なんだよ。ちょっと間違えたくらいでそんなに怒鳴らなくてもいいじゃん。②
空に張り出した石の外壁は、日の光を浴びて白く光っていた。
港の通り沿いに建つ、倉庫のように無骨な建物。
もう見慣れた、何度も出入りした、冒険者ギルドである。
息を吸うと潮風に混じり、石の壁から漂う土と鉄の匂いがした。
灰色の、角が丸くなった積み石の間に、木製の二枚扉がはまっている。
重くて厚い扉の合わせ目には、鉄製の押し板が取り付けられている。
錆びて赤くなった薄い鉄。
けれども真ん中だけには、擦られた鈍い艶が出ていて、多くの冒険者が出入りした跡を残していた。
「いや……アエル。本当にこの建物なのか?」
問いかけられた声に、アエルは振り向いた。
二階建ての高い壁にトレノは首を反らせ、そのまま周囲を見回している。
港なのだから、似たような石造りの建物ばかりが並んでいて、迷うのかもしれない。
そのほとんどが倉庫として使われているのだから、らしさもない。
看板があるわけでもなく。
でも、アエルには見知った場所だった。
「なんだよ。僕は何度も来たことあるんだぞ。間違うわけないだろ」
長めの袖を揺らしながら、とまどうトレノに抗議した。
まだ朝だというのに、太陽の光は暴力的に差し込んでいた。
生ぬるい潮風に桜色の髪は揺れ、ベタつく肌に張り付く。
だからこそ。冒険者ギルドを前にして、自然と身体が熱くなる。
「でもこれ、ただの倉庫だろ」
トレノは後ろ向きに歩いて、通りの真ん中まで下がった。
そして、曲がって伸びる沿岸の先を指差す。
「行くのは、あそこじゃないのか?」
帆船が浮かぶ湾の向こう側には、高い灯台と立派で大きな建物が見えた。
この街で一番栄えた場所で、銀行とか、海兵の詰め所とか、総督府とか、そういう偉い建物がある一等地だ。
「冒険者ギルドはここなんだよ」
アエルはトレノの腕を掴んで、大きな扉の前まで引っ張ってくる。
「ギルドって、もっとこう、こんな貧乏くさくなくて……ちゃんとしてるもんじゃないのか」
たしかに、水夫が行き交い、大きな声が飛び交い、錆びた鎖や濡れた木材の匂いが漂うこの場所は、上品な場所じゃないかもしれない。
でも、こういうものが、人の暮らしそのもので、生きている街の中心なのだとアエルは思っている。
「つべこべ言わずに着いて来いよ。今日から僕は資格持ちの冒険者なんだからな」
鉄製の板に両手を重ね、扉に思いっきり力を入れる。
ギィ……と擦れる音とともに、冷えた空気が流れてきた。
「なんで手続きができないんだよ!」
アエルの声が、広い室内に響いた。
石壁に囲まれた空間には、腰の高さまで板張りが施され、ほんの些細な身の置きどころだけが取り繕われている。
そんな粗い造りのせいか、声は思いのほかよく響き、居合わせた冒険者たちの視線が一斉に向けられた。
だがアエルは気にも留めず、受付台の向こう、制服を着た女に詰め寄った。
「紹介状がないなら、無理ですので。……まあ、誰か書いてくれるなら、それはそれで驚きですけど」
そう言い返したのは、にべもなく――アエルも見知った人物だ。
冒険者ギルドの受付嬢である。
かけた眼鏡の奥から、底意地の悪そうに細めた目でこちらを射抜いてくる。
枯れ茶色の髪は肩を超えるほど長く、緩やかに波打って、大人の色気というものを持っている人だ。
白い襟で隠された首も細く、紺の上着で覆われた肩も小さく。綺麗だからこそ……
髪の毛先が褪せて、赤く色変わりしているのがどうしても目につく。
微かに動く口の周り、眼鏡で隠れた目尻の肌に、理由もわからず意識が向かう。
その視線のまま、わななく手を、ぎゅっと握り込んだ。
「紹介状なんて聞いてないぞ。僕は資格持ちの冒険者になるんだ。適当なこと言われても効かないんだからな!」
