僕の命が惜しければ、金庫の鍵を開けやがれ!①
小説はじめました。どうぞよろしくお願いいたします。
※告知画像みたいな挿絵から始まります。
「僕の命が惜しければ、金庫の鍵を開けやがれ!」
拘束された人質が、大きく口を開けて叫んだ。
真剣だと言わんばかりの声量は、確かに目を引くことだけは成功する。
――しかし。
得られた効果は、わずかに帳簿棚の硝子扉を叩いただけだった。
部屋にいる男たち――制服姿の職員も、マスケット銃を持つ男たちも、その全員がまったく動かない。
アエルは内心で歯噛みする。
言葉は明快だった。語彙も普通で、状況にも合っている。
でも、誰もが目を泳がせる。
誰も理解しようとしない。
僕はこんなにも、正しいことを言っているのに。
普通じゃない場所で。
普通じゃない事件が起こり。
普通じゃないことがなされていた。
窓辺に止まっていた小鳥が飛び立った。
「……おい、こんな感じの作戦だったよな?」
「あ、ああ……間違ってはない。なんか違うけど……たぶん、合ってる」
正常性バイアスというものだった。
強盗たちのささやき声が、アエルのこめかみに電流を走らせる。
そこに、ほんの些細な確信めいたものが焼き付いた。
見つけたものは、呼吸ひとつ間違えたら、終わるかもしれない緊張感。
無視できるほど鈍感になれず、かといって、縋るだけの肚もくくれない。
頭で整理なんてできるのなら、叫び声なんて上がらない。
でも叫ばなかったら、それは終わりのかたちが違うだけ。
大丈夫、息を吸うのと同じこと。
アエルは――アエル・ホーミスは、世界で一番、ハイになることを決めた。
「銀行に金貨があるなんて子供だって知ってる。出し惜しみしてると眉間に穴が開くぞ! お前ら、僕の眉間が心配じゃないのか!」
アエルの意思は音にのり、確かに届いた感触を得た。
それはただの勘違いではなく、視線の集中から実感できる。
そして――
「いやいや、違うだろ! 確かに合ってるけど、絶対にお前が言う言葉じゃねえ! まかり通ってたまるかそんなもん!」
後頭部に軽い痛みを覚えた。
「お前らが頼りないのが悪いんだぞ! 強盗なら強盗らしく、ずばっと悪いことやってみろ!」
「だから! お前は俺たちのリーダーじゃないっつーの! お前こそ人質らしくしろっつーの!」
重たい衝撃音が響き、執務机が軋む。
銃床を叩きつけた強盗がそこにいた。
言いたいことは、単純明快。
お前ら、うるさい、黙れ。だろう。
アエルは暴力の匂いに唾を飲み込んだ。
コンッと乾いた音がして、インク壺がころころと床を転がる。
黒い染みが広がる床に、破片は散らばっていない。
「と、とにかく! 金だ! 金庫だ! 鍵を開けろ! 痛い目に遭いたくないだろう!」
積まれた帳簿の山の間に、この実直ともいえる部屋に似つかわしくない、鮮やかな色彩の衣服が見えている。
贅沢で膨らんだ腹を机のふちに擦りながら、くびれのない首を回して冷たい視線で室内の温度を下げている。
有名な男なのだ。銀行の主、街の権力者のひとり、カストリオ・ヴァレリ。
彼は、沈黙を支配していた。
「それは儂に何か利益があるのかね」
「……は?……利益?」
太い指に嵌まった指輪を回している。
表情も乏しく、本当に興味がないようだった。
アエルはその態度の既視感から、思わず口を曲げてしまう。
「当然だ。いいか、これはいわゆる取引だ。天秤というのは、釣り合いを取るためにある。秤は二つ付いているのだからな。まずはお前らが秤に乗れ。儂が受け取るに足るか、見せてもらおう」
「て、てめえ、今の状況わかってんのか!」
「もちろん。いま金を持っているのは儂だ。つまり、決定権は、儂が握っている」
