第5話 名前
翌朝、すでに時計の針は10時を指している。
(寝すぎた……)
目覚めはあまり良く無い。朝食をとるために、ゆっくりと上体を起こす。
「イテテ……」
(身体の節々《ふしぶし》が痛い……背中が特に)
部屋全体に飛び散らかった雑誌やノートを見て太地は思う。
「やっぱり昨晩のことって、夢ではなかったのか……」
左手首に付けられたままの『リング』を見つめる太地。
当然ながらリングは何も反応しない。
「君はお腹減ったりするの?」
……やはりリングに反応はない。
見つめ続ける太地。
沈黙が数秒続く。
「まずは朝ごはんだな」
* * *
太地の朝食は大体決まっている。
早紀子特製シュガーバタートースト、コンビニの菓子パン(特にメロンパン)、ドライフルーツが多めに入っているグラノーラ。この3パターンだ。
今朝はすでに10時を過ぎていて、早紀子はすでに仕事へ行ってしまったようだ。
太地は冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、グラノーラにドバドバと注ぎ込む。
「もうすぐ夏休みも終わるのかぁ……」
いつもの習慣で、ついテレビをつけてしまう。観るのはスマホなのに。
とある番組のつまらないワイドショーが放送されている。
《続きまして、報道局からニュースです。》
《昨夜未明、東京都青川区で建設中のビルで火災が発生しました。
警察では施工途中の断熱材に何者かが放火したものとして、捜査を進めています》
(……放火事件多いな)
《目撃した人の証言によりますと火災発生時現場に数名ほど――》
《次のニュースです。
今朝、神奈川県で強盗事件がありました。
神奈川県高津区のコンビニエンスストアで――》
「一日に全国でどれくらい事件は起こっているのかな……」
世の中で頻繁に大小様々な事件や事故が起こっていることを理解しつつ、昨晩に関しては自分自身に起こった出来事の方がやばい事件だった、と太地は思っていた。
朝食を終えて、テレビを消して椅子の背もたれにダラしなくもたれかかる。
「……名前か」
太地はチュートリアル版のガイドから言われたことを思い返していた。
(ローダーがアイドルの名前を決める。
名前が設定された時から、個性が生まれるって、言っていたよな……)
「個性ってつまり性格みたいなもの? もしそうなら楽しみだな」
友達がいないわけではない。
父親が失踪して以来、太地はこれまでずっと孤独を感じていた。
母親の存在では埋められない何か。
それがゴッソリ無くなってしまった感覚。
同じ境遇の人間にしかわからない感情。それを理解してくれる存在をずっと探していたのかもしれない。
AI-dollがその存在になり得るとは全く考えていないが、そばにいて無害な存在が長く居てくれれば……
変わった期待をアイドルに寄せる太地。
自然とそんな理想の存在となるべき自分だけのアイドルへの「名付け」作業。
(適当に決められるわけがない!)
食器を洗って歯を磨き、ボサボサの髪をサッと梳かす。
サラサラで太くてかなりの直毛と毛量だ。
寝癖がついたらその日はお手上げと、言わんばかりに強烈な毛髪の主張が、毎朝太地を苦しめる。
やはり今日もボサボサのままだ。
(もういいや。小さなことだ)
服を着替えて太地は出かけることにした。
「準備オッケー!」
ガチャ!
玄関扉を開けた太地の目に真っ先に飛び込んできたのは雲ひとつない空だった。
* * *
何か目的があるわけでもないが外に出たいと思う時に太地が取る行動は決まっている。
散歩して、カフェでまったりしながらコーヒーを飲むことだ。
母親早紀子に連れまわされた影響で17歳になったばかりではあるが、都内のカフェ事情にはかなり詳しい。
コーヒーを飲むと言っても、いわゆるスペシャリティコーヒーといった焙煎の仕方や豆の種類にこだわったスタイルということではなく、単にブラックで飲むかカフェラテを飲むかという一般的なそれだ。
もちろん、ブラックの時にはスイーツも必ず注文する。甘党だから。
都内をぶらぶらと散歩して、お気に入りのカフェ「ポメラ」でカフェラテを注文する。
(あの見た目のインパクトが強すぎて……いい名前が浮かばないなぁ)
太地はずっと考えていた。しっくりくる自分のアイドルの名前を。
時計の針は17時半を回っている。
「神様みたいな雰囲気もあるからなぁ。」
「ゴッド、 釈迦、仏陀……ゼウスとか?」
「釈迦助、釈迦太郎、仏太……ゼウ助?」
呆れるほどに絶望的なネームセンスだ。
……ふと考える。
(父さんたちはどうやって僕の名前をつけてくれんだっけ?)
「確か……太陽と地球を象徴する存在になってほしいから太地だったな」
(いつ思い出しても壮大な世界観過ぎて恥ずかしい)
『ねえ!もうすぐエクストリームスーパームーンだよ!』
『スマホで綺麗に撮れるかな?』
『もう見えてるかも!屋上に行こうよ!』
隣の席で女子たちが楽しそうに騒いでいる。
(エクストリームスーパームーンってなんだ?)
スマホで検索する太地。ヘタレで直接女子に話しかけることができない。
「なになに……月が地球に最も近づく近地点と、満月となるタイミングが一致する時、月が最も大きく見える……約18年に1度しか現れない……」
「え?今年がその18年に1度の時期?」
(見たい! エクストリームスーパームーン!)
雑居ビルの最上階にある「カフェ・ポメラ」
店内から階段を上がって屋上へ上がれるちょっと変わった建物だ。
元々はオーナーが住居として使っていた場所を店長が借りたという話を聞いたことがある。そんなポメラを太地はとても気に入っている。
(今日、ポメラに来てよかった)
飲み干したカフェラテのカップとトレイを返却口へ戻し、足早に階段を駆け上がる。
さっきの女子たちが階段を降りながら太地とすれ違う。
「ホント綺麗だったね〜」
「まじで感動した!」
太地の耳に届く女子たちの感動の声。
高鳴る気持ちを抑えて屋上へ出る太地。
何組かのカップル、物珍しさで見に来たおじさんを含む数名のギャラリーが見上げているその先には、太地の想像を超えるスケールの満月が力強く輝いていた。
「あ……」
言葉にならないくらいの感動と興奮。
金縛りに掛かったかのように動けない。
すでに夕飯前で周りの人たちは帰宅する時間が迫っていたのか、数分見つめてスマホを片手に自撮りして、足速に笑顔で去っていく。
太地はまだ動けなかった。
ズドンと重くぶつかってくる衝撃に近い感動と興奮を上手く頭と心で受け止めることができない。
「……これだ」
誰もいない雑居ビルの屋上。
真ん中にポツンと一人。
月と太地、お互いが向かい合っているように思える。
左手首を意識して言葉を発する。
「ロード」
普段よりいっそう輝く特別な満月を背にしてフワッと太地のアイドルが現れる。
放たれた煙と光と月のシルエットが幾重にも重なって雑居ビルの屋上は瞬く間に神秘的な空間へと変わる。
『チュートリアルモード、起動完了』
昨晩と同じように右目がゆっくりと開く。
「君の名前を考えたよ」
『了解しました。一度アイドルに命名すると、その後変更はできませんのでご了承ください』
「うん。わかった」
太地に迷いは無かった。
「君の名前は……【月人】だ!」