冒険者ギルドに来さえすれば、それでいいと思っていた。
資格はトレノがくれるのだから、知らせさえすれば良い気がした。
けれど、受付嬢は取り合う気配すら見せず、微かに眉を寄せる。
まるでアエルが常識知らずだと言わんばかりの態度だった。
聞いたこともない決まり事を、後になって言い出したのは、この人のはずなのに。
「冒険者って、ギルドから紹介された仕事をする義務があるんです。……それくらいは、知っておいてほしいですが」
大きな声ではないはずなのに、石の壁は受付嬢の言葉を跳ね返す。
資格が手に入るんだから、もう縛られなくてもいいはずじゃないか。
冒険者ギルドから仕事を貰えなくなったから、ぜんぶ始まり、終わったのに。
ギルドはまだ、アエルを規則で縛ろうとしている。
「仕事はくれなかったくせに!」
踏み出そうとする足を、トレノに肩を抑えられて止められた。
まるで馬鹿にしたように、受付嬢の鼻が鳴る。
最初から、何かを掴みとれることなんてなかった。そう言われた気がした。
「義務があることと、仕事が割り当てられるかどうかは別の話。男にひっついて歩いてるから信用されなかったんじゃないですか」
受付嬢は途中からトレノへ目を移した。
「ちょっと待ってくれ」
トレノは言ってから、咳ばらいをひとつして、一歩前に出る。
そして、なぜかアエルの手を握る。
どうにも「任せろ」という含みにしては、粘ついてる気がした。
「僕たちのことは関係ないはずだ。それに今の言葉、いったい何人の可能性を閉ざしてきたと思ってるんだ。表層的な捉え方しかできないから、本質が見えなくなるんだよ」
出てきたのは何度も聞いた、ちょっとよくわからない物言いだった。
アエルも口を開こうとして、でも何がおかしいのかを指摘できない。
奥歯を噛みしめるように、トレノの理解に期待する。
「……あのね。仲良しなのは結構なんだけどさ、わざわざ受付でやる? アタシに見せつけたいの? 何しに来たんだか。……そういうとこ、信用されない原因だって気づかない?」
肘を台に乗せたまま、苛立ちに目を細め、手首だけをくいと返してアエルを指す。
受付嬢は、もう取り繕う気すらなさそうだった。
まっすぐに前を向くトレノの顔がひっかかる。
若翠色の髪はまだ馴染みが薄く、「仲良し」と呼ばれるにはどうにも違和感があった。
「そういう風に睨むのは、違うんだよ。アエルも怖がる。僕はそういうのは、見逃さない男なんだ。」
一本の腕がアエルと受付台の間を遮った。
まるで、守られたみたいになっているのがもやっとする。
それに、アエルにはどうしても聞き逃がせないことがあった。
「何言ってるのかわからないけど、べつに怖くなんてないんだぞ」
トレノの肩をぐいと引っ張り、変な勘違いはしないように忠告する。
資格持ちの冒険者になる男として、弱いところなんて見せるわけにはいかなかった。
すると、そっと両腕を掴まれた。
「こういう場面は、感情で動くと損をするんだ。冷静というよりも、俯瞰的に見てる僕が話すのが建設的だよ。君は認められる。そうなるようになってるんだ」
まるでささやくように顔を寄せ、でも誰にでも聞こえるような声量で、トレノは言った。
アエルはその勢いに押され、思わず頷いてしまう。
今度は小さな声で「ありがとう」と笑う顔を見て、慌てて手を引っ張った。
「……べつに、譲ってやってもいいんだけどさ。僕たちはもう一蓮托生なんだからな。変な失敗はするなよな」
流されたことへの言い訳みたいになってしまった。
アエルはもう少しうまくやりたかったと、俯きながら法衣の裾を引っ張る。
すると、「はあ」と受付嬢の大きなため息が聞こえた。
「知らなかったのかもしれないけど、ここって冒険者ギルドなの。冒険者が来る場所で、恋人がいちゃつきに来る場所じゃないんだわ」
