第1話:忠犬は三度死んでも主を裏切らない
帝都の喧騒から切り離されたかのように佇む、古びた洋館「幻影館」。
午後の陽光がステンドグラスを透かし、応接室に色鮮やかな影を落としている。
「白雪様、本日のアフタヌーンティーは、特製の薔薇ジャムを添えたスコーンでございます。……おや、どうなさいました? そんなに般若のような形相で私を睨みつけて。もしや、ついに私の喉元を掻き切りたくなりましたか? 構いませんよ、貴女の手で屠られるなら、それこそが私の本望――」
「黙れ、この変態」
ソファに深く腰掛けた少女・白雪は、冷徹な声で言葉を遮った。
彼女は白磁のような肌に、夜の色を溶かしたような黒髪を持つ。その美しさはどこか儚く、今にも消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。
白雪の視線の先には、恭しく膝をつく一人の男。
黒耀。漆黒の燕尾服を完璧に着こなし、整った容貌には怜悧な知性が宿っている。……その手に、**『白雪様観察日記:第100巻~寝顔の睫毛の角度編~』**さえ握られていなければ。
「……黒耀。お前、昨夜も私の寝室に忍び込んだわね」
「人聞きの悪い。私はただ、貴女の寝息という名の至高の調べを譜面に起こしていただけです」
「それを世間では不法侵入、あるいはストーカーと呼ぶのよ」
白雪はティーカップを机に叩きつけ、宣言した。
「本日をもって、お前を解雇する。今すぐこの館から出て行きなさい」
「酷い……! お給金も休みも不要、食事は貴女の残り物で十分、寝床は貴女の靴箱の上でいいとあれほど……! なぜこれほどまでに献身的な私を、貴女は拒むのですか!」
黒耀は芝居がかった動作で涙を拭い、あろうことか白雪の靴に頬を寄せた。
「せめて、せめて解雇の代わりに、この命を白雪様の足元に散らす許可を……! さあ、その華奢な指先で私の心臓を抉り出してください!」
「面倒くさいから死なずに生きてなさい! 掃除が大変でしょうが!」
これが、幻影館の日常。毒舌令嬢と、愛が重すぎる最恐執事による、終わりのない押し問答である。
そんな漫才を切り裂くように、応接室の呼び鈴が鳴った。
訪れたのは、軍服に身を包んだ帝都警察の男。彼は青ざめた顔で、白雪に一枚の写真と資料を差し出した。
「『眠り姫事件』……。これで今月に入って五人目ね」
被害者は全員、名門女学校に通う女学生。彼女たちはある日突然、深い眠りに落ち、二度と目を覚まさない。外傷はなく、ただ魂だけが抜け殻になったように。
「現場には、共通して『甘い沈丁花の香り』と、微かな『銀色の糸』が残されていた……。黒耀、準備なさい。害虫駆除の時間よ」
「御意。白雪様の仰せのままに」
白雪は鋭い洞察力で、被害者たちの共通点を割り出していく。
「彼女たちは全員、学園で『将来の夢』を熱心に語っていた子たちね。……あやかしは、未来を夢見る若く瑞々しい魂の輝きを喰らう。犯人は恐らく、夢の中に巣食う『土蜘蛛』の変異種。この沈丁花の香りは、獲物を昏睡させるための毒よ」
論理的な推論を組み上げ、白雪は夜の帝都へと足を踏み出す。
犯人の根城は、廃墟となった女学校の講堂だった。
天井からは幾重にも重なる銀色の糸が垂れ下がり、繭の中には眠り続ける少女たちが囚われている。
「見つけたわ。醜い蜘蛛けら」
白雪が呪符を構えた瞬間、闇から巨大な脚が突き出された。
「ギギッ……! 霊力の高い女だ……。お前の魂は、さぞ美味だろうな!」
巨大な土蜘蛛が、牙を剥いて白雪に襲いかかる。
「白雪様!」
黒耀が前に出るが、蜘蛛が吐き出した粘着性の糸が彼の動きを封じる。……ように見えた。
「あら、不甲斐ない執事。そのまま食べられてしまえばいいのに」
白雪が毒を吐く。だが、その瞳には微かな動揺が走る。
「……ああ、白雪様。今、私の心配をしてくださいましたね? その瞳の揺らぎ、実に、実に美しい……!」
次の瞬間、館の中での情けない姿は霧散した。
黒耀の背後に、九つの黄金の尾が陽炎のように揺らめく。
彼の瞳が、冷酷な獣の金色へと変わる。
「我が主の視界に、これ以上その醜悪な姿を晒すな。不愉快だ」
黒耀が指先を軽く振るっただけで、講堂を埋め尽くしていた鋼鉄よりも鋭い蜘蛛の糸が、一瞬で塵へと変わった。
「な……に!? 貴様、ただの人間では……」
「貴様ごときが、私と同じ言葉を喋るな」
黒耀の放つ圧倒的な妖気が、空間そのものを圧壊させる。
帝都の裏社会を震え上がらせる「最恐の妖狐」の真の力。彼は数秒のうちに、巨大な土蜘蛛を跡形もなく消滅させた。
「ふぅ……。白雪様、害虫の駆除、完了いたしました。ああ、白雪様! 怪我はありませんか!? もし指先にささくれでもできていたら、私はこの帝都を焦土に変えて責任を取る所存です!」
「……寄るな。暑苦しい」
白雪はいつものようにハリセン(どこから出したのか)で、詰め寄る執事の脳天を叩いた。
事件が解決し、幻影館に静寂が戻った夜。
白雪は自室の鏡の前で、一人静かに咳き込んだ。
「ごほっ、……はぁ、はぁ……」
白いハンカチに、鮮やかな赤が広がる。
彼女にかけられた「短命の呪い」。強力すぎる霊力に、その器である体が耐えられないのだ。彼女の命の灯火は、もう長くはない。
(……だから、言っているのに。あんな馬鹿な男、早く解放してあげなきゃいけないのに)
白雪が黒耀を解雇しようとする本当の理由。
それは、彼に自分の「死」という絶望を見せたくないという、彼女なりの不器用な慈悲だった。
一方。
閉ざされた扉のすぐ外。
闇の中に、黒耀が音もなく佇んでいた。
彼は手にした「観察日記」を、慈しむように撫でる。その瞳に宿っているのは、昼間の献身的な輝きではなく、底知れない執念の闇だった。
「……何度追い払われようと、無駄ですよ。白雪様」
彼は知っている。前世で彼女を救えなかった己の無力さを。
彼は誓っている。今世こそ、運命という神の喉笛を噛み切ることを。
「貴女を縛る呪いも、寿命も、因縁も……すべて私が喰らい尽くして差し上げましょう。たとえ、貴女に心底忌み嫌われることになろうとも」
扉一枚を隔てた、慈悲の嘘と、狂信的な純愛。
大正の夜は、まだ始まったばかりである。




