カナシミの色は透明な
教室が涙で一杯一杯になっていたのはいつ頃だっただろう。確かあれは、小学一年生のころ。教室で飼っていたハムスターのピッチ(ハムスターなのにどうしてこんな小鳥みたいな名前が採用されたのかは多分私の人生での一生の謎になるに違いない)が死んだ日の朝だっただろうか。
引き戸を開けたら大洪水。
そんな例えが、きっと一番正しくて、分かりやすいだろう。
おはよう、なんて言う間もなくその水に呑まれて、私は呼吸をする術を失った。……かに見えた。口の端から空気の泡がこぼれて、立ち上っていく。視界に広がる透明な青に、ここは水中なんだと実感していた。それなのに身体は軽くならないし、呼吸だって苦しくならない。ピッチが死んだ事よりもその感覚に気をとられて、クラスでは私だけが泣いていなかった。
最初の内こそその感覚に戸惑いはしたけど、その特殊な水の中ではさっきも言ったとおり呼吸も出来るし、普通に生活する分にはなんの支障も無くて、だから私はその水の中で泳ぐ事もせずに、へんてこりんな鉛筆の持ち方をしながらぐだぐだな線で平仮名の練習をしたり、回転の悪い頭に鞭を打って百マス計算をしたりしていた。
それより何より、周りの子達が普通に授業をしているのだから、この水浸しの状態が普通なのだと思っていた。
水に溢れた教室は、数日後にはなんと干上がっていて、視界は透明な青のフィルターがなくなっていて、いわゆる「いつも通り」の風景が広がっていた。当時の私は勿論、水は何処にいったんだろう、なんて疑問を持ったんだろうけど、小学校一年生の頭の中は酷く単純に出来ていて、友達に話しかけられただけでそんなことは海の孤島の更に先まで、簡単に漂流してしまうのだ。
我ながら、水に関しての関心が薄すぎると思う。
だけど、それくらい私にとってその水たちは「どうでもよく」て、「他愛の無い」ものだった。
透明な青い液体はたまに水溜りとなってとある子の足元にずっとあったり、喧嘩をして泣いている子の周囲にその子を包むようにして溜まっていたり、教室の中だけなのかと思っていたら、なんと運動会で負けた時には私のクラス(紅白で分かれていたから、赤組、と言ったほうが正しいか)だけがその青のベールで包まれていたりした。
――ああなるほどなるほど。つまりその「透明な青」っていうちょっと矛盾した色の正体は、
――ちょっと待ってよ。話してるのは私なんだから。
その透明な青の意味合いを高学年近くになってやっと正確に理解し始めた私は、それらに「悲しみの尺度」と名づけた。
――カナシミの色は透明な――
「胡散臭いね」
カナコがけたけたと愉快に笑いながら言う。
「失礼な」
私は頬を膨らませてコーヒー味のするシェイクをずぞぞっと飲み下す。口の中から身体の内部から、一気に冷えていった。がっつりと冷えこんでいるこの時期に、シェイクの選択は確実に誤りだったと気付かされる。鳥肌が一瞬のうちに全身に広がった。
カナコはポテトをつまみながら、長い睫毛を上下に躍らせて、
「それで、その透明な青がなんだって?」
「今日合格発表だったカナコのクラスの……なんだっけ、中森くん? が周りにたっぷりの水滴らせててさー。落っこちちゃったんじゃないかって思って。……どう? 当たってる?」
私がずいと詰め寄ると、ふわふわした雰囲気を持っているカナコはくるくるした目をぱちくりさせて、驚いたように、
「よく知ってるね」
と呟いた。
私は得意げににんまりと笑って、
「だから言ったでしょ? 悲しみの尺度、って」
告げる。
*****
どうにも月日が流れるのは長いもので、私は受験結果に一喜一憂しながら、どうにか志望大学に合格した。カナコもカナコで、ずっと前から私に、まるでサンタさんにお願い事をする小さな子供のような目をして語っていた行きたい大学に合格出来、二人して一体喉のどこから出てくるのか分からない甲高い声を出しながら、手をぎゅっと繋いで、飛んだり跳ねたりしながら喜んだ。冷たい風が、私達の周りだけ弱まった気がしながら、上機嫌で鼻歌を歌う。
大学が決まった。学校に行く日数が、一気に減った。高校を卒業したら、カナコとは……いや、カナコだけじゃない。たくさんの友人や恩師と、離れ離れになってしまう。
そう思うと心の底がきゅっと結わえられるようにして苦しくなった。大切な思い出たちがぽろぽろと袋の中から零れ出ては、アルバムを見返すときのように、ワンシーンずつ切り取られては蘇る。まるで走馬灯のよう、というとまるで私が死んでしまうみたいだから言わないし、実際見たことが無いから言えないけど、走馬灯ってこんなものなんだろうな、と思ってしまうほど、瞼の裏でカラカラとフィルムが流れていっていた。
