婚約破棄をしている場合じゃない
婚約破棄をしている場合じゃない
「マルグリット・オルランド。貴様との婚約を破棄する」
第二王子リュシアンの声が、王城の大広間に響いた。
――はあ?
マルグリットは喉まで出かかった声を呑み込んだ。王立防疫衛生局の記録官である彼女は、北方野戦病院の配給帳簿を抱えている。今朝、届けたはずの小麦が三両分足りないと伝令が来た。その行方を確かめるために王城へ来たのであって、婚約者との別れ話をしに来たのではない。
広間には貴族や官吏が集められていた。リュシアンの腕には子爵令嬢セリアが寄り添い、給仕たちは冷めた茶器を下げる時機をうかがっている。マルグリットは帳簿を抱え直した。昨夜から出荷番号を追っていたせいで目の奥が熱く、消毒液で荒れた指には革の表紙が引っかかった。
「殿下。お話は伺います。ですが、先にこの帳簿を――」
「最後まで言わせろ」
リュシアンが彼女を指さした。国境で流行した熱病は、新しい患者の数こそ減り始めたが、野戦病院の寝台はまだ埋まっている。病み上がりの兵や避難民には温かい粥が要る。足りない小麦を今日中に見つけたい。マルグリットは帳簿の頁を開こうとした。
「貴様はセリアの実家が苦しいとき、小麦の取引を止めた。彼女のサロンにも衛生局の者を押しかけさせ、客の前で物資を持ち去らせたそうだな」
「サロンにあったのは、病院用として手配された消毒用アルコールです。仕入れ元を確かめるまで、局で預かっています」
「また理屈か。セリアは病人のために祈っていた。貴様は数字しか見ていない」
セリアが王子の腕に手を重ねた。広間の後方にいた軍の補給官が、隣の官吏と顔を見合わせる。マルグリットは説明を続けようとしたが、乾いた舌が上顎に貼りついた。昨夜から白湯もろくに飲んでいない。ここで怒鳴れば、リュシアンはますます彼女を「冷酷な女」と呼ぶだろう。そう分かっていても、腹が立った。
先週、セリアの実家による小麦の転売申請を差し止めたのは事実だ。仕入れ元を示す書類がなく、荷を動かす先もはっきりしなかったからである。病院への正規の配給を止めた覚えはない。だが、その申請と今朝の未着の知らせが、頭の中でまだつながらなかった。
「女としての優しさを忘れた貴様とは結婚できん。私はセリアを選ぶ」
帳簿が手から滑り、革の表紙が大理石の床を打った。マルグリットは拾おうとして、すぐには膝を曲げられなかった。幼いころのリュシアンは、転んだ子どもを見れば誰より先に駆け寄り、傷を洗う水を頼む人だった。あのころの彼を覚えている自分が、今も次の言葉を待ってしまう。
広間の扉が開いた。甲冑姿の伝令将校に続き、雨に濡れた外套を着た国王が入ってくる。将校は人垣を抜け、マルグリットの前で立ち止まった。
「北方補給隊からの報告です。野戦病院へ送る小麦三両分の荷車が、王都の南倉庫を出ていません」
マルグリットは床の帳簿を拾った。南倉庫の名を聞き、昨夜見つけた空欄を思い出す。出荷欄には衛生局の印があるのに、病院側の受領欄は白いままだ。彼女は将校の持つ書類に目を向けた。
「倉庫では、誰の命令で留めたと言っていますか」
「王族の急用による転用と。署名入りの命令書があります」
国王がリュシアンを見た。王子はセリアの肩から手を離し、視線をそらした。マルグリットは命令書を受け取り、番号と日付を帳簿に照らし合わせる。末尾にあったのは、リュシアンの署名と王子府の印だった。
「私が命じました」とリュシアンが言った。「病院へ届く前なら、配給先を変えられると思ったのです。セリアの家が買い取って、もっと必要な場所へ届けると聞いて――」
「買い取る?」
マルグリットは、子爵家の転売申請書を帳簿の間から抜いた。南倉庫の保管番号を探す。昨夜は疲れた目で何度読んでも、番号の先までたどれなかった。指で一桁ずつ押さえると、未着の小麦三両分と一致した。
「この小麦は、野戦病院へ送るために国が代金を払っています。殿下の命令で倉庫に留め、その同じ荷をセリア様のご実家が買い取る申請をした。認められていれば、病院へ届けるはずの小麦が、子爵家の取引に移っていました」
「私は、父から病院を助けるためだと聞きました」
セリアはリュシアンから一歩離れた。マルグリットは申請書の署名欄を確かめた。子爵の名はあるが、セリアの名はない。彼女がどこまで知っていたかは、これから調べなければならない。
「陛下、まず荷を押さえてください。まだ南倉庫にあります」
国王は伝令に転用停止を命じた。荷車の封を確認し、野戦病院への輸送を再開する。軍の補給官が馬と護衛を手配すると申し出た。広間の端にいた給仕は盆を置いて通路を空ける。将校たちが駆け出す足音を聞いて、マルグリットはようやく帳簿を胸から離した。
国王は息子の前へ進んだ。
「病院の小麦を止めておきながら、官吏を集めて婚約破棄か」
「セリアが責められていると聞いたのです。私は彼女を守りたかった」
「ならば話を聞き、書類を調べればよかった。お前が署名した日に荷車は止まり、今朝の便にも載らなかった」
リュシアンはセリアを見た。彼女は父親の取引について、すべて知っていたわけではないと言う。王子は今度はマルグリットに向かい、帳簿の不備を先に教えなかったのかと尋ねた。自分が命じたことと、彼女に知らせなかったことが、たった数息のあいだに王子の中ですり替わっていく。
