さよなら先輩
さよなら先輩のさよなら先輩たる所以はふたつ。
ひとつめ。名前の楢木小夜子を、名字と名前をひっくり返して省略して「さよなら」先輩。
ふたつめ。誰よりも爽やかにさよならと言えて「さよなら」先輩。
これは、僕の学校ではごくごく一般的なこの先輩と、さえない後輩の僕のお話。
ひとつに結んだ長い髪に、すらっとした小鹿みたいな体つき。楢木先輩は、先生だって不良だって気分の良くなる「さよなら」を言える人。そして、僕の所属する吹奏楽部の先輩でもある。
僕が最初にこのあだ名を知ったのは、初めての部活終了後のことだった。まだ役職も定まらない一年生は、基礎練習の後は片付けなしで帰っていいことになっていた。わらわらと大量の一年生で集団になって帰っていく途中、別の部屋でパート練習をしていた先輩達が音楽室に戻ってくるのとすれ違った。僕を含めた一年生が次々に挨拶をする。
『さよならぁ』
「あぁ。また明日~」
重複して輪唱みたいに聞こえる挨拶に、先輩達も軽く挨拶を返す。そんな中でひとり、小柄な女の先輩だけが爽やかな笑顔を向けて、「さよなら」と頭を下げた。よく通るソプラノの声。
僕は一年生の流れに押されるようにして、階段を下っていく。目線で彼女を追ったけれどすぐに見えなくなった。後ろで「さすがさよなら先輩だよな~。超爽やか」とからかう声が聞こえる。
「ちょっと。止めてよ」と先ほどのソプラノが苦笑して答えた。
さよなら先輩? 変なニックネーム。
そんなことを思いながら、僕と先輩の初めての出会いは終わった。
結局そのあだ名の由来を正確に知ったのは、二歳上の姉をもつクラスメイトの情報からだった。確かに彼女の挨拶は格別爽やかだった、と妙に納得する。フルネームを楢木小夜子というのだと、そのときやっと僕は知った。名前のほうの由来は後付けっぽくないかぁ? と同意を求めてくる友達に、僕は曖昧な返事をしたのだった。
彼女を知らない人はいないんじゃないか。
僕が本気で思うほど、彼女の存在は有名だった。一年生には上級生から情報が回ったし、先生だってみんな知っていた。一番驚いたのは、この中学校で一番ガラの悪い代田という不良が、彼女にだけは素直に挨拶を返したことだ。代田は凶悪な目つきが売りの茶髪の先輩で、校内を練り歩けば先生も声をかけられない恐ろしい人なのだ。「おう、じゃあな」なんて言葉が代田の口から出てくること自体が奇跡だ。
一方、本人はと言えば、その不思議なあだ名をあまり気にしていないようだった。他人に言われればやんわりと否定はするけれど、特に躍起になっているふうではない。かと言って嬉しがっている様子もなかった。
僕は別に先輩と仲が良くなるわけでもなく、全く喋らないなんてこともなく、ただ部活で同じ楽器担当の先輩と後輩でしかなかった。ちなみに担当はフルート。迫力はないけれど、繊細な音を出せるこの楽器が僕は好きだったし、発表会で短いソロを任される程度には上達もしていた。
二年の秋。いつものように部活を終えた後、顧問の先生が一通りお説教をしていた。次の大会まであと何日だと思ってるんだ、お前達の本気はこんなもんか、とか何とか。はい、こんなもんです先生。
「まあいいだろう。明日からさらに気合入れていけ。さて、三年生が修学旅行でいない間のそれぞれの臨時パートリーダーだが、それぞれのパートリーダーに指名してもらうことにした。各リーダーは前に出て発表してくれ」
任される側の二年生がざわめいて、それぞれの楽器のリーダーが前に出てくる。そして順番に名前が読み上げられていった。ちなみにフルートのリーダーは楢木先輩だ。
「えー。トランペットは佐々木さんにお願いしたいと思います」
「ホルンは宮田さんにやってもらいます」
「トロンボーンは宇野くんでお願いします」
順番に読み上げられていく名前にそれぞれのチームが反応する。選ばれた人は肩を叩かれたりなんかしてからまれている。僕は緊張も期待もなくただぼーっと発表を聞いていた。
「えっと、フルートは桐原くんにお願いします」
へえ……。……え?
「おい、お前呼ばれたぞ」
「あ、うん」
僕の反応の無さを心配してか隣の奴が耳打ちしてくれる。僕は右から左に流れた言葉を一回脳みそに戻して、ゆっくり一周させて理解し直した。そうか、僕は臨時のリーダーに選ばれたのか。
……何で?