強盗が息を飲み込んだ。
この街で暮らしていたのなら、嫌でもわかる。
金という権力を肌で感じ、頭を下げて受け入れてきたのだろう。
だからこそ、言葉が喉を通らなくなる。
「それで、お前たちが秤に載せるのは――あれだけか」
油断をしていたアエルに、張り付くような視線が集まる。
しかし、あれ呼ばわりに対して何か言えるわけでもなく、頬を引きつらせるしかできなかった。
「ふん、そこに膝をついている役立たずで愚にもつかん冒険者くずれの命、だけでは――軽いな」
冷酷。というよりは、無関心。
カストリオ・ヴァレリは、アエルを見ることなく持論を続ける。
「命というものは、その重さは何を成したかで決まる。強盗に囲まれ、手も足も出せず、物見遊山でもしてたのか? そんなお前に何の価値がある?」
それは初対面の者に向けるようなものではなく、まるで何か別の感情が透けて見えるほどの苛烈さだった。
確かに、アエルの状況を見れば、過失がある、と言う主張がでてきてもおかしくはない。
名人でも手元は狂う。問題は、そのとき誰が叩かれるかだ。
多くの場合は素人だけが叩かれる。
そして、アエルは素人ではない。
つまり、アエルは悪くない。
「……なにが、秤だよ。だったら生きてるだけで、文句言われなきゃいけないのかよ。僕だって、開拓民なんだからな! まともに戦える状況だったら、こんなやつらぎったんぎったんにしてやる!」
「ほう、志だけはあるようだな、評価してやろう。ただ、開拓民はいかん。新大陸の価値を正しく理解できないやつらだ。ただ人が集まる。それだけでどれだけの金が動き、どれだけの金が稼げるかがわかっていない。まあ、総じて、無価値。良かったな、値が出たぞ」
まるで口喧嘩の噛みつきワニのような男である。
言っていることが大きすぎて、論理も理屈も、それが果たして正しいのかも、アエルには判断することができなかった。
ただ、喉の奥につまっているものがあることだけは、確かに実感できた。
強盗の一人が銃のフリントを撫でながら、ぼそりと吐き捨てた。
「……魔法が手に入るって聞いたから、わざわざ来たんだよ」
それを聞いて黙っていられなくなったのか、別の一人が声を上げた。
「俺たちがこんなことしてるのは、新大陸をこんな場所にしたあんたらのせいだろ」
「はんっ。魔法なんぞに目を曇らせず、本質が見えていれば、儂のようになれたかもしれんな。銃弾も止められず、帳簿にも乗らん力など評価に値せん。――しかし、儂は言葉は評価している。言葉はいい、まさに意思の形だ。だがそれも、重さのある言葉、に限るがな。……そこの冒険者崩れは、なんだったかな……ぎったんぎったんにしてやる、だったか。……ふんっ、せいぜい奴隷か下働きがお似合いだ」
一拍おいて、口はさらに開く。
「儂がここで見たのは、安い言葉と、軽い命。そのくらいだ。結局のところ、お前たちは価値を理解していない。命も、言葉も、力も。何一つとして、な。……まあ、口を出す前に、まず値札をつけることを覚えたまえ。とはいえ、せっかくこうして売り込みにきたんだ、その冒険者の命くらいなら、買い取ってやらんこともないぞ。……わざわざ、ご苦労なことだ」
言葉が叩きつけられたわけでもなく、刺されたわけでもなく、滲みこんだわけでもない。
これはアエルに向けて言われたわけではない。
決めつけていて、そもそも見ていない。
アエルが居なくても成り立つ言葉。
だから、声より先に感情が出た。
「はああ!?」
「くそ! 銃を突きつけてるのは俺たちだ! 命令するのは俺たちなんだよ! 金を出せ! 頭がいいならそんくらいわかんだろ!」
