後篇
「……謝れるじゃん」
口を尖らせながら、ハンカチで顔を拭う。恐怖で錯乱してしまった。人前で失態を晒したことにアサギは恥じた。いくらなんでも取り乱し過ぎた。結構な大声を出してしまった。屋上にいるだろう天文部の面々に聞こえなかっただろうか? いや、それよりも用務員に聞きつけられなかっただろうか。第三者に今の状況が見つかったら、また色々と面倒なことになりそうだ。今度は大量の課題程度では済まないだろう。
アサギが頭を抱えていると、レイブンが戻って来た。彼の両手には沢山の本が積まれていた。
「気晴らしに読むか?」
どうやら彼なりに気を使ってくれているらしい。どことなくその顔色も控えめなものだ。先ほどまでの堂々とした立ち振る舞いはなく、動作がしおらしい。
彼が選んできた本の全てが推理小説なことに気付き、アサギは苦笑した。本当に筋金入りだと、しみじみ思う。
「ありがと」
とりあえず一番上の本を手に取る。ずいぶんと古い本だ。表紙を開くと貸出者の名前を記入する紙が貼られている。が、まだ誰の名前も書かれていなかった。その割には、ずいぶんと痛んだ本だ。
ふとアサギは思い出した。
この図書室に置かれている本の大部分は、とある収集家が所有していたものだ。病弱であった彼が亡くなった後、その遺族が残された本を学園に寄贈した。その時、亡くなった収集家の霊まで学園にやって来てしまった。
己の本が自分以外の人間に触れられることを嘆き、彼は夜な夜な図書室内で涙を流す。これが七不思議の一つ、『図書室のすすり泣く幽霊』だ。
もしかしたら、アサギが手に取ったこの本が収集家の物だったかも知れない。そう考えると、少し気が引けた。
「それが俺の一番お薦め」
椅子に腰掛けながら、レイブンが嬉しそうに言った。それを聞き、アサギは顔を上げた。自分を見る彼の藍色した瞳は穏やかな色を放っていた。その視線を浴び、何となくアサギの恐怖心が和らいだ気がした。
「そうなんだ」
ページをめくりながら、アサギは思案する。書評用の本をこちらに変更してみるのもいいかも知れない。図書室の本だということを添えれば、読みだい人が気軽に手に取れそうだ。そう説明すれば、部長も本の変更を許してくれるかもしれない。
「それさ、俺が推理小説を読み出したきっかけになった本なんだ」
「へぇ」
「文体が軽くて読みやすいし、登場人物も個性があって好感がもてる」
確かに冒頭部分に目を通した限り、レイブンの言った通りだ。文章は短く軽快に進むため、すらすらと頭に入る。登場人物は特に複雑な二面性も無く、どんな人物か少ない文章で判断出来る。破天荒な探偵に振り回される語り部である苦労性な相棒に感情移入し易い。屋敷の間取り図や小道具が挿絵に描かれているため、状況を理解し易い。推理小説入門書と煽っても良いかも知れない。
これは本当に掘り出し物かもしれない。まだ誰も借りてないというのが心底勿体ない。
「真相も捻っててさ。まさか被害者の母親が犯人だなんて最後まで気付かなかったぞ」
「…………え」
アサギの手が止まる。
「しかも実の母親じゃなくて、その双子の妹だったなんて思い付きもしなかったし」
熱の入ったレイブンの講釈は続けられている。そこに悪意なんてものは存在しない。ただ純粋に小説の内容を褒め称えている。ときおり、自分なりの推理も展開させて。
『レイブンの前で推理小説を決して読んではいけない』
昼間聞かされたばかりの鉄則が、アサギの頭から抜け落ちていた。自分の迂闊さに本気で後悔する。
その間にもレイブンの語りは止まらない。
「最後の事件の密室に使われた手口は一見不可能っぽいんだが、実際やってみると俺にも作れた。だけどその本に書かれた物よりも細いロープの方が楽だな。鍵の端を縛って窓枠に通すから……」
「待て待て待て待て」
「何だ?」
首を傾げるレイブンに、アサギは詰め寄る。
「何だ? じゃない。どうして展開をバラすの。一気に冷めたじゃない」
「俺はただ、その本の魅力を話してただけだけど」
あくまでレイブンは親切心からそうしていたらしい。逆に自分を睨んでくるアサギに困惑しているようだ。
「だからって、話のキモを全部口にしないでよ。お節介を通り越して迷惑だってば」
『そんなことないです!』