受付嬢は頬杖をつきながら、手で追い払うような仕草をする。
「そんなことより……」
トレノは視線を宙に向けながら、むりやり言葉を遮った。
「感情で話すから論点がぼやけてる。事実だけを見ている僕の話を聞くべきだ」
まるで大きな話をするかのように、手を広げて揺らす。
「あなたは制度という仮面を被ってるだけで、本音を晒しているだけじゃないか。ただ、若さを羨んで――」
ゆっくりと正面に向き直る。
「あなたがもし、悔しい思いをしているのだとしても。受け入れよう、婚期が多少遅れていようが、あなたには価値がある。さあ、ここは僕の顔に免じて、手続きの話をしてくれないか」
そして最後は勢いよく、受付嬢に手を差し出した。
パキリ……
何かの音に目を向けると、受付嬢の手から二つに折れた羽ペンがぱらりと落ちる。
「はあ!? 勝手に決めつけないでくれる?」
勢いよく拳が叩きつけられ、受付台に乗っていたものが跳ねた。
――アエルの肩も跳ねた。
「好きでこの歳まで独りだったわけじゃないんだけど? じゃあさ、出会いよこしなさいよ!」
上半身を乗り出して、勢いは止まらない。
「アタシが結婚したくなるくらいの、まともな男、連れてきなさい!」
アエルには、それがどこか悲哀を含む、本気の叫びに見えた。
「悪いけど、僕には見抜けるんだ。そんなに怒るってことは、何かを隠しているんだろ。これは搾取をしているって証拠じゃないのか」
トレノはまったく悪びれることなく話を進める。
「こういうのは自業自得って言うのよ。自分じゃ何もしないで、男にすがってるだけじゃ、そりゃ信用されないでしょ」
なぜか受付嬢はアエルに向かって怒鳴りつける。
「すっげー話こじらせてんじゃん」
アエルは天を仰いだ。
冒険者ギルドの中は、まだ朝の涼しさが残っていた。
「勘違いだよ」
そう答えるトレノの声には、なぜか張りがあった。
「この場って、もっと意味あるものであるべきなんだ。だからこそ、ここは僕が話すんだよ」
円を描くように歩きながら、まるでひとり言のように話を続ける。
具体的なことはまだ何も言っていない……
なのになぜか、アエルは一歩後ろに引いてしまう。
受付嬢も、椅子に腰を戻した。
「正しさって、誰かが決めたものを信じることじゃなくて、自分で選び取ることだと思ってる。アエルを資格持ち冒険者にする。これが、今の目的だろう」
トレノの語る姿には、雰囲気があった。
アエルを見て、受付嬢を見て、いちいち頷きながら、ひとつひとつ、言葉を紡いでいく。
「この制度、誰も疑っていないことが怖いことなんだ。思考停止って、こういうことだよね。僕は気付けるんだ。こういう矛盾って、すぐにわかる」
立ち止まり、目を伏せて、また歩き出す。
なんだか、身体ぜんぶで話していた。
「ギルドの罰則というのは、ギルド内での統率に使われるものだ。つまり、あくまで身内のルール。法的根拠はないんだよ。アエルが資格を手に入れて、冒険者ギルドを抜けることは、確かに冒険者ギルドの制度では違反かもしれないけれど、そもそもここを抜けるアエルには、適用できるはずがないんだ」
音に合わせて動く人差し指に、アエルはいつの間にか、頷きで返す。
理不尽だった。嫌がらせだった。手続きはできるはずで、資格持ちの冒険者にはなれる。
なんだか、そう納得できる気がした。
「もともと、冒険者ギルドに冒険者を束縛できる権利なんてないんだ。これはギルドが得をするために、ギルドが用意した、ギルドのための制度でしかない」
何人かの冒険者が振り向いた。
トレノは自信あり気に手を掲げてみせる。
受付嬢が舌打ちする。
「それをさも正しいとでもいうように、冒険者たちに教え込んでいるのは悪質じゃないか。これは搾取するための構造だ」