「馬鹿と話すのは好かん」
怒気が空気に切り込みを入れて。
「てめえ!」
一拍の沈黙。
声でもなく、咳払いでもなく、その予兆は続きを示す。
そして――
「いいか」
たった一言。
これだけで。
この帳簿室の音を引き込んだ。
銃声もなければ、叫び声もない。波が引いた後のような、空白の静けさの中。
カストリオ・ヴァレリの声が響く。
「……儂は場合によっては金貨を渡してやると言っている。その穴埋めはそこで転がっている冒険者崩れがする。お前らは金貨が手に入る。そこの冒険者くずれは命が助かる。そして、儂が損をしない――それがこの秤の、ただひとつの正しさだ」
嵐に流された船の残骸を眺めているような錯覚があった。
何が起きたかを説明することができず、ただ、結果だけが渡される。
それを見たカストリオ・ヴァレリは、笑いながらこう言った。
おめでとう。
もはや、理解でも、直感でもなく、反射だった。
「いいわけ――んぐ」
しかし、身体を押さえつける力が強くなり、言葉になる前に砕け散る。
「……だ、黙ってろよ! 今は、あいつが喋ってるだろ!」
上体が軋み、支えるには狭すぎる肩幅に重さが増す。
畳んだ太ももに力を込めても、目に映るものは床だけになった。
「まあ、どれだけ悩んでもいい。そのうち海兵が駆けつけてくるだろうが――儂はそれでも一向に構わん。儂が損することだけは絶対にありえんからな」
振り上げられていた重圧が霧散する。
しかしそれは、慈悲でもなければ理不尽でもない。
手足の先から温度が抜けていく感覚が、この違和感が危険なものだと伝えてくる。
ただの選択肢。
それは、あまりにも無慈悲で、合理的で――
「ああ、海兵がきたら、お前ら全員縛り首だ。儂の銀行を荒らしたんだ。そのくらいの手付金は払ってもらう」
――正しかった。
唇の裏から、鉄の味がした。
舌に張り付いて、唾を飲んだら喉に刺さった。
声が、言葉が、論理が、意味が、形になってくれないのだ。
間違ってる!
じゃあ、なんでこんなに怖いんだ。
理不尽だ!
そもそもなにが正しいか教えて欲しい。
いやだって、わかってる。
でも……そういうことじゃないだろ。
なにが違う――。どこが駄目だ――。
感じるすべてがズレていて――
ただ……
いや。ちがう。
……僕が悪い。
力がないことが悪い。
失敗したことが悪い。
わかっていなかったことが悪い。
うまく生きられなかったことが悪い。
……誰かが。
「違うよ」って言ってくれたら――
それだけで息ができるのに。
まだ叫んでもいないのに声が枯れた。
暴れてないのに足が沈んだ。
見ていないのに視界が滲んだ。
なにを期待していたのだろう。
なんでうまくいくと思ったんだ。
おかしいとは思わなかったのか。
頼る相手が違ったんだ。
――ああ、そうか……
……きっと、初めから間違っていた。
強盗たちの声が遠くなる。
カストリオ・ヴァレリの唇だけが動いている。
世界が勝手に周っている。
ぐるぐる回って、ケタケタ動く。
お前も動けと語りかける。
なんだか、僕は、出荷される家畜みたいだ。
これから他人の都合で値段を付けられて、鉄の烙印で誰かの名前が刻まれる。
それが……答えなのだ。
妥協の余地もなく。
足りないのは、僕の覚悟だけ。
認めてないだけ。
飲み込むだけ。
……嫌だ。
そんなの……
そんなの、ありになるわけ――たまるか。
……僕が終わるのはもう少しだけ先だ。
なら……そうなんだよ。
ああ、わかった。
本当に?
きっとそうだ。
そうしなきゃ、耐えられないだけ、なのかもしれない。
……でも。
――だから。
滑稽でいいんだ。それがいい。
バカみたい。
本当にみたいか?