理解したはいいものの、どうみても積極的なタイプではなく、まとめる力もない僕が何で選ばれたのかさっぱり分からなかった。
「今呼ばれたものは今週中に引き継ぎの資料をもらっておくように。以上、解散」
「ありがとうございました!」
反射で声を合わせて礼をしながら、僕は内心やはり首を傾げていた。それでもとりあえず、先輩と話をしようと荷物を持って先輩のところへ行く。僕に気付いた先輩はにこっと笑って反応してくれた。
「お疲れ様です。あの、先輩。……何で僕なんですか」
「桐原くん、フルートに対しては真面目だから。きちんと皆もついていくかなって思って」
「はあ。そうですかね」
「そうだよ」
「…………」
はっきり断言されてしまい、僕は何とも言えず黙り込んだ。褒められているんだろうが、どうしようか。
「で、どうかしたの」
「あ。先輩の引き継ぎの資料っていつ取りに行けばいいですか」
僕がどうにかする前に先輩が話題を変えてくれた。ありがたや。僕は本来の用事を思い出した。
「うーん。金曜までには作っておく。金曜の部活後、時間ある?」
「大丈夫です」
「じゃあそのときね」
「分かりました。お願いします。じゃあ、さよなら」
「さよなら」
にっこり笑って、一言。耳に心地よいソプラノ。やっぱり楢木先輩はさよなら先輩だな。鞄を背負って音楽室を出ていく背中を見ながら、僕はそんなことを思った。
「楢木先輩」
「あ、桐原くん。ごめんね、すぐ出すから」
談笑していた先輩に遠慮がちに声をかけると、彼女は慌てて鞄からご丁寧にクリアファイルに入れられた資料を取り出した。先程まで先輩と喋っていた三年生は、「先に行ってるね」と去っていった。
部長がやってきて、楢木先輩に鍵を渡す。
「終わったら鍵閉めて、職員室に返してくれる?」
「わかった。ありがとう」
金曜日、午後六時四十二分。こうして広い音楽室には僕と先輩のふたりが残った。窓の外の暗くなった空にぼんやりした月が浮いている。電気のついた教室の明るさが逆に変な感じだ。
「資料はこれなんだけど。基本的なスケジュールはいつもと同じと考えてくれればいいから。詳しくはここに書いてある。それから、下に書いてあるのは楽譜の次の部分の注意点」
「はい」
先輩はこちらが申し訳なくなるほどきちんと作られた手書きの資料を指差しながら、僕に内容を説明していった。僕は別に言いたいこともないので、ただ返事を繰り返す。
「分かりました。ありがとうございます」
「よかった。それじゃさよなら」
いつも通りの言葉に思わず笑ってしまう。突然笑った僕に気付いて、先輩は何故かとても慌てた。
「な、何! 私何か変なこと言った?」
「ぷっ……いや……相変わらず爽やかだなあと」
「もう! 桐原くんまでそういうこと言う?」
先輩はすねたように口をとがらせる。顔立ちがそれなりに整っているので、上手く女の子らしさが出せている感じ。女子ってこういうとき得だよなあ、なんてね。
「褒めてるんですけど。ほんと、先輩はさよならが得意ですね」
僕は何の気なしにそんなことを言った。
「苦手だよ。さよならは世界で一番悲しい言葉だもの」
呟くようなささやき声。突然泣きそうな顔をした先輩に、僕は思わず息を飲んだ。自分が何かをしでかしたことだけを理解する。
「あの」
「ごめん。桐原くんは何も知らないのに。関係ないのにね。やだ、私、今まで気にしてなかったつもりだったんだけど」
「すみません」
無理に笑おうとする先輩が痛々しくて、深々と頭を下げた。
「桐原くんが謝ることじゃないよ。私が勝手に思い出しちゃっただけなんだから。気にしないで」
「あの、それは」
先を言えずに止まった僕に、困ったように眉根を下げてしばらく迷っていた先輩は、内緒ね、と言って話を始めた。先輩の悲しい昔話。
「私の家、母子家庭なの。私が小一のときに離婚したんだ。別に不仲だったわけじゃなくて、金銭的理由でね。父は人の良い所があったから、親友に貸したお金持ち逃げされて、あげくに父の名義で借金までされたの。もちろんその親友はどこかへ行っちゃって、戻ってこなかった。家には毎日のように借金取りが来て、何時間でもドアの前で脅すの。『いるのは分かってるんだ、金を返さないとお前ら全員売り飛ばすぞ』って。私、怖くて泣きたくて、でも泣いたらばれちゃうから手で必死に口押さえて堪えてた。とうとう自己破産するしかなくなって、その前に父が離婚を切り出したの。自己破産を申告すれば、これから先しばらくは社会から見捨てられる、離婚すればお前達だけでも普通の世界に戻れるから、って。私には何のことだかさっぱりだったけど、もう父に会えないのだけは分かった。結局、私が小学校に上がるのと同時にふたりは離婚した。どうしようもなかったよ、私には。どんなに嫌だって、父が自分を守ろうとしてくれてるのが分かったら何も言えないじゃない」
「……はい」
悔しそうに語気を荒げる先輩に、僕は頼りない相槌しか打てなかった。