まさか、冒険者ギルドとは、そんなに悪いやつらだったのか。
アエルは腕を組んで、思い当たることがないかを考える。
「この過ちは直ちに正されなくてはならないんだ」
トレノの声が響き部屋中の視線を集めた。
「受付嬢さん。なぜあなたは、そんな顔をしていられる。悪事に加担していることに気付いた今でこそ、変わるべきなんだ」
真摯な目をしていた。
汗ばんだ額には、この思いの強さを感じられた。
この言葉は届く。そんな確信めいたものを感じ……
「それ、アタシに言う内容じゃなくない?」
しかし簡単に跳ね返された。
トレノは両手を前に広げたまま動きが止まった。
――アエルのまばたきも止まった。
「あのさ、自己啓発用語ばっかり使って、話してることがうっすい。どうせ誰かの受け売りなんでしょ」
受付嬢の返しには、何かを見抜いているような説得力があった。
「あなたもさ、さすがに男の見る目なさすぎない? これ、絶対詐欺かなにかでしょ。普通、こんなやつの言う事なんて信じなくない?」
眼鏡の内側から鋭い視線を感じる。
若翠色の髪を一度見つめ直し……
それでも胸を張って答えた。
「まさか、僕が騙されるわけないんだぞ」
半歩だけ踏み出す。
それだけで十分だった。
トレノの背中めがけて、手のひらを叩きつける。
ぽふん、と腰に手が当たった。
……ちょっとだけ踏み込みが足りなかったかもしれない。
「恋は盲目って言うけどさ、これはもう重症だね。でもまあ、アタシも三人くらいは失敗してから本番だったし。覚えておきなよ、あと二、三回は転ぶから」
ゆらりと顔を上げ、爪を眺める受付嬢に向き直る。
腕がそのままアエルの肩に回された。
なぜ肩を貸さないといけないのかは、……わからない。
ただ、顔が真剣だったので、そのまま支えてあげた。
「話を逸らすのは、図星だったからなんだよ。……これがただの嫉妬だって、僕は見抜ける男なんだ」
受付嬢は何かを言いかけて、額に手を当てて言いよどむ。
「……なんていうか、それ嫉妬って言う? 嫉妬ってさ、自分より上に使う言葉でしょ」
また話が逸れていた。
口を挟もうとして、言いよどむ。
受付嬢が長い髪を手で梳く姿には、なんだか色気と迫力があった。
「でもまあ、夢と現実の区別がついてない男と、顔だけで生きてる十代の二人組なら……うん、少しは憧れられるかもね。だって、こんな大事故なかなか狙ってできないでしょ」
トレノの顔を確認する。容姿を褒められたにしては、勢いが削がれている。
受付嬢の言いたいことはわからなかったが、もしかしたら、思った以上の皮肉だったのかもしれない。
でも、嘲笑われていたとしても……
アエルには、後ろめたいことなどなにもなかった。
「誰かと一緒に組んで行動するのは普通だろ。一人で活動するのは、誰に頼らなくてもいいくらい成功している人だけなんだぞ」
とはいえ、そんな冒険者でも、一人で野営はできようもないので、やっぱり仲間と組むものだと思う。
たとえ二人だけだったとしても……アエルは一人で行動するなと何度も幼馴染たちに言われてきたのだ。
足の指に力を入れて、しっかりと踏みしめた。
トレノは冒険者ではないのだから、アエルが教える立場なのではないか。
今までの経験が、背中を押してくれている気がした。
「誰かと一緒じゃないと価値ないって言いたいわけ? あんたさ、女の価値を男で測ってる時点で、人生のどこかで誰かに見捨てられるよ。それで泣くのは勝手だけどさ」
受付嬢は饒舌になっていた。
なぜか話が、「女の価値」という、よくわからないものになっていることを疑問に思いながらも、アエルは曖昧に頷いて、やりすごす。
しかし、どうしても聞き捨てならない言葉が混じっていた。
「泣くのは悲しいときだけなんだぞ。あれは――怒ったんだ。僕が見限ってやったんだからな」