反論じゃなくても。手足が動かせなくても。
……黙るくらいはしないでいられたら。
そしたら僕は言ってやれる。
いや……言ってやる。
カストリオ・ヴァレリに、アエル・ホーミスの強さを思い知らせる。
どんな土俵だって構わないんだ。
できることは決まっている。
鉄を飲み込めばいいだけだ。
身体の中にうねるような熱を感じる。
最後に立ってさえいればいい。
……だから。
ざまあみろって言ってやる。
§
「離せよ! 力加減間違えんな、強盗ヌーブかよ!」
拘束されていた力が少しだけ緩む。
肩の力が抜けたところに、後頭部をぺちんと叩かれた。
「離すわけねーだろ。立場考えろ、ったく」
「ってーな。わーったよ。もー」
少しの弛緩。
ただ、アエルの気の抜けた言葉が余計に、帳簿室に漂う緊張の輪郭を際立たせた。
動きはない。音もなく、でも確かに揺れていた。
空気か、視線か、あるいは誰かから感じる圧力か。
「おい! カストリオ・ヴァレリ!」
声を出したのはアエル。
二人の間にあるのは数歩の距離。
左右も前後もなく、ただ、その位置が与えられていた。
「誰のおかげでお前の大好きな金が稼げてると思ってるんだ、ばーか!」
最初に出てきたのは、ほとんど噴き出すように出た言葉。
叫びというよりも間欠泉。
けれども相手は、数多の罵倒など歯牙にもかけない、海を股にかける大富豪である。
「儂の努力の賜物だ」
「違う! お前は搾取しないと生きられないんだ! 僕たちみたいなのが居なかったら、生きていけないんだよ!」
「人の居ないところで商売はしない」
言葉がぶつかる音はしなかった。
互いの語尾を滑るようにすり抜けて、着地もしないまま空間に溶けていく。
「でた! それって人に価値があるって認めてんじゃん。矛盾だろ、矛盾! 何が価値が無いだ、自分が言ったこと忘れんな!」
まるで、錆びた錨に無理やり帆を貼りつけているような会話だった。
「人に価値がないとは言っていないぞ。特にお前にはな。奴隷としての価値を認めてやってる」
「何が奴隷だ。 僕は自由の大地、新大陸の開拓民だぞ。お前の所有物になった覚えはない!」
「自由、大いに結構。お前には縛り首になる選択肢もあるのだからな。自由に選べばよろしい」
確かに、アエルはその言葉を聞いた。
勝ち誇る声でもなければ、怒りでもない。けれど、その中に分岐点があった。
感情だけで壁を叩いていた手に、ようやく手応えが返ってきた気がした。
「それだよそれ、なんで僕が縛り首なんだよ! 今の僕を見てみろ、誰がどう見ても人質だ。 それが、なんで僕も強盗扱いなんだよ」
突破口なのか、導火線なのか、種火なのか。まだ、わからない。
でも、身体をすり抜けるはずだった違和感を、確かに掴んだ。
声に出すことで……違和感を覚えていたことに気づけたのだろう。
これは、ただの理不尽ではなく、悪意のある理不尽といえる。
「お前は自分のことをまったく理解していないな。……はあ。なぜ、今日この日に強盗が来たと思う?」
「知るか!」
「警備が薄いからだ。……たしかにこの銀行は新大陸産の金貨を保管しているが、本土に送る女王陛下の金貨を持ち出した今日であれば、海兵たちは居ない。輸送に付いているからな」
コロコロと、空のインク壺が転がった。
……強盗、破綻してんじゃん。
てっきり、たんまり溜め込んでいると思っていた。
思わず手近にいる強盗に顔を寄せる。
「……おい、今日は金貨ないってよ。知ってた?」
口をついただけで、無視されても当たり前の問いかけ。
「し、知らねえ」
……答えてくれる感じだった。
なんで?