聞こえた声は、明らかにレイブンのものではなかった。それどころか、声の出所はアサギの背後から届いた。肌寒さを感じて、彼女の怒りは瞬時に消え去る。
自分と対面するレイブンの顔も固まっていた。その白い肌が若干青ざめている。それを見て、自身の後ろにいるものの正体をアサギは悟ってしまう。
振り向いてはいけない。そう本能が囁く。分かっているはずなのに、首はゆっくりと振り返っていた。
そこにいたのは、青白く透き通った中年男性だった。涙を零す目は落ちくぼみ、体は骸骨のようにやせ細っている。ぎこちなくアサギは視線を下へと落とせば、予想通り足が無かった。
悲鳴も出なかった。凍りついたように体が動かない。レイブンがアサギの前にやって来た。守るように彼女に背を向けて幽霊と対峙する。その肩が少し震えていた。
「レ、レイブン」
「大丈夫だ。助手は大人しく守られてろ」
助手は取り消したいが、今はその背中が心強い。
レイブンの肩越しに幽霊を見れば、何やら両手を組んでいる。表情も恨みがましいというより、感激しているといった様子だ。違和感を感じていると幽霊が口を開く。
『迷惑なんてありませんよ! 嗚呼、もっと! もっとお聞かせ願えませんか?』
懇願する幽霊に、レイブンが尋ねた。
「アサギが持ってる本の内容か?」
『えぇ、そうです。私、その本を最後まで読めなかったのが心残りで。私の本が全部こちらに移されて以来、ずっとここで結末が分かる日を待っていたんです』
自分が読めなくても、せめて利用者の背後に張り付いて読了したかったと彼は言う。ただ、運の悪いことにこの本を借りる生徒は皆無だった。よって、夜な夜なまだ見ぬ物語の結末に未練して泣いていたらしい。
これが、七不思議の一つ『図書室のすすり泣き』の真相のようだ。
執念深いんだか女々しいんだか……。脱力のあまりに恐怖から立ち直るアサギに対して、レイブンの身体は先ほどよりも強く震えていた。心配になってアサギが声をかけようとした時、レイブンが飛びつかんばかりに幽霊に近づいた。
「アンタ、そこまで推理小説を愛していたんだな!」
彼の声は感極まっていた。幽霊もまた、涙目で何度も何度も深く頷いている。
『分かっていただけるんですか? 私のこの気持ちを』
「あぁ! 勿論だとも。任せたまえ、その本の概要は全部頭に入っている」
何だか話が変な方向に進んでいる。状況についていけないアサギを無視して、推理小説愛好家たちは熱く語り始めていた。本の内容を述べ終えてもレイブンの熱は止まらない。作者の他の著作物や自身の憧れる探偵、驚愕した犯行の手口など推理小説談義に興じている。幽霊もまた、その一つ一つに感激し、さらには自分もお勧めの推理小説などを語っている。
この状態をどうしたものかとアサギが悩んでいると、レイブンがこちらを見た。
「アサギ! 本棚から推理小説全部持って来い。今日はとことん語り明かすぞ」
「え、いや、それはちょっと何で私が……」
『いいですな! 私、こういう風に同士と話す機会がなかったので喋りまくりますよ。お付き合いよろしくお願いします!』
これはもうタチの悪い酔っ払いと変わらない。別の意味で泣きそうになりながら、アサギは本棚へと向かった。本を手に取りながらも耳に届く談笑に、彼女は己の不運を嘆くのだった。
結局、彼女が解放されたのは朝日が顔を出した頃だった。
一晩存分に語り明かした幽霊は、満足げに微笑みながら紫掛かった空の向こうへと昇天して行った。その景色は寝不足の目には一種の神々しさすらも感じられた。
「図書室の幽霊はもう現れることはないな」
目の下に隈を浮かべてレイブンが言う。
「怪異も謎解き、迷える魂をも救う。何という素晴らしい名探偵なんだ、俺は」
完全に自分に酔っている。アサギはツッコミを入れたかったが、それよりも眠たくて仕方がない。山のように積まれた本の中で、ぼんやりとレイブンの後ろ姿を眺めるので精一杯だ。
「俺の仕事は終わった」
レイブンがこちらを振り返る。朝日に照らされ、彼の髪が宝石のように輝く。
「さぁ、アサギ! 今回の俺の活躍を存分に記事にするがいい」
もう勝手に言ってろよ。
そう口に出す前にアサギの意識は睡魔に取り込まれた。
※ ※
多分、いやきっと来るだろうなとは予想していた。なので、彼が最新号を片手に教室にやって来た時、余裕を持って対応出来た。さすがに教室で騒ぐのは忍びなかったので、アサギは彼を中庭へと連れ出した。
