第56話 般若の二面性
青一高のメディアセンターを出て、そのまま一人でカフェに向かう太地。
権田成美のリムジン送迎疲れもあって、電車で帰りたいと切実に脳が訴えたからだった。
久々にイヤホンをしての下校。実は太地はこの時間を非常に楽しみにしている。
大好きなJAZZバンド「H ZETQUARTET」の曲を電車の中で聴くのが心地よいのだ。同じ車両に乗っている周りの人間とは同じ世界にいる。当たり前だ。しかし自分だけはこの素晴らしいフュージョンジャズの別世界にいる……そんな気がするのだ。
周囲の人間はほとんどスマホで時間を潰しているが、太地は目をつむってどっぷりと深く入り込む。まさに癒しだ。
『いいな! この曲。太地にしては珍しく、いいセンスだな!』
「うるさいよ! いつの間にかセンス悪い男みたいになってるじゃん!」
『色祭りの賞金でお前が買ったのはこの高級イヤホンにヘッドホン、部屋に置いてあるスピーカー。あとフィギア製作用のエアブラシと高級ニッパと油性塗料って……』
「なんだよ?」
『いや、なんかものすげ〜偏ってるなぁって思ってよぉ。趣味が』
ハァ〜っとため息をつく太地。お手上げと言わんばかりに両手のひらを上に向ける。
「月人にはわからないかなぁ……この空気伝達と骨伝達の両方から再生して表現するダイナミックなサウンドが! 立体感があるだろう⁈」
情熱が有り過ぎて怖いのでスルーする月人。まぁ、賞金のほとんどを母親に渡して自分はたったこれだけの散財。可愛いものだ。
ちなみにそんな親孝行息子をもった母親早紀子は早速友達と沖縄旅行を計画しているというのに。
そうこうしている間に電車が目的の駅に到着する。
家に帰る前に寄っていく場所がある。それは勿論「カフェ・ポメラ」だ。
* * *
洋なしキャラメルフラッペと茨城県産栗のモンブラン、これが今日の月人ご所望メニューだ。
「「いただきま〜す」」
平日の16時過ぎだが、結構人が入っている。さすが人気のカフェだ。
『もうすぐ冬だけどフラッペってうめ〜なぁ〜』
満遍の笑みとはこのことを言うのだろう。
「月人って寒さ感じるの?」
『お前が寒いって思ったら俺も多少は感じるぜ。死にはしないけどな』
「そうなんだね。じゃぁ、冬になったら洋服のコーデも変えようよ。別パターンのかっこいいのをデザインしてあげるから! いつも同じていうのもなんか残念だしね!」
『……別にそれは構わないが、太地がニヤニヤしているのが気になるな』
「おいおい、人の好意を無下にするなよ!」
『わかったよ、お前に任せる』
「よし! 任せろ! 今度じっくり考えよう」
『……』
ふと、太地の表情が真剣になる。
「なぁ、月人みたいにあの宍土のアイドルも自由に服とか変えれるのかな?」
『ん? あぁ、そうだな。なんでだ?』
「いや、あの……黒色の般若の面はデフォルトであのアイドルについていたのかな? それとも宍土がつけたのかな?」
『かなりの確率で宍土がつけたんだと思うぜ』
「だとしたら、般若を深掘りしたら、宍土将臣のことをより深く知ることができるかもね」
どうやらプロファイリングの続きみたいだ。突然スイッチが入るやつだなと驚く月人。
「般若には二つの意味があるよね。一つは仏教用語でパーリ語の『パンヤー』を音写して表現した【般若】と、もう一つは能面の【般若】だね」
『あぁ、そうだな。諸説あるがこの二つの意味は全く別のものとして扱われているようだがな』
「確か前者の般若の意味は仏の『智慧』。
でもって、智慧は仏教の悟りを開くために必要な六つの実践修行のうちの一つ。【布施】【持戒】【忍辱】【精進】【禅定】【智慧】、これらを総じて六波羅蜜と呼ぶんだったよね?」
『結構詳しいな。仏教徒なのか?』
