだ!』その言葉を言い切る前に、ユカリがテツに言った。

「私も!」

こんな短い言葉でこれほど幸せな気持ちになれるとは、全く思いもしなかった。ユカリは俺を愛していてくれたのか。今まで紡いできた時間がいくつもいくつも甦る。

もう、俺とユカリの間に言葉はいらなかった。目で見つめるだけでお互いの気持ちが伝わってくるのだ。愛する人がこれほどそばにいたことを思うと、こんな素敵な運命に感謝をせずにはいられなかった。

徹也は優しくユカリを抱き寄せた。高鳴る心臓の鼓動が、共に相手の全身へと届く。

「………」

「………」

ユカリの良い香り、首を通り抜ける息。長い黒髪、細い身体。その全てがいとおしくてすぐに壊れそうで、強く抱き締めることを躊躇わせた。

チカチカと切れかけた蛍光の明かりが俺とユカリを照らしていた。雪は、まだまだ降り続いている。


最終章 家族が増える幸せ


天界では天使や妖精と運命の神様が愛と直太、徹也と由香里の二組の経過を見守っていた。

「う~ん!お二組とも、良い雰囲気ですよ!」

「少し勇気を与えただけで、こんなに人とは幸せになれるものなのですか。幸せとは実は身近にあったのですね」

天使と妖精たちの会話を聞いて、運命の神様は苦い顔をして言った。

「そのようだね。けどいいかい、君たち。今度遊ぶときは周りに注意するんだよ。

………縁とは不思議ながらも味なものです。この事件がなかったらあの二組は結ばれなかったかもしれませんからね。結果良ければ全て良し、かな?」

空にも幸せな空気が流れ込んでくる。人々の喜びの声が聞こえてくる。

天使たちも神様も、いつも以上に穏やかな表情をしていた。いつも以上に優しい気持ちが皆の心に溢れていた。


~~その頃、地上では~~


家路に一人たどり着いた、白髪混じりの中年男性。家ではおっとりした中年女性がその男性の帰りを待っていた。

「あら貴方、お帰りなさい」

「ただいま、殊美」

久しぶりに、殊美と熱いキスを交わした。今は子どもたちもいないからな。何故か彼女が新婚のときの初々しさを持っているように見えた。

「あら、子どもたちは?」

それを聞くと、私はフッと鼻を鳴らし嬉しさを隠しつつこう言った。

「冬だというのにあいつらお熱いようだぞ。居間をうんと暖かくしといてやれ」

「ふふっ、わかりました」


~~子供たちの帰宅~~


雪野家に帰って来たのは愛とテツだけではなかった。将来家族になるかもしれない、ナオとユカリも一緒にであった。手を繋いで仲睦まじそうに。とてもとても、幸せそうに。

愛とテツが言う。

「ただいま~」

ナオとユカリも続けて言った。

「お邪魔します」

お母さんは4人を迎え入れた。

「あら、寒かったでしょう。お上がりなさい」

ナオとユカリが返事をする。

「はいっ」

愛はお母さんと共に台所へ向かうと、こう話した。

「突然で申し訳ないんだけど、ナオとユカリが一緒に晩飯を食べていきたいってさ。材料はあるかな?」

お母さんはまごまごしながら材料を見る。

「材料は………、6人ともなると白菜と豆腐がちょっと少ないかしら?あと男の子も一人増えるわけだから、豚肉も多めに欲しいわねぇ」

「やっぱり足りない?んじゃ、買いに行こっか!ナオ!」

「は、はい!」

それを聞くとテツも買い物に行きたがる。

「待ってよ!買い物なんて俺とユカリで十分だって!姉ちゃんは料理のほうをやっといてくれよ!」

ユカリもテツに合わせてこう言う。

「私も買い物行きた~い!」

私はそう言う二人に対し渋ってみせた。

「ええ~!?あんた買い出しなんてできるの?テツ、あんたが料理しなさいよ」

「姉ちゃん寒いの苦手だろ~?無理して外に出ないでさ、買い出しは俺たちに任せてよ」

「大丈夫よ、もう寒さには慣れたんだから。変な気遣いはよしといて」

「ズルいよ姉ちゃん、―――」

私たちがもめていると、お父さんがヌッと現れ一言かけた。

「男は買い物、女の子は料理ってことでどうだ?」

その言葉に、一同は納得した。

「………っ」

「鋭い………」

「そうですね」

「な~るほど」

確かにお父さんの言うことは合理的である。ユカリも料理は上手いみたいだし、料理をするのは楽しみなようだ。女性のみなら台所もある程度広く使える。しかしながら、二人っきりで行動できないのは少々残念である。