幼馴染たちとの家を飛び出したとき、アエルは泣いてなんかいなかった。
あれは、横暴な元仲間たちを見限った、新しい門出だったのだから。
自然と法衣の裾を掴む力も強くなる。
「え、なに。これって、新しい男なの? 流石に……今ばっかり追ってると、痛い目見るって」
受付嬢はあごを使ってトレノを示す。
若翠色の髪が少し揺れる。
トレノとは確かに昨日出会ったばかりだが、信頼するのに時間は関係がない気がした。
アエルのことを褒めてくれ、アエルを資格持ちの冒険者にすると言ったのだ。
「今って、できることやるのが普通だろ。新しい生き方を始めるのは勢いがあるときじゃないと駄目だって聞いたことあるんだぞ。どうせあとになって、後悔したり焦ったりすることになるんだ」
悩む理由なんてないと思えた。
今のまま、仕事もなく、人生を閉ざされて終わるなんて、我慢できなかった。
だから――証明するように、アエルはトレノの手を掴んだ。
「はあ!? 若いうちに勢いで結婚って、それ自慢にならないからな。 人生の選択を焦りで決めるとか、自分に自信ないだけでしょ」
受付嬢の眼鏡が少しずれる。
冒険者ギルドが静まり返った。
驚いていた。
――アエルが。
「すっげー話ずれてるじゃん! 結婚の話なんかしてないんだぞ!」
凍り付いた空気が溶けた。
「くっ……。て、てっきり焦って新しい生き方って、結婚の話かと思っちゃった」
受付嬢は眼鏡を直し、髪を手櫛で整える。
「でもまあ、相手選ばずに遊んでるだけなら、それはそれで……うん、自由ってことでいいんじゃない?」
背筋を伸ばし、ふっと息を吐いてから、アエルに向き直った。
「僕はトレノのことを信じてるんだからな。僕に未来をくれるんだ」
受付嬢と視線が交差する。
わずかに口が引きつり、頬にしわが深く刻まれる。
「そういうの、他所でやってね。信じるとか、好きとかって、燃えてるあいだ限定の話なの」
色が褪せた毛先を撫で、なんだか言葉に熱が宿ってくる。
「実際にはね、燃えた後の灰をどう扱うかってことが大事。覚えておきなさい。好きとか、愛してるとか、そんな言葉だけの男より、ただ淡々と一緒に灰を片付けてくれる人……」
捻るように袖口を触りながら、ゆっくりと目を閉じる。
「アタシはそんな人となら、誰とでも結婚できるわ」
どことなく、深い価値観みたいなものを感じる話だった。
だからこそ、そんな受付嬢の姿を見て、アエルは首を傾げた。
「……結婚って、誰としてもいいものなんだっけ?」
なんとなく浮かんだ疑問をぽつりと呟く。
「いや、違うと思うな。結婚と好きって同じなんだ。つまり、選択という心がそこにあるんだ」
アエルの背中をなでながら、トレノは言った。
それを見て、受付嬢は肩をすくめる。
「好きな人とする? ふふ、笑わせないで」
左手を開いて、回すように見せつけてくる。
「結婚ってさ、感情で突っ走るもんじゃないのよ。結局、いつだって結婚できるし、問題は誰を選ぶかだけ。三十にもなれば見る目くらい育つし、焦って地雷踏むほどバカじゃない。余裕で現役。つまり、選ばれるんじゃなくて、選ぶ側ってこと」
ほっそりとした指だった。
指輪はしておらず、なめらかで白い。
腕も、腰も、身体の動きが自信にあふれているように見えた。
綺麗な人なのだと思った。
だから、アエルには、不思議でならなかったのかもしれない。
「えっ、三十歳ってまだ結婚できるんだっけ?」
あらゆるざわめきが、途絶えた。
「はあ!? 三十で何が悪いのよ! あんたみたいな薄っぺらい価値観で生きてる方が、よっぽど終わってるわ!」
受付嬢の声だった。
それに気づいたのは、アエルが肩をすくませて手で頭を覆った後だった。
重く響くその声は、まるでクジラの鳴き声のようだった。
