52 忘れていました
目が覚めると、保健室のベッドの上だった。
養護教諭の話では、私はあの騒ぎの後でショックのため倒れたらしい。
今にも倒れそうなくらい青褪めた顔色のリチャードは、ベッドの横に座り、私の手を握って離そうとしない。
よほど心配をかけてしまったようだ。
狭い部屋の中には、守り隊の皆とクラウス様、それから何故か王太子殿下がいた。
「カーゾという実があります。病後の元気の無い時などに好んで食べられるもので、体を温め血行を良くし、鉄分が豊富で貧血も改善します。気分の落ち込みや憂鬱さを和らげる効果もあるので、『忘憂果』とも呼ばれています」
ビアンカ様が、突然語り出した。
その口調はとても静かで独白のようだった。
「サソーニの花は、不眠の治療によく用いられます。特に、夜間に目が冴えて眠れない、夢見が多く眠りが浅いと言った症状に適しています。また、めまいや動悸にも効くとされています。心を落ち着ける作用があるため、心を養う花、『心養花』と呼ばれることもあります」
――ビアンカ様は何故、急にこんな話を始めたのだろう。
「それ以外にも、不眠や気鬱に効くとされる様々な生薬を、一定の比率で混ぜた薬があります。
その薬は、気分の落ち込みや憂鬱感を解消すると同時に、多幸感をもたらします。依存性があるため、長期に服用すると休薬が困難になります」
――ビアンカ様は何を言っているのだろう。
「短期の服用であれば、眠気や倦怠感、物忘れが激しいといった軽度の副作用で済みますが。大量に服用したり、長期間服用した場合は、思考力の著しい低下が見られるようになります」
――