「いや、信仰心は全くないよ。無宗教。ちょっと知っているだけかな」
話を続ける二人。
「そして智慧とは、『全てのものごとの真理を捉えること、道理を見抜くこと。時代によって変化しない普遍的な概念』か……これって、京都の六波羅蜜寺の口から六人の小人が飛び出てる像のアレと関係あるのかな?」
『太地が言っている像は空也上人だな。だが、口から飛び出している像が表現しているのは、六波羅蜜のワードを指しているというよりは、空也が「南無阿弥陀仏」の六文字を唱えると、阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているものだな』
「なるほど」
「般若(智慧)は仏教で重要とされる考えがあり、それらを言葉にまとめたものが般若心経。それは仏の智慧を説くお経……って感じかな」
『あぁ、大体まとまっていると思うぜ、諸説あるとは思うがこんなもんだろ』
「もう一つの意味は能面の『般若』だよね。 女性の嫉妬や恨み、怒りといった感情の烈度により能面を使い分けてた」
【増女】普通の女性の精神状態。
【泥眼】怒りが少しずつ沈殿し、女性という存在を超え始めた段階。
【橋姫】目から下が赤くなり、髪が乱れて女性の凄惨な復讐心が現れる。
【生成】短い角が表れ、女性が鬼となる途中の姿。男に対する未練の情が残っている鬼の一歩手前の状態。
【般若】怒りが収まらず長い角が生え、悲しみと怒りに揺れる鬼女となる。
【真蛇】怒りが頂点に達し、鬼女よりも毒蛇の様な凶悪な存在となる。
「色祭りの時はまさに般若だ。悲しみと怒りに揺れる……か」
『それはまさに般若面の特徴だな。面の上半分は眉根を寄せた悲しげな表情、それに対し、面の下半分は大きく開かれた口が激しい怒りを表している。それは鬼女の心の二面性だと言われているな』
「口の上下からキバが2本ずつ、額からツノが2本生えてるから、普通に考えてシンプルにイカレた怖いだけの存在のはずなんだけどね……」
(悲しみも感じてしまう。それは不本意ながら鬼になってしまった恥ずかしさやうしろめたさ、後悔を表しているのだろうか……)
『そういえば、能では 色によって白般若・黒般若・赤般若に分かれてたよな。品格や凶悪さが違うようだが』
「白般若は上品で控えめに表現され、赤般若は中品的存在で強い怒りを表し、黒般若は 下品で完全な鬼に近い存在で野獣の様な凄みを持っている。そこから究極の怒りへと昇華されて「真蛇」へ変わっていくわけだね」
普通の女性が嫉妬と怒りを募らせて、 最終的には般若よりもさらに恐ろしい姿に変貌か……宍土自身のことを例えているのか、あるいは……
『真理を認識し悟りを開く「智慧」という意味を持つサンスクリット語のPannaに語源をもつ「般若」という名が,嫉妬や怒りや悲しみで鬼となった女を表現する面《《にも》》付けられているってのはなんとも皮肉な話だな』
勝手な想像かもしれないが、この視点からイメージする宍土将臣は大きく外れていないと太地は感じた。それだけでもかなりの収穫だ。
『フラッペもうなくなってるぞ。何か飲もうぜ!』
「え? ほんとうだ。集中して考えるとすぐに甘いものが欲しくなるよね」
――ガチャ!
扉の開いた音と共に聞き覚えのある声が店内に響く。
「やっぱりここにいたのですわ!」
「おいお〜い。六条君、何も言わずに来ちゃったの?」
「ここめっちゃいい感じやん! カフェラニアン!」
「……カフェ・ポメラだ」
青一高の四人だ。声を聞いた瞬間、太地にウザそうな感情は一切無かった。むしろ嬉しさがこみ上げてきてたようだ。
(あの太地が友達に向かって心から笑っている……)
そんな太地の表情を見て、月人も嬉しそうに笑った。




