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老夫は今日も船を出す

作者: イヌネコ




 海が見えるその町に、以前の面影は殆どない。昔は小さな漁師町だったが、今は平凡な町になった。近代化の波に飲まれたのだ。代々の漁師たちは多くが土地を売り、近くの町へと引っ越した。そうして幾つかのビルや商業施設が現れた。新しい家が増え、余所からの移住者が増えた。結果、町の人口も増えた。果てにはリゾート開発が進み、都会から癒しを求める大勢の人々が短期的に訪れるようにもなっていた。昔ながらの風情はなくなり、ありふれた町になっていた。


 未だ細々と漁を続ける者はいるが、その数はごく僅か。捕った魚は自分の家で食べるためであったり、近所に配るためであったり。商業施設やリゾートホテルでは海鮮料理が提供されているものの、仕入れは少し離れた漁港や市場から行われている。


 そんな町に、随分と古びた家がある。海の程近くにある小さな一軒家。周囲に家はなく、ぽつんと佇む寂しげな家屋。そこには老夫が一人で暮らしている。彼も代々の漁師だ。歳のせいもあり、随分と腰が曲がっていて、目も膝も悪くしている。それでも毎日船を出している。雨が降ろうとも、風が吹こうとも、嵐が訪れようとも、必ず船を出している。


 昔はこの辺りも何軒かの家が建ち並んでいたが、皆が引っ越した。そうして、ただ一軒を残して更地にされた。しかしここは地盤が緩く、ビルを建てることはできない。よって公園が整備された。海風が届く公園には多くの人々が集う。その大半の顔は若々しい。彼ら彼女らは歪な形の公園に首を傾げ、古びた一軒家に訝しげな視線を送る。真新しい公園に囲まれるようにして建つ、年季の入った家。なんだか不思議な光景だ。しかし老夫は気にしない。この家は、この土地は、誰にも譲れない。


 そんな悪目立ちする自宅から出てきた老夫はクーラーボックスを肩から提げ、右手には一本の釣り竿という格好で砂浜へと向かう。浜に停留している手漕ぎの船に手持ちの道具を載せ、船を押す。膝も腰も痛むが精一杯に押す。程なくして船が海面に浮かぶと老夫は船に乗った。やはり膝に痛みが走ったが、そんなことは気にしていられない。暫く漕ぎ進め、沖まで出る。そこで釣り竿を垂らして獲物が食いつくのを待った。魚は何匹か釣れたが目当ての魚は掛からない。目当て以外は必要ない。だから色々な魚を海に帰した。


 二時間ばかりが経っただろうか。漸く強い当たりが竿を引く。どうやら待ち侘びた獲物が掛かったらしい。しかし無理には釣り上げない。若い頃なら、すぐに確保しただろう。しかし今となっては、そんな筋力はない。魚の体力を奪うため、リールを幾らか巻いては泳がせる。そんなことを繰り返し、やっとの想いで釣り上げる。海面に現れたのは、なんとも立派な鯛だった。


 クーラーボックスから包丁を取り出し、船上で素早く活け締めにする。そうして氷の詰まったクーラーボックスに鯛と包丁を仕舞う。直後には船を漕ぎ、急いで砂浜へと向かう。家に戻ると台所へ。


 慣れた手つきで鯛を捌き始める。とにかく鮮度を落とすわけにはいかない。鱗を落とし、三枚おろし。皮を削ぎ取り、身を薄く切り出していく。鯛の刺身は厚く切ると食べにくい。鮮度が良いなら尚更だ。そうして七切れの刺身を洒落た柄の丸皿に盛り付ける。いつものとおり、なんとも旨そうな見栄えに仕上がった。


 その皿を居間へと運び、仏壇に供えた。正座をして、手を合わせる。膝が痛む中、万感の想いを巡らせる。歳のせいで随分と曲がった腰を、このときばかりはできる限り伸ばす。しょぼくれた姿は見せたくない。




『毎日、新鮮な鯛を食べさせてやる』




 それが妻へのプロポーズだった。




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