結局男二人は渋々買い物に出かけた。殊美はいつも以上に嬉しそうな表情で、実の娘と息子の恋人が料理する姿を嬉しそうに見守っていた。


実に、矢のように時間が過ぎ去った。野菜を盛るトレイはどこにある、ガスボンベはまだ予備があるのか、白菜やネギはどのように切れば良いか、などである。

よその子が混じると作業がスムーズにはいかなくなるものだ。いろいろと我が家の料理のテクニックを教えてやった。

料理の準備が終わったところで、ついにテツとナオが帰ってきた。父親からもらった分のお金で少々余分に材料を買ったようだ。テツが実費で出したという全員分のアイスもある。こういうときの出費は惜しまない。

白菜の芯を先に煮て、他の材料もどんどん鍋に投入された。いよいよ鍋が出来上がると、家族が二人増えてテーブルが狭い中、楽しく鍋を囲んだ。一家の主が最初に鍋を取る。

「いただきます」

お母さんはよそる側に回るようで、客人の二人に食べるよう促した。

「どうぞ遠慮なく食べてくださいね、直太くんも由香里さんも」

ナオは食べる気満々のようだ。

「はい、いただきます!」

ユカリはまだまだ緊張気味である。

「あ、有難うございます。お先にいただきますね」

そんなユカリを見てか、テツが緊張する二人に一言かける。

「そんなに遠慮すんなってんだよ。いただきま~す」

愛はいつものマイペースで、テツに便乗しいただきますをした。

「じゃ、私もいただきま~す」

みんなで鍋を囲むというのは本当に楽しいものだ。皆が多くのことを語り合い楽しい時間を共有した。和やかな空気が終始途切れることはない。

「姉ちゃん肉ばっか食うなよ~!」

「はあ?草食系が何言ってんのよ。お前は白菜だけ食ってろ」

「ふふっ………」

ナオが苦笑していると、愛は更に意地悪を言う。

「あんたも草食系みたいなもんでしょ!ナオは豆腐だけ食っとけ!」

お父さんが呆れ混じりに止めに入る。

「おいおい、愛………」

お母さんはいつもの調子でみんなに話す。

「みんな仲良さそうで何よりね。いっぱいあるからどんどん食べて」

「豆腐なら、遠慮なくいただきます!」

「ちょっと、私も豆腐食べたいよ………」

「自分で言ったくせにさ!ははは!」

こうして笑い声の尽きない夜は過ぎていく。夜も更け深々と雪が降り積もっていく。


人は大切な人との楽しい時間をいつまでも紡いでゆく。流れゆく時の中で、止まらない渦の中で。

人はいつも迷うもの。だから貴方が幸せになれる機会を逸してしまっても不思議はないのだ。けど、忘れないでいてほしい。幸せは人々の中に在るのだ。

恋に臆病な人も大丈夫。運命の出逢いのときには、必ず幸せに背中を押してもらえるのだから。


おしまい


作者の私も様々な悲しみを内包していますが、それが表だって知られることはあまりありません。人生では人それぞれに苦しみがあって、それでもいつか向き合って、苦難を乗り超えていくことと思います。

自分の能力や実力を理解してくれる人がそばにいるだけで幸せなことなので、理解ある伴侶に恵まれればこれほどの幸せはそうそうないことでしょう。理解ある伴侶や友人に恵まれた方には、このような幸せが良くわかることと思います。

平凡な日常の幸せを感じていただけたなら幸いです。

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