「どういうことだ!」
怒鳴るレイブンに、アサギは正直に事情を話す。
「あの記事は不採用になったの」
一夜の出来事を、アサギは一応原稿にしたためた。嘘偽りなく正直に。そして、それを書評と共に新聞部に提出した。が、結果は書評のみが新聞に掲載された。
部長曰わく、滑稽無糖過ぎる。顧問曰わく、深夜に忍び込んだというのは教師としてはちょっとマズいな。などというのが不採用の理由だ。こうなるだろうと大体想像してたので、アサギも納得している。もし、当事者でなければ自分も部長と同じことを口にしたと思う。
事情を知ってもなおレイブンの怒りは鎮まらなかった。むしろ、より強くなっている様子だ。
「この俺の活躍を一面に飾らないなんて……全く新聞部の奴らはどうかしてる!」
「その発想がどうかしてるっての」
とりあえず彼の望んだ通りに原稿を書くという義理は果たした。不採用を決めたのはアサギでは無い。なので、レイブンがいくら彼女にゴネても無意味なのだ。
後は適当に彼をあしらってごまかしてしまえばいいだろう。それで全てが解決する。
「仕方ないよ。大体、私まだ新米だし。決定権は先輩たちが持ってるんだもん」
「だが、俺は納得出来ん! 一体何故だ? 何故、この俺の功績を認めないのだ」
本当に清々しいくらいに自信家な男だ。改めてアサギはそれを実感する。ともあれ、ここは何とかして彼の機嫌を直さなければ。今後の平穏な生活のために。
「でも、書評は好評だったよ。レイブンに薦められた小説で書いたんだ」
これは嘘ではない。原稿を読んだ部長も本の変更を快く受け入れてくれ、その日のうちにその小説を図書室に借りに行ったぐらいだ。そして、部長から他の部員へと小説の評価は伝わり、順番に貸し出された。部内から部外の生徒へと評価は伝聞で伝わり、アサギの書評が掲載された頃は貸し出し待ちが数十人も出来ているほどだ。中には順番が来るのを待ち切れずに本屋で購入する生徒まで現れた。
この影響か、図書室は前よりも生徒で溢れるようになった。毎日様々な本が貸し出されてゆく。その中には勿論、あの幽霊の蔵書だったものもある。
「レイブンのおかげだよ。きっとあの幽霊も喜んでるんじゃないかな」
「そうだろう! フフ、さすが俺だ」
あっさりとレイブンの機嫌は直った。彼の性格は何となく把握出来た気がする。早い話が、単純。
「怪異も解決させ、図書室の人気まで回復させてしまうとは、俺の名探偵ぶりは我ながら惚れ惚れとする。だろう、アサギ?」
「はいはい、そうですねー」
とりあえずこれでもう大丈夫だろう。こっそりとアサギは安堵の息を吐いたが、続いたレイブンの言葉に奈落の底へと突き落とされる。
「これはもう残り六つの七不思議も謎解かなくてはならないな!」
「…………え」
聞き間違いだと思いたかった。が、考えるより先に逃げようとアサギの足は反応した。後ずさろうと一歩下がったが、もう遅かった。レイブンの両手がすでに彼女の肩をがっちりと掴んでいたのだ。
「アサギ。お前は俺の活躍を書き続けるんだ。俺の才能に嫉妬する新聞部の妨害なんぞを気にすることは無い」
最悪な展開になってしまった。逃げようにもアサギの身体は動かせず、拒否しようにも口を開く前にレイブンの声でかき消されてしまう。
「さぁ、早速今夜から調査の再開だ! 今回は『音楽室の無人ピアノ』を解明するぞ」
これはもう逃げられそうにない。がっくりと肩を落とすアサギに、レイブンは極上の笑みで言い放った。
「頼りにしてるぞ、俺の助手アサギ」
レイブンの高笑いを耳にしながら、アサギは遠い眼差しで空を見上げる。空は清々しいほどに雲一つない青空だ。それが却って彼女の精神を逆撫でする。せめて、天候が悪ければもう少し慰めになった気もする。
平凡な日常は当分帰ってきそうにないと、心の中で涙を呑んだのだった。
了
探偵小説が好きなので、自分も書いてみよう!と意気込んだ結果がコレでした。
トリックが思い浮かばずにギャグものになってしまいました。
推理小説家ってすごいよなぁといつも思います。
キャラクターは気に入っているので、長編にして投稿しようかなと計画を立ててます。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。