なんとなく目を合わせたくなったけれど――そこまで首は回らない。
「まったく無いわけではない。そして、儂がここに居る理由は、お前と会う約束があったからだ。アエル・ホーミス。身に覚えがあるだろう」
「そうだぞ! 僕はお前に会いに来たんだ。強盗をしに来たわけじゃない!」
「警備が薄いこの日、金庫の鍵を唯一開けられる儂がここに居るのは、お前との約束があったからだ。そして、お前と会う約束の時間に、強盗が押し入った。これについて弁解があってもいいのではないか」
カストリオ・ヴァレリの口調は落ち着いていて、まるで星の観測結果から、動きの予測を立てるように、緻密で、繊細で、確定的な物言いだった。
だからこそ、アエルの返答は決まっていた。
「……すっげー、運悪いじゃん」
「お前が強盗を引き込んだとしか考えられんだろうが!」
どうやら、運ということにはしてくれないらしい。
そんなこと言われても、僕にとっては本当に運が悪かっただけなのに。
「……お前ら、今日僕がいるって知ってたの?」
「し、知らねえ」
「素直だな」
友達かな?
僕の言うことをなんでも聞いてくれるのかもしれない。
まあ、でも、これで、僕は無実だという証言にはなる。
「ほら、知らないってよ! 証明終了。僕は無実だ!」
「それで済むわけがないだろう……儂が納得できるとでも思っているのか。……そうか、そうだな。なにも儂は鬼じゃない。新大陸の文化に合わせてやろうじゃないか。お前に弁解の自由を与えてやろう。何か言い分はあるか?」
……無理である。
――その結論は、声に出されることはなかった。
しかし。
アエルはまるで噛み合わない歯車が高速で回りだすように、滑らかな舌先で感情だけを吐き出した。
「うっせえ、ざーこ! 考えればわかんだろ。僕が人質になれば、強盗が成功するなんて計画立てるやついるわけないだろ。すっごい頭悪そうなこと考えるのな!」
出てきたのは、悪口未満の暴言。
そして、カストリオ・ヴァレリの眉根は確かに跳ねた。
アエルの頬が緩む。
そしてこれは――、アエルの反撃ではない。
「心当たりがあるからって、そんな顔するなよ。大丈夫だって、ナメクジだって立派に生きてるんだ」
反撃の、狼煙だった。
カストリオ・ヴァレリも、強盗も、ただその竜巻のような様を、見ることになった。
ただ、できることは――ひとつ。
「弁解は……ないようだな」
「弁解なんて必要ないんだよ! 僕は強盗じゃありません。はい論破! 妄想じじいの戯言に付き合ってられるか!」
子供だった。
未熟でもなく、愚鈍でもなく、我儘でもなく、高揚と、欲求と、愉悦と、体温。
子供で、悪魔で……笑っていた。
「儂はじじ……」
「妄想じじい!」
「少しは静……」
「妄想じじい!」
「話を聞……」
「妄想じじい!」
終わった。
「黙れ!」
しかし、悪魔は止まらない。
「急にムキになったじゃん。これだから、本土由来のロートルは考え方が古いんだって。これくらい挨拶だろ、肩の力抜けよ」
「なんなのだ、お前は! さっきから何がしたいんだ!」
果たして、その言葉が通じる相手なのか――
「ただの鍵当番にはちょっと高尚過ぎたかなー? 僕、人生経験豊富だからさ、まあ、これも交渉術ってやつだよね」
アエルは高揚する頬を冷ますように、小さく息を吐いた。
「…………鍵当番とは、いったいどういう意味だ」
「あ、そこ? だって鍵当番じゃん。普段仕事してなくて、金庫の鍵を開けて欲しい時だけ呼ばれるんだろ。完全に鍵当番じゃん」
気づけば、拘束による痛みはもう意識の外にあった。
視界の中で、大富豪は手をかざせば隠れるほどの距離にいる。