「父が家を出ていく日、私を見て言うの。『小夜子、ごめんね。さよなら』ってすっごく悲しい顔で言うの。私、世界にこんなに悲しい言葉は他に無いに違いないって思った。それからずっと、さよならは私の呪いなんだ。精一杯笑顔で明るく言わなきゃ泣きそうになる。父の親友が憎くて憎くて仕方なくなる。そういう自分が嫌だから、誰よりも爽やかにさよならが言える人になろうと思って頑張ってきたんだ。もっとも、今は大分呪いも薄れてきたんだけどね」
最後を少しおどけて締めくくって、彼女は僕をうかがった。胸の奥が締め付けられるような話に、僕は言っていい言葉を見つけられなかった。そんな暗い顔しないでよ、昔の話なんだから、と彼女は苦笑する。
「それがさよなら先輩のさよなら先輩たる本当の所以なんですね」
「そうだよ。ふたりだけの秘密ね」
口の前に人差し指を立てて、楢木先輩は声をひそめた。
「分かりました。僕、最後の日まで絶対に先輩にさよならは言いません」
「最後の日?」
怪訝な顔をする先輩には答えずに、僕は立ちあがる。資料ありがとうございました、それじゃ、とだけ言って頭を下げる。先輩は、本当に言わないんだね、と笑って手を振ってくれた。
僕の方から彼女にさよならを言わなくてはならない日が近づいていた。
あの日と同じ金曜日の放課後。
僕は特別教室用の第三校舎の階段で、何をするでもなく窓の外を見ていた。ここからは畑が見えるだけで、特に面白いものもない。ただ冬の澄んだ空だけが、薄桃色の綺麗なグラデーションで雲を染めあげている。
誰かの足音が階段を上ってくる。振り返ると、僕の書いたメモを持った楢木先輩がこちらを見上げた。
「呼びだしちゃってすみません」
「いいけど。最後の日ってこういうことだったんだね」
上りきった先輩が僕の隣に並ぶ。
「あの時は無意識だったんですけどね。先輩が反応しちゃったんで、まずい、と思って」
「別にあの時言ってくれればよかったじゃない。決まってたんでしょ、転校すること。三日前になって急に転校するから部活やめます、なんて言い出すからびっくりしたよ」
「だって、さっさと転校する奴には臨時のパートリーダーは任せられない、とか言われたら残念じゃないですか」
「言わないよ、そんなこと。たかが修学旅行の三日間の話だもん。それに桐原くん以外に任せるつもりなかったし」
あぁ、いい人だな。そんなこと言われたら嬉しくなるじゃないか。
「で、用事って何かな」
「好きです」
「……え?」
さらっと間も空けず言った僕の告白に、流しかけた先輩は慌てて反応する。完全に目が点になっている。これか、鳩が豆鉄砲を食らったようっていうのは。貴重だ。
「だから、好きです」
「待って。ちょっと待って。……え? あれ? それはつまり……告白?」
「それ以外に解釈があるならお聞きしますけど」
僕の落ち着きはらった態度に比べて、先輩はかなり動揺していた。突然すぎて、脳が追いつかないらしい。ちょっといきなりすぎただろうか。
「いや、あの……いつから?」
それは恋愛対象になった時期のことを聞いていると解釈した僕は、記憶を辿る。
「一年の最初の頃から気にはなってましたけど、完全に自覚したのは先輩がパートリーダーに選ばれたときくらいですかね」
「そんな前から」
驚きでぽかんとする先輩に僕は肩をすくめる。
「だから臨時のリーダーを任されたときもちょっと舞いあがりましたよ。しかも先輩、僕に秘密の話までしちゃうし。こっちとしては共有物ができて嬉しい限りだったけど、先輩絶対気付いてないだろうなあって」
「うん、ごめん。全然気づいてなかった」
申し訳なさそうに俯く様子もかわいいなんて言ったら怒られるかな。
「いいですよ。今日も気持ちの整理がしたくて言わせてもらっただけで、別にどうして欲しいとか無いですから。もう転校するわけだし」
「え、じゃあ」
「これでお別れです。最後のさよならを言いにきました」
「そっか」
彼女は何故か寂しそうな顔をした。そんな顔しないでください、僕はそれを都合よく勘違いしてしまいそうだから。
「最後に一言だけ、いいですか」
「何?」
僕は下りようと歩いていった階段の前で立ち止まる。それから振り向いて、先輩に負けないくらいにこやかに笑ってみせた。
「どんなに悲しい言葉でも、先輩のさよならだったら僕は嬉しくなれる。他の人もきっとそうですよ。だから、先輩のさよならは呪いじゃなくて魔法です」
先輩はつかの間目を閉じた。そしてその目を開けると、いつもの笑顔で笑ってくれる。綺麗なソプラノの声が階段に響く。
「ありがとう」
いつか会えるなんてバカみたいな期待はしない。
運命の赤い糸も信じない。
だから。
さよなら、先輩。
読んでいただきありがとうございます。高校時代に部誌に載せたものを少し修正しました。感想・辛口評価どちらも大歓迎です。今後のためにも、ずばずば指摘してください。