6 とりあえず、お茶にしましょう
マシュー・ボールド。
あの小説で、エリザベスが12歳の時に婚約する隣の領地の伯爵令息。
柔らかそうなゆるい金髪の巻き毛で、少しタレ目のヘーゼルブラウンの瞳が優しそうな印象の少年。
確か同い年だったはずだから、彼も今は12歳。
キャサリンから「自分大好きバカ息子」と呼ばれているが、一体何があったというのか。
「お姉さまがいなくなったから、私があのバカと婚約することになったの。で、顔合わせしたんだけど。あいつ、私の顔を見るなり、『違う! 僕が婚約するのは、こんなカラスみたいな子じゃない!』って言ったの! 全く、ボールド伯爵もちゃんと説明しとけよ!」
キャサリンが眉間に皺を寄せながら言った。
どうやらマシューは、バートン子爵令嬢と婚約できると聞いていそいそとやってきたらしい。
ところが、よく似てるがちょっと思ってたのと色味が違う令嬢だったため、思わず叫んでしまったらしい。
まだ子供とはいえ、もう12歳なんだから、初対面の相手にはもう少しふさわしい態度があっただろうに。
「あいつ、お姉さまに会ったことがあるらしいの。一目惚れしたって言ってた」
「えっ、嘘」
「7年前に、ボールド家のお茶会で会ったんだって。『天使が現れたと思った』って言ってた」
過去の記憶を辿ってみる。
7年前といえば、まだお母さまが元気だった頃で、隣の領地のボールド家とはお互いの家を訪問しあって交流を深めていた。
その後、お母さまが亡くなり、ボールド家も伯爵夫妻が馬車の事故で亡くなったりと不幸が続いたため、疎遠になってしまったが。
そういえば、昔、マシューに会ったことがあるような。
はっきりと思い出せないけど、庭で一緒に遊んだ記憶がうっすらとある。
「で、あのバカ、『天使と婚約できると思ったのに! お前みたいな黒髪黒目の悪魔みたいなやつと婚約だなんて、まっぴらごめんだ!』って言ってきたのよ。もちろん、『こっちこそ、お前みたいなバカと婚約なんてお断りだ!』って言い返してやったけどね」
キャサリンが、右手の拳をぐっと握りしめながら言う。
「そもそも、私は12歳のショタなんて好みじゃないから。私はイケオジの方がずっとずっと好き。……そういえば、さっきのあの家令のマーカスさん、すっごく素敵だったな。お姉さま、マーカスさんて独身?」
「え? どうだったかな、マリー知ってる?」
「は、はい、マーカスさんは独身だったと思います」
「やった!」
「え、そうなんだ、マーカスって独身だったんだ……って今はそんなことどうでもいいでしょう。キャサリン、そのあとどうなったの?」
「婚約する当人同士が険悪なムードになったから、一旦仕切り直そうってことになって、その日はすぐに解散。バカ息子は兄のボールド伯爵と帰って行ったわ。『僕は絶対にエリザベスと婚約するんだ!』って言いながら。それを見たうちの母親がね、ちょっとキレちゃって」
怖い怖い怖い。非常に嫌な予感がする。
「うちの母親、娘の私が言うのもなんだけど、相当ヤバいから。さっき、うちの母親がお父さまに私を引き取るように頼んだって話をしたけど、実際はちょっと違うのよ」
「えっ、どういうこと?」
「うちの母親はね、『私は娘と絶対に離れない。私もバートン子爵家に連れていけ。後妻にしろ』って、それはそれはしつこく迫ったの」
キャサリンは、ため息をつきながら言った。
「お父さまは、私のために仕方なくうちの母親を後妻として受け入れたんだけど。本当にマーガレット夫人を愛していたのね。まあ、指一本触れようとしないし、お世辞にも仲の良い夫婦とは言えない状況なのよ。当然と言えば当然のことなんだけど。そんな時に、自分と同じ黒髪黒目の娘が、その色のせいで婚約を断られたと聞いたもんだから……なんだか妙にこだわっちゃって。『何よ! 銀髪青目がそんなに良いの!? 許せない! エリザベスなんて……!』って」
私とキャサリンは、色以外は本当にそっくりなのだ。顔の作りも、髪の長さも、体型も。
なので、ドロシーからしたら、マシューがキャサリンを拒絶した理由は「身に持つ色だけ」ということになる。
私は母親と同じ銀髪に青い目。
キャサリンは、ドロシーと同じ黒髪に黒い瞳。
ドロシーは、自分と同じ黒髪で黒い瞳の娘が拒絶されることがどうにも我慢できなかったらしい。
「このままだと、お姉さまに何か嫌がらせをしそうな勢いなのよ……私、絶対に阻止しないとって思って。だから、手紙を書いたのに……お姉さまったら無視するんだもの!」
「ご、ごめん!」