「儂は……儂こそが……信用あってのものなのだぞ……。それを、鍵当番だと……?」
「まあ、まあ、わかるわかる。自分の仕事は立派なものだって思いたいよね。でもさ、現実見な? 結局、たいしたことしてないじゃん?」
鐘を叩けば音が鳴る。
そんな単純な原理を思い出す。
ただし、その音は小さく――
「……ま……か」
聞こえなかった。
「え? ごめん、聞こえないよ。やめてよー。僕、介護とかできないんだよね」
「貴様が儂を愚弄するのか! きさま、貴様ごときが、儂を愚弄するのか!!」
踏み抜いた。
アエルの瞳に輝きが宿る。
見たかった表情が、そこにあった。
「顔真っ赤になっちゃった。やーい、ざーこ、ざーこ!」
「絶対に、許さん。貴様は縛り首じゃ済まさんぞ、車輪引きだ! 全身の骨を砕いて街中引きずり回してやる!」
「あはははは。でも、できないんでしょ? だってほら、見てみなよ。僕も今こうして人質やってるわけだけど、こんな素人みたいな強盗も倒せずに手をこまねいてるのは誰だよ」
「殺せ! やつらを全員皆殺しにしろ! 何をしている! 早くいけ!」
暴力的な言葉の反響音が、アエルの耳にしっかり届く。
しかし、灰色の制服を纏った男たちは、石像であることを示し合わせたかのように動かない。
帳簿室に満ちているのは、語気とは不釣り合いなほどの――鈍い、沈んだ停滞だった。
「お前らもさ、もう無理だって、そろそろ気づいた方がいいんじゃないの?」
袖でシンバルを持って待機していた小道具係を、舞台上に引きずり出す。
アエルの声にはそんな効果があった。
けれども、強盗はシンバルを鳴らせない。その音は帳簿室に一度も響いていない。
だから、口をパクパクと開くだけだった。
「お前らざこだからさ。そのマスケット銃って飾りなんでしょ? それとも間違えて洗濯棒持ってきたの? 撃った、殺した、奪ったで終わるのに、誰も何もできてないじゃん。見栄張んなって、見てらんないよ」
ひと息遅れて、反応が返った。
「俺はそういうタイプじゃねーから」
「わ、わかってねーのはお前の方だ! 冴えてるやり方ってのは脅して済ませるんだ!」
声が錯綜する。
誰のものかも曖昧な言い訳が、数秒遅れて浮かび上がっては、アエルに届く前に溶けていった。
「もう殻に閉じこもってんじゃん! 気づけよ! 失敗したのをよ!!」
激情の乗った声が、陰のたまりを突き破る。
強盗たちの散っていた視線を、意識を、確かに一つに束ねた実感があった。
しかし、アエルは福音を授ける気など、さらさらない。
「人質は駄目。銃も撃てない。逃げることもできない。なーんにもできない。それって生きてる価値ある?」
沈黙は、一筋の光がもたらした。
アエルはちらりと上を見上げる。
強盗たちも釣られて視線を追う。
そこには、天井があるだけだ。
「べ、べつに! 逃げるのはいつでもできんだよ! マスケット銃持ってるのは、俺たちなんだぞ!」
まるで何かを恥じるような、誤魔化すようなひと言だった。
浮ついた声色に説得力がない。
アエルは畳み掛けるように言葉を継ぐ。
「へー。逃げられるんだ。じゃあ逃げればいいじゃん。明日から、また昨日みたいに暮らせるんだろ。泥みたいな水飲んで、堅いパンかじって生きてけばいいじゃん」
それは火薬の破裂だった。
強盗たちには、もう視線を預ける先はない。
「なんだよ! 人質がなんだよ、お前、なんだよ!」
頭を抱えて呟かれた言葉は、誰にも届かず消えていく。
――はずだった。
「お前らこそなんなんだよ! 僕はすっげー迷惑してるんだぞ! 謝れ! 謝れよ!」