そのフィルムが少しずつ少しずつ、水没していく。映画館がキラキラした透明な青、海の中から空を見たような、そんな色に侵食――侵色されていく。
(今、悲しんでるんだな)
卒業という単語に嬉しさもあれば、悲しさだってある。透明な青に満ち満ちていく私の周囲は、私を優しく包み込んだ。空気の気泡が龍のように光に向かって昇っていく。それに向かって手を伸ばしてみても、届かない。
水が頬を撫でた。
涙が上にぽつりぽつりと浮かんでは、はじけて消える。
*****
桜は元より、雪も散らない季節に私たちは卒業式を迎えた。もちろん体育館は澄んだ青に満たされていて、予想はしていたけれどやっぱり私は途中まで息を止めていた。
いつから私の視界が他人と違うと把握していたのかは覚えていないけれど、この意味の分からない感覚に似た視界は、必要のない能力なんじゃないかと思う。
たまに要らないものだって見えるし。知りたくもない悲しみを知ってしまうことだってあるし。
それに、カナコには言えてなかったけど何もないところに水溜りがあったりもするのだ。そしてその水溜りはうようよと這うように動き回る。空をくるりと回ったり軽快な動きをする水滴もあるけれど、大半は……そう、ホラー映画の幽霊を髣髴させるような動きをしていて、そんなお水たちは決まって心霊スポットやらどこかのお家やら、人間やらの傍をうろついている。
――とまあ、これは完全に蛇足なわけなんだけど。
見えたところで私に彼らの姿は見えないし、どうする事だって出来ない。それは人間相手でも同じだった。悲しんでいる事は分かるけど、どう対処したらいいか分からない。自分の無力さを感じて歯がゆくなることだってあるけ。それでも今までこの能力と付き合ってこれたのは、本当に大切な友達の悲しみの信号だけは確実に察知できるから。
だから、要らないものを見たり知ったりしてしまっても、いいんだって思える。
「泣かないでよ、もうっ」
私は泣き笑いの表情で言う。カナコは鼻の頭まで真っ赤にしながら、眉を下げて嗚咽を繰り返していた。私達の周りを水の壁が覆う。
「悲しいのは分かるけどさあ」
鼻を啜って、カナコの肩をぽんっと叩いた。
カナコはふふっと笑って、「ほんとに見えるんだね」なんて、今更な事を言う。目尻から零れた涙をカナコは指でなぞるようにして拭うと、鼻声で、
「悲しみの尺度、だっけ」
私がこくりと首を折るようにして頷くと、じゃあ、と私の背後を指差す。
「この学校、大洪水でしょ?」
なんて悪戯っぽく聞いてきた。おそるおそる振り返って校舎全体を見渡すと、校舎ごとすっぽりと水で覆われていて。からっと透き通った冬の高い空に、その光景はあまりにも強烈で。絶景で。海の中に雲があるような。空の中に湖があるような。
めだかの学校、とはまさにこんな感じなんじゃないか、と思えてしまう。水の中にある学校。音的には随分と神秘的だけど……うん、実際に見ても、神秘的だ。自分が行きなれた学校なのにも関わらず僧感じてしまうのは、この独特な青の効果なんだろうか。
「私ね。思うんだけど」
へにゃりと笑って、私に語りかける。
「その透明なカナシミってきっと、『愛しみ』なんじゃないのかな」
いとおしみ。深い愛情。愛着。
――ああ、なるほど。
ぱちりとピースが上手い具合にはまったような気がして、私は思わずきょとんとした表情になる。そしてどこからかどっと沸いてきた暖かい涙を抑えることなく流して、「そうかも」と呟いた。
とめどなく流れるそれを止めようともしないで、空中の海に飛び込む。視界が揺れた。空気の泡が踊りながら私を取り巻いていく。
きゅうっと締め付けられた心に、瞼の裏の映画館が、第二幕を告げた。
Fin.....
おひさしぶりです。
そろそろ受験シーズン本番ですね。そういえば私も苦労した事が何回か。思いながら書いて見ましたが、これが果たして受験生応援に繋がるかどうか。
思い出の一つ一つを丁寧に扱う必要なんてどこにもないかもしれませんが、辛い思い出も苦しい思い出も、片隅においておけばいつかは発酵して(果たして腐らせるのがいい方法なのかは知りませんが)愛しい思い出になると思いますので、どっかに置いておくのもいいかもしれません。
それではまた、次の作品で。
流羽奈