前編
「それ、こないだ出た新刊だろ?」
突然声をかけられてアサギは本から目を離した。声は廊下側から聞こえた。視線をそちらへと移したアサギは、そのまま硬直した。
廊下と教室を隔てる壁にはめ込まれた小窓。開かれた窓の先にいたのは、物凄い美形だった。
切れ長な深い藍色をした双眸、白磁の肌。スッと伸びた高い鼻に形の良い薄い唇。まるで精巧に造られた人形のように整った造形。彼の色素の薄い髪は、昼下がりの陽光に照らされて白銀色に光る。
彼の身を包むのは高等部の男子制服。見慣れているはずの緋色のジャケットが、貴族の召し物のような錯覚さえ覚えた。
窓枠に片肘を付き、アサギを見つめる彼の姿は一瞬飾られた肖像画のように見えた。
惚けたアサギをよそに、青年は言葉を続けた。
「そのシリーズ。いいよな。俺、全巻集めてるんだ」
人懐っこい笑みを浮かべる彼に、アサギの緊張はほどけた。つられて自身の頬が緩まる。
「そうなんだ。私は初めて読んだんだけど面白いよね」
手元の分厚い小説を眺めてアサギは頷いた。所属している新聞部の部長に今月の書評用に使えと渡された推理小説だったのだが、これがなかなか趣味に合った。
冒頭を目に通したときは難解な言い回しに辟易したが、読み進めていくうちに癖になった。そうなると辞書ほどの本の分厚さが逆に薄く感じてしまうほどにアサギは夢中になった。展開が進むにつれて魅力の増す登場人物に、臨場感溢れる情景描写。息を呑む急展開に、ページをめくる手が止まらなくなった。決して学校内では読むなと念入りに言われたが、先が気になって持ってきてしまった。
物語は犯人だと思われた男が負傷するという第三の事件が起こり、いよいよ因縁めいた雰囲気が流れ始めたところだ。
「毎回意表をつかれるんだよな。今回なんかまさか虫も殺せないような侍女が犯人なんて予想もつかなかったし」
「…………え」
今、何と?
固まるアサギをよそに青年は嬉しそうに言葉を続ける。
「実は屋敷の領主の腹違いの妹だなんてなー。でも読み返したら、ちゃんと伏線張ってあったし。屋敷の構造が左右対称ってのにも意味があったのが凄いよな。あ、そこのページ。その侍女頭のセリフがきっかけになって――」
「待って待って待って待って」
慌ててアサギは青年の声を遮るが、もう遅かった。物語の大筋を聞かされてしまった。青年を見てみると、不思議そうな表情でアサギを見ていた。
「え? ちょっと、何で……」
上擦るアサギの声に合わせて、タイミング良くチャイムが流れた。
「やべ、早く音楽室行かねぇと」
「ちょ、ちょっと」
「んじゃ、またな。アサギ!」
そうして青年は颯爽と去って行った。残されたアサギの手は所在なさげに空を切る。同時にますます混乱した。何故、彼が自分の名前を知っているのか? 入学式からの記憶を思い返しても青年に見覚えはない。
最大級の爆弾と謎を落とされ、その後の彼女は授業に集中出来なくなってしまった。そのせいで教師に叱られ、罰として大量の宿題が出されてしまった。
授業が終わった後、机にうつ伏せになるアサギの元に級友たちが集まってきた。
「災難だったね」
「でも廊下側の机なのに、推理小説を読んでたのは迂闊だったかも」
女子生徒のその言葉に、皆一様に深く頷いた。
「どういうこと?」
訝しむアサギに、級友たちは事情を説明してくれた。
先ほどの爆弾発言青年の名はレイブンという。アサギと同学年で、隣のクラスに在籍している。彼は、ある意味でこの学園の有名人らしい。それは外見のこともあるが、彼の困った性癖についてでだ。
レイブンは推理小説の大の愛好家である。今まで出版された推理小説はほぼ全てを読み込んでいるらしく、もはや推理小説中毒者と言いきっても過言では無いほどの域らしい。新刊が出たとなったら、学園を早退けしてまで本屋に駆け込むほどだ。さすがに授業中までは読み込まないらしいが、その代わりに読破するまで出席して来ない。何度か教師らも対処しようとしたが、全くの徒労に終わってしまったそうだ。
「それだけなら平和なんだけどさ」
男子生徒がうんざりした顔で話を続ける。