石畳の上を滑る荷車のように、アエルは止まることなく感情をぶつける。
もはや叫びでは済まなかった。
「くそがっ! 撃つぞ! 簡単なんだ。どっちが上かわからせてやる!」
「おい、そんな気安く引き金触んな!」
過剰な体温が、室内の皮膚を内側から撓ませる。
埃が螺旋のように舞い上がった。
そして。
彼は、ただ、持っているだけだった。
抱えず、構えず、ただ、掴んだ。
――耳に太い針を差し込まれた。
耳鳴りが雑音を消して、雑音が耳鳴りになった。
地面が揺れて、視界が滲んで、なんだか勝手に目が動く。
発砲音は――したのだろうか。
ただ……
白煙って、全然たいしたことないんだな。
なんだか、考えが浮ついていた。
手足の先まで感覚がある。
……ああ、僕には当たってないのだろうか。
肩に鈍く痺れるような痛みがある。
そうだった。僕は拘束されてるんだった。
聞こえないのに部屋が騒がしかった。
誰かが動き、誰かが手を上げ、誰かが屈み込んだ。
揺れている。
床が、地面が揺れている。
何体かの人影が、同じ構えをした。
ああ、あれは強盗か。
マスケット銃を構えてる。
小さく屈んでいるのは銀行員。
手を伸ばすように、強盗と同じ方向を向いている。
大きい影はカストリオ・ヴァレリ。
動いてないのに、きっと何かを喚いているのだとすぐわかる。
何をしているのだろうか。
どこを見ているのだろうか。
同じ方向を見て、やっとわかる。
ドアだった。
そういえば、ここにはドアがあった。
入口でもあり、出口でもある。
――ゆっくりと、開いていた。
手のひらにじっとりとしたものを感じる。
いつの間にか喉が乾いていた。
時間切れ。
幕引き。
つまりは――
海兵が来た。
そのはずだった。
でも、扉の前に立った人影は、二つだけ。
背が高いのと、もう一つは、比べると少し小柄だった。
背が高い方は、黒い頭と、白い首元、そして、まっすぐ立った姿勢。
首の白いのはクラバットだろうか、なんだか紳士然とした人影に見える。
小柄な方は、金の頭と、水色の身体と、厚めの黒い足元。
水色の身体の裾が広がっているように見えるから、女の子かもしれない。
異彩だった。
違和感しかなかった。
銀行強盗の最中に、まさか奉公の申し出でもしに来たわけでもないだろう。
……ないよね?
クラバットの人影が、なんか手を振ってる。
このたびは娘が年頃になりまして、何かとお役に立てればと存じまして……ご奉公の口があればと、参上いたしました。
……なんでか、頭に勝手に流れてきた。
カストリオ・ヴァレリはでかい。
揺れてる。なんか吠えてる。
せっかくのお申し出ながら、当家にはすでに内々の者が揃っておりますゆえ、何卒ご容赦くださいますよう。
……誰のセリフだこんなもん。
っていうか、
ああいう服装の人は知り合いにいない。たぶん。いや、絶対。
でも、たぶん、こんな感じだった。しばらくアテレコして遊ぶ。
――ようやく、耳に音が入り込んできた。
そっちに意識を寄せて――
「……ある人が、こう言っていた。誰かのために黙るには、声を上げるよりも、よほどの勇気が要る、と。……僕はね、その黙っていた子供の勇気を、称えたいと思う。どうか、この子に、いや――この人質の子に、語る機会を与えてやってはもらえないだろうか」
僕はずっと喋り通しだったと自覚していた。
止まったら負けだと思ってまくし立てた。
そんな僕に対してこの言いよう。
いや、ほんとに、
すっげー空気読めてないじゃん。
アエル「読んだらブクマ・評価して欲しいなんて子供でも知ってる。出し惜しみしてると眉間に穴が開くぞ! お前ら、僕の眉間が心配じゃないのか!」