「いや、僕のお母さん二十で結婚してたし、もうちょっと早めに動いた方がいいのかなって、思っただけなんだぞ」
足が勝手に後ずさる。
なんとか言いなだめようとした言葉だったが、受付嬢の顔が別人のように変わった。
「アタシの問題じゃないんですけど? 結婚できるかどうかじゃなくて、ふさわしい相手がいないんだよ! 誰か私に結婚相手連れてきてくれよ! 稼ぎは月に銀貨二百枚以上だからな!」
鼻穴は開き、白目が赤く染まり、首は筋が張って一回り太くなっている。
太陽に蒸された石造りの建物は、徐々に温度が上がっていた。
アエルは震える膝に力を入れる。
親指を隠して握りこむ。
そして、正面に向き直った。
「なんだよ。ちょっと間違えたくらいでそんなに怒鳴らなくてもいいじゃん」
受付嬢の目つきで、本物の敵意というものがどんなものか知った気がした。
「と、とにかく、なんで結婚の話になったか知らないけど……」
頭を振って怖気を払う。
そしてもう一度、わななくように震える受付嬢を見た。
「僕は資格持ちの冒険者になるんだからな!」
トレノの手が、握った右手を包み込み、降ろされる。
閉じられた指をこすりながら、力を抜くようにと伝えてきた。
「アエル。もう行こう。判断が早い人であれば気づくんだけど。新しい発見って冒険者ギルドにはないって感じたんだ」
あまりにもしつこく撫でられるので、アエルは手を振り払った。
「いいのかよ? 冒険者ギルドに来なきゃいけないって言われてたんだぞ」
――バンッ!
白くてしなやかな腕が、受付台に振り下ろされていた。
「いいわけないでしょ。あんた、ここ所属の冒険者なの。勝手なことして許されるわけないんだから」
受付嬢は明確に、アエルに向かって声を張り上げていた。
「これはただの僻みなんだ。聞く必要はない」
そう言って、トレノがあごで出口を示した。
アエルは後ろ髪を引かれるように振り返る。
「あんたたち、こいつら取り押さえて。今すぐ!」
受付嬢は眉間に深いしわを寄せながら指を差す。
待機室にいた冒険者が立ち上がり、取り囲むように立ちふさがる。
「どういうつもりなんだよ!」
アエルの声に、受付嬢は口角を歪めた。
コツ……コツ……と、背後からにじり寄る音がする。
「どうもこうもないわよ。ここまで喧嘩売っといて、タダで帰れると思ってんの?」
トレノと肩がぶつかった。
逃げ回ることは、できないのかもしれない。
アエルは桜色の髪を振り払い、足を少しだけ開く。
ふわりと法衣が空気をはらむ。
「暴力で訴えられようとも、僕が冷静でいられるのは、アエル。君がいるからだ。何か思うことがあるなら、僕はその判断を全力で支持する」
……支持するって。何もしない気かよ。
トレノは大仰な物言いのわりに、少し声が震えていた。
「物騒にしたいなら勝手だけど、こっちはちゃんと話を通してもらうから。逃げられると思わないでね」
冒険者たちは、飛び掛かってはこなかった。
アエルは視線を受付嬢に戻す。
「話って、誰とだよ」
眼鏡の奥の瞳が、もったいぶるように細められる。
強く吹いた海風の音が、低くうなり声のように鳴った。
「ギルドの責任者よ。ヴォルフガング・ロキタ。まさか知らないなんて言わないでしょ?」
誰かがごくりと唾を飲む。
受付嬢は背筋を伸ばし、名前の重さをひけらかすように構えている。
「ヴォルフガングって、あいつかよ」
アエルが思い出すのは、銀髪の男。
ただそこに居るだけで、何かを起こす、圧倒的な人物だった。
「ええ。アエル・ホーミス。彼も、あなたに直接会いたがってるみたいね」
――受付嬢の背後で、木製のドアが軋みをあげる。
ギィ……
扉のふちから、太陽の光が石張りの床を這うように伸びてきた。
アエル「なんだよ。ちょっと間違えたくらいで、ブクマと評価を消さなくてもいいじゃん」