レイブンは推理小説を読んでいる人を見かけると、たとえ初対面だったとしても嬉々として話しかけてくる。そして、物語の重大な箇所を平気で口にするのだ。はた迷惑なその行為は、嫌がらせするためと言う悪気があってでのものでは無いらしい。
一度、先輩がレイブンの言動に対して激怒したことがあった。そのような陰険な真似は止めろと。が、怒鳴られた当の本人はキョトンとした表情で逆にこう尋ねてきたと言う。
「どうして怒るんだ?」
それがあまりにも真剣な問いかけだったそうなので、怒っていた先輩は一気に脱力してしまったそうだ。
レイブンは、ただ同好の士として話しかけているだけらしい。それがどんな迷惑なものなのかも自覚せずに。
また、自ら『名探偵』と名乗っては他人のいざこざに顔を突っ込みたがる。その結果余計に事態が悪化してしまったこともあったらしい。
ある教師がレイブンのやっていることは迷惑行為だと伝えても、何故迷惑と感じられたのか根本から理解出来てないという様子だったそうだ。
「そんなことがあってこの学院内では、推理小説を読むのを止めようって暗黙の決まりになった。今では初等部から高等部までこれが広まってるんだ」
話を聞かされてアサギはようやく部長の忠告の真意を知った。
高等部からの途中入学だったアサギは全くの初耳であった。詳しく聞けば、一昨年からこの『決まり』は始まっていたらしい。今ではすっかり当たり前になっていた為に、決まりのことを彼女に教えてくれる者はいなかったのだ。
そのことを心優しい級友たちは謝罪してくれた。アサギが本を取り出したときに自分たちが気付いていたら良かったと。
アサギは彼らを責めようとは思わなかった。元々は部長の言いつけを破った自分にも非があるのだから。それでもやっぱり釈然としない。
手元の小説を所在なさげに眺めていると、突然扉が大きな音を立てて開かれた。肩をビクつかせ、教室内の人間は一斉に扉の先へと視線を移す。そこにいたのは、渦中の人物であった。
「おーい、アサギ!」
自身に集まる痛いほど目線を物ともせず、レイブンは堂々と教室へと侵入する。そして、真っ直ぐにアサギの席までやって来た。一体何事かと、彼女は身を強張らせる。
「ちょっと話がある。ついて来い」
言うなり、レイブンはアサギの手を掴んだ。そのまま彼女を無理やり立たせて連れ去ろうとする。
「は、放してってば」
アサギは抵抗するが、見かけによらずレイブンの力は強い。引っ張られる右腕が抜けてしまいそうだ。
「やめろよ、レイブン。アサギは嫌がってるじゃないか」
級友らも助けてくれようとしてるが、無駄だった。
「大丈夫だ。すぐに終わる話だ」
「じゃあ、ここですればいいじゃない」
痛みに眉をしかめながらアサギがそう言うと、レイブンは突然立ち止った。勢い余ってアサギは彼の背中に顔をぶつけた。
「ああ、そうだな。それでもいいか」
そして彼は振り返り、アサギと向き合う。彼にまじまじと見つめられ、アサギは頬が熱くなるのを感じた。悔しいが、本当に彼は見かけだけは完璧なのだ。
レイブンは大げさに両腕を広げ、堂々と宣言した。
「喜べ! お前を俺の助手にしてやる」
あまりに突飛な彼の発言に、アサギはその意味がすぐには理解出来なかった。脳内で三度ほど反芻して、ようやく言葉の内容を把握出来た。
「何で」
拒否よりも賛同よりも先に疑問が彼女の口から飛び出る。
「助手って何」
「決まってるだろう、名探偵のだ」
駄目だ。会話になっていない。
頭を抱えるアサギをよそにレイブンは一人で勝手に話を進めてゆく。
「さっそく助手として仕事力してもらうぞ」
「お断りします」
「時間は今夜十二時だ。学園の七不思議の調査に向かう。迎えに行くから準備して待ってろ」
「人の話聞いて。頼むから」
「じゃ、またあとでなー」
言いたいだけ言うとレイブンはさっさと自分の教室へと戻って行ってしまった。入れ替わりに教師が入って来る。
「ホラ、早く席に着け。授業を始めるぞ」
教師に言われ、皆それぞれの席に戻る。アサギも力無く自分の椅子に腰掛けた。授業が始まったが、アサギの耳には何も入って来ない。ただ先ほどのやりとりだけが頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
【続】