国王は息子の言葉を遮った。
「『全世界は邪悪な者の支配下にあります』。お前もその言葉を知っているな」
「……はい、父上」
「ならば、邪悪な者の支配に立ち向かえ。戦場の敵だけを見て、立ち向かっている気になるな。飢えにつけ込んで人の食糧を売ろうとする者もいる。確かめずに署名し、自分の手は汚れていないと思い込む者もいる」
国王はリュシアンの手に残る印章の跡を見た。マルグリットも、その手を見た。熱病の流行が下火になったばかりの国境では、小麦一袋の遅れで、病院の鍋に入る量が変わる。リュシアンが守ったつもりのものは、まだ誰の食卓にも届いていなかった。
「法と規律を身に着けろ。規則が何のためにあるかを学び、王子である自分から守れ。今日から補給物資の転用命令に署名する権限は外す。お前がこれまで出した命令も監査する」
「父上、私は善意で――」
「善意だったかどうかは、荷の行方を変えん」
招かれた貴族の一人が、野戦病院にはいつ小麦が届くのか尋ねた。別の官吏は、王子府からほかにも転用命令が出ていないか調べると申し出る。リュシアンは人々を見回したが、誰も彼の恋を祝わなかった。皆、自分の知る病院や村の配給を気にしていた。
国王は補給官に、南倉庫から病院までの予定時刻を広間にも知らせるよう命じた。それからマルグリットへ向き直る。
「婚約についても、お前の意思を聞きたい。今ここで決めずともよい」
マルグリットはリュシアンを見た。あの日、膝をすりむいた子どもに水を運んだ彼を好きだったことまで、帳簿で消すことはできない。けれど彼は今、彼女の仕事を調べもせず、皆の前で罪のように語った。結婚すればまた、彼の署名を追い、届かなかった荷について誰かに頭を下げるのだろう。
「婚約の継続は望みません」
リュシアンが名を呼んだ。マルグリットは彼のほうへ顔を向けたが、引き止める言葉を聞くためではなかった。
「殿下が皆の前で婚約破棄を宣言なさったことと、私も継続を望まないと答えたことを、記録に残してください。オルランド家から、婚約規約に従って清算を申し入れます」
「金の話を、今するのか」
「病院用の小麦を転用して、ここで婚約の話を始めたのは殿下です」
リュシアンは唇を噛んだ。マルグリットは、実家が王子府からの依頼で立て替えた軍馬の飼料代と、王子個人の儀礼服の仕立て代も告げた。正式な軍の発注と私費を分け、受領印のある書類に従って請求する。国王は財務官を呼び、婚約規約による支払いと立替金をそれぞれ照合し、返還期限を定めるよう命じた。小麦の転用に関わった金の流れも、別に調べることになった。
「王子の地位については監査を待って判断する」と国王が言った。「その間、命令を出す席には座らせん。倉庫で補給官の監督を受け、自分の署名で止まった荷をすべて確認させる」
リュシアンは何か言いかけたが、補給官が持ってきた未着一覧を前に黙った。一枚目の上には、彼が止めた小麦三両分が記されている。広間にいた人々はもう王子を囲んでいない。病院への輸送を確かめるため、それぞれが出口へ向かい始めていた。
マルグリットはセリアのサロンで預かった消毒用アルコールについても、仕入れ元の調査を続けると国王へ報告した。セリア本人が取引を知っていたかも、書類と証言を分けて確かめる。国王は「判明したことだけ報告せよ」と答えた。マルグリットは帳簿を閉じ、広間を出た。
廊下に出ると、膝から力が抜けた。彼女は手すりにつかまり、帳簿の角を握り直す。幼いころ、リュシアンと分け合った焼き林檎の匂いを思い出した。今朝まで婚約者だった人と、もう同じ食卓には着かない。広間では考える暇もなかったことが、静かな廊下でようやく胸に届いた。
「マルグリット様」
衛生局の同僚ジェラールが、陶器のカップを持って来た。厨房の炊き出しから分けてもらった、根菜と塩豚のスープだという。彼は広間へ帳簿の写しを届けに来て、扉の外で輸送の命令を聞いていた。
「昨夜から何も召し上がっていませんよね。南倉庫へは私が先に行きます」
「出荷には私の印が要るわ」
「封と袋数を確認して、戻って報告します。そのあとで押してください」
マルグリットはカップを受け取った。消毒液で白くなった指先に、陶器の熱が伝わる。ジェラールは彼女の返事を待ち、頷くのを見ると帳簿の写しを持って階段を下りていった。マルグリットは手すりの脇の椅子に座り、湯気へ息を吹きかけた。
最初の一口は塩気が強かった。柔らかく煮えた蕪を噛むと、昨夜から空だった腹に温かさが広がる。彼女はもう一口飲み、王子に言い返せなかった言葉をいくつか思い出した。今ここで追いかけて叫んでも、小麦の到着は早くならない。悔しさは消えなかったが、スープは最後まで飲みきった。
腰のホルダーには、真鍮の印章がある。何度拭いても消毒液の白い跡が残る、重い仕事道具だ。マルグリットは配給帳簿を膝に開き、小麦三両分の欄に紙片を挟んだ。ジェラールが戻ったら封と袋数を確かめて印を押す。そのあとは、荷が野戦病院に着いたという受領の知らせまで、自分の目で追おう。




