第3話:影を喰らう閣(たかどの)、狂犬は主の過去すら許さない
帝都に朝を告げる鐘の音が響く中、幻影館のダイニングには、見るも凄惨な(白雪視点)光景が広がっていた。
「……黒耀。これ、何?」
白雪が震える指で指し示したのは、朝食のプレートに鎮座する、白雪の顔を精巧に模した**「白雪様3Dトースト(イチゴジャムによる流血表現付き)」**であった。
「ああ、白雪様! 召し上がりにくいですよね。分かります。貴女を『食べる』などという不敬、本来なら私がこの舌を引き抜いてお詫びすべき大罪……! しかし、胃に収めることで貴女と一体化できるという誘惑に、私は……私はッ……!」
「お前が食べるんかい! というか、私の顔からジャムを流すな、縁起でもない!」
白雪が椅子を蹴って立ち上がると、黒耀は恍惚とした表情でその場に平伏した。
「ああ、その荒々しい足音! 振動が床を伝い、私の脊髄を愛撫するようです! 白雪様、本日は解雇のついでに、私の頭をそのスリッパで踏み抜いてはいただけませんか?」
「毎日毎日、お前の思考回路は腐ったドブネズミ以下ね。……今日こそ、絶対に警察に突き出してやるから」
「おや、デートのお誘いですか? 警察署の地下牢、暗くて狭くて二人きり……最高ですね」
「死ね」
そんな朝の騒動を打ち消すように、軍警察の使いが駆け込んできた。
今回の現場は、帝都の象徴――浅草凌雲閣。
「十二階の展望台に登った見物客たちが、突然、廃人のように動けなくなる事件が発生しています。調べると……彼らには『影』がなかったのです」
「影を喰らうあやかし……。珍しくもないけれど、場所が悪わね」
白雪は舌打ちしながら、黒耀を伴い浅草へと向かった。
凌雲閣の最上階。帝都を一望できる絶景の影に、不気味な「粘り気のある闇」が渦巻いている。
「黒耀、見なさい。あれは単なる『影喰らい』じゃない。奪った影から、持ち主の『一番忘れたい記憶』を引き出し、それを餌にして肥大化する変異種よ」
白雪は論理的に敵の性質を見抜く。
「つまり、過去に執着がある人間ほど、あの闇には抗えない。……私のようにね」
「白雪様……」
黒耀の瞳が、スッと細くなる。
普段のふざけた空気は消え、絶対的な捕食者の冷気が漂い始めた。
「見つけたぞ……。清らかな霊力と、漆黒の過去を持つ娘……!」
展望台の壁面から、無数の黒い手が伸び、白雪の足元を掬おうとする。
闇が白雪の意識に直接語りかけてくる。
『見せてやろう……お前が前世で、あの男に殺された時の景色を……。お前の短命の呪いは、その時に刻まれた怨嗟だ……』
「……っ!?」
白雪の脳裏に、真っ赤に染まった桜と、返り血を浴びて微笑む「狐の男」の姿がフラッシュバックする。
一瞬の隙。闇が白雪を飲み込もうとしたその時――。
「――私の白雪様に、不快なゴミ(過去)を見せるなと言ったはずだ」
空間が震えた。
黒耀が白雪の前に立ち、迫りくる闇を素手で掴み取る。
「ギ、ギギッ……なぜ、なぜ貴様は闇に呑まれぬ……! 貴様こそ、この女を殺した張本人ではないのか……! その罪悪感は……!」
「罪悪感? そんなもの、愛の重さに比べれば羽毛より軽い」
黒耀は無表情に、しかしその内側に煮え滾る狂気を孕んだ声で告げる。
「白雪様が私を憎むのも、死を恐れるのも、すべては私の特権だ。貴様のような出来損ないの影が、彼女の感情に触れていいはずがないだろう」
黒耀の手の中で、闇が絶叫を上げる。
「消えろ。白雪様の過去を穢す不届き者は、存在そのものが万死に値する」
黄金の炎が吹き荒れ、凌雲閣の最上階を包み込む。
白雪を救うためなら、帝都の象徴ごと焼き払うことも厭わない。
それが、最強の忠犬の愛の形だった。
事件解決後。夕暮れに染まる浅草の街角。
白雪は、先ほど脳裏をよぎった「前世の光景」の恐ろしさに震えていた。
(……黒耀が、私を殺した……? そんなはずがない。だってあんなに、気持ち悪いほど私を愛しているのに)
ふらりとよろめいた白雪を、黒耀が背後から支える。
「白雪様、お疲れですね。さあ、私の背中をお使いください。お宅まで、私の首輪を引いて歩いてくださっても構いませんよ?」
「……お断りよ。お前、さっきのあやかしが言っていたこと……」
「あやかしの戯言に耳を貸してはいけません。私は貴女の僕。それ以上でも以下でもありませんよ」
黒耀はいつものように完璧な微笑を浮かべる。
だが、その視線は白雪の足元――先ほど奪われかけた「影」に、呪いのような執着を持って注がれていた。
(そうだ。貴女が何も思い出さず、ただ私を罵りながら生きてくれるなら、私は何度でも歴史を改竄しよう。……あの血塗られた約束を、貴女が知る必要はない)
白雪がふと咳き込む。
ハンカチに付着した血を、黒耀は白雪が気づく前に素早く指で拭い取り――それを陶酔したように自らの唇でなぞった。
「……今日こそ、絶対に、解雇なんだから」
「ふふ、楽しみにしております。明日の朝食は、白雪様の吐息を詰めたマシュマロをご用意しましょうか?」
「それだけは、絶対にやめて!!」
二人の不格好な日常が、また夜に溶けていく。
しかし、白雪の心には、拭いきれない「血の桜」の記憶が、棘のように刺さったままだった。




