言語は善的人格の形成難度に影響するのか
善悪の判断は、生まれた瞬間から完成しているものではない。
幼い子供は、快いものを求め、不快なものを避ける。しかし、それだけでは善悪の理解にはならない。自分が嫌だったことと、他者が嫌がっていることを結びつけ、自分の行為が他者にどのような影響を与えたのかを理解することで、善悪の判断は少しずつ形成されていく。
その過程には、言語が深く関わっているのではないだろうか。
人間は言葉によって、自分の感情を分類する。
悲しい、悔しい、寂しい、怖い、恥ずかしい。これらはすべて不快な感情ではあるが、原因も必要な対応も異なる。自分の感情を細かく区別できなければ、他者の感情を理解することも難しくなる。
また、善悪を考えるには、単なる感情だけでなく、行為と結果の因果関係を理解しなければならない。
なぜ叩いてはいけないのか。
相手が痛がるからである。
なぜ嘘をついてはいけないのか。
相手が誤った情報によって判断し、不利益を受けるからである。
なぜ約束を守る必要があるのか。
相手がその約束を前提として行動しているからである。
このような説明を理解するには、「自分の行為」「相手の認識」「その後に生じる結果」を一つの因果として結びつける必要がある。
ここで一つの疑問が生じる。
言語の習得難度や、幼少期に与えられる言語環境によって、善人的な人格を構築する難度も変化するのではないか。
文法や語彙が複雑な言語を使っているから、直ちに人格形成が難しくなるとは限らない。子供は一般に、周囲で日常的に使われている言語を自然に習得するからである。
問題となるのは、言語そのものの複雑さよりも、子供が自分と他者の心理をどれだけ正確に言語化できる環境にあるか、かもしれない。
大人が「駄目だから駄目だ」とだけ教える環境では、子供は規則を覚えることはできても、その理由までは理解できない。
一方で、「それをされると相手はどう感じるか」「なぜその行為が問題なのか」「別の方法はなかったか」と説明される環境では、子供は善悪を命令としてではなく、因果関係として理解できる。
前者によって形成されるのは、叱られないための服従である。
後者によって形成されるのは、他者への影響を予測し、自分で行動を調整する能力である。
両者は、表面的には同じ行動を生むことがある。
親に叱られるから人を殴らない子供と、相手を傷つけると理解して殴らない子供は、外から見れば同じである。
しかし、監視する者がいなくなったとき、その違いが現れる。
善人的な人格とは、命令に従う人格ではない。
他者の痛みや権利を認識し、自分の利益だけでなく、行為が生み出す影響を考えられる人格である。
その能力の形成に言語が関係しているなら、善悪教育に必要なのは、禁止事項を増やすことではない。
感情、意図、責任、因果、立場の違いを、子供が理解できる言葉で説明することである。
さらに言えば、同じ言語を使っていても、家庭や教育によって習得できる概念の範囲は異なる。
日常会話ができることと、自分の感情を分析できることは同じではない。文章を読めることと、他者の立場を想像できることも同じではない。
言葉を知っていても、その言葉が示す構造を理解していなければ、善悪の判断には結びつかない。
したがって、人格形成に影響するのは、狭い意味での言語習得難度だけではない。
感情や因果関係を表す語彙の豊かさ、説明を受ける機会、対話の質、物語や文章に触れる量、異なる立場を言葉によって考える経験まで含めた、広い意味での言語環境である。
善悪を理解するには、自分の感情だけでなく、まだ目の前に存在しない他者の苦痛や、遠い未来に発生する被害まで想像しなければならない。
言語は、直接見えないものを思考の中に存在させる。
その意味では、言語能力は単なる会話能力ではなく、善悪を構造として理解するための基盤にもなり得る。
言語が善人を直接作るわけではない。
高度な言語能力を持ちながら、他者を巧みに欺く者もいる。言語は善にも悪にも利用できる道具である。
しかし、他者の感情を理解し、複数の立場を比較し、行為の長期的な影響を考えるには、それに対応した思考の道具が必要になる。
その道具の中心に言語があるなら、幼少期の言語環境は、善人的な人格が形成される可能性だけでなく、その形成に必要な難度そのものを変えているのかもしれない。