ちなみに、気になったので聞いてみたところ、私が読まずに捨てた手紙もあいうえお作文で、文頭はおねがい、とへんじくれ、だったそうだ。
「はあ!? 読まずに捨てた!? やぎさんゆうびんか!?」
キャサリンは怒って、どんな文章だったか教えてくれなかった。気になる。
「これからも、何かあったら日本語で手紙を書くことにするわね。お姉さまも返事は日本語でお願い。万が一誰かに中身を見られてもいいようにしないとね」
「わかった。でも、もうあいうえお作文はやめてね」
「えっ」
「なんでそんなにあいうえお作文が好きなの!?」
キャサリンはなんだか残念そうにしていたが、応接室の壁の時計を見てはっとしたように言った。
「もうこんな時間!? そろそろ帰らなきゃ。夕食までに戻るって言って出てきたから」
「ええっ!? バートン子爵領って、ここから馬車で2日はかかるわよね?」
「馬車だとね。でも、馬だと数時間で来れるのよ」
「どういうこと?」
バートン子爵領とフォークナー伯爵領の間には大きな山がある。
馬車が通れるだけの幅がある道を通るなるとかなり迂回することになり、どうしても馬車で二日はかかってしまう。
だが、狭い山道を通っての馬での移動なら、飛ばせば半日かからずに着くのだそうだ。
12歳の令嬢が、馬で!?
さすがドロシーの娘。母親譲りの行動力!
「使用人のエリオットに連れてきてもらったの」
聞けば、エリオットというアシュトン男爵家から連れてきた使用人に、馬に乗せてもらって来たのだという。
「エリオットはね、とっても優しいの。私のお願いはなんでも聞いてくれるのよ」
見送りついでにそのエリオットとやらの顔を見ておこうと、マリーと三人で門の外に出てみると――毛並みの美しい馬の横に、とんでもない美貌の男性が立っていた。
短く刈られた緋色の髪に、青みがかった灰色の瞳。ほどよく日焼けした肌。
背が高く、騎士であると言われても納得できる筋肉のついた体だが、粗野ではなく落ち着きのある優雅な身のこなし。
年齢は20代後半といったところだろうか。
(この人がただの使用人であるはずがない!!)
思わず、横にいるマリーの方を見ると、顔を赤らめ、キラキラした目でエリオットを見ている。
「お待たせ、エリオット」
「姉君とはお話できましたか?」
「うん、ちゃんと話せたから大丈夫。待たせてごめんね。そろそろ帰りましょう」
「承知しました」
エリオットは、私とマリーに深くお辞儀をすると、魅惑の低音ボイスで言った。
「お初にお目にかかります。エリオットと申します。バートン子爵家にて、お嬢様の側仕えをしております。以後お見知りおきを」
「私はエリザベス、こちらはメイドのマリーです。よろしくね。これからこの馬に乗って帰るのね。くれぐれも気をつけてね」
「かしこまりました。大事な大事なキャサリン様を、責任を持って連れ帰ることをお約束いたします」
「ふふっ、エリオットがいれば安心だから、心配しないで、お姉さま」
「本当は、愛しいキャサリン様と二人、このままどこかへ逃げてしまっても良いのですが……」
そう言いながらキャサリンを見つめるエリオットの顔は、冗談を言っているようには見えなかった。
思わず、マリーの方を見る。
マリーは光を失った目でふるふると首を振っていた。
(この人、ヤバい! こんなのがモブキャラなはずがない!)
動揺する私とマリーの横で、エリオットはキャサリンを大事そうに抱えてからいったん頬ずりし、馬の背に乗せ、自分もひらりと跨った。
(ん? 今、なんか余計な動作が入ったような……)
「お姉さま、またね!」
そう言って手を振るキャサリンとエリオットはあっという間に見えなくなった。
「マリー……」
「はい、お嬢様」
「あのエリオットって人、絶対ヤバいよね? へんた、」
「はい、最後まで言わなくてもわかります。絶対そうだと思います」
「声は最高に素敵だったのに。残念ね」
「お嬢様……その感想もどうかと思います」
嵐のようにやってきて嵐のように去って行ったキャサリン。
彼女から聞いたのは、私の平和な毎日を足元から揺るがすような不穏な話だった。
考えなければいけない問題が目の前に山積みになっているが、今はもう、情報過多でキャパオーバーだ。
「マリー、戻ったら蜂蜜茶を淹れ直して」
「はい、お嬢様。レモンもお付けしますか?」
「お願い」
とりあえず、マリーの美味しいお茶を飲むことにしよう。
難しいことを考えるのは、その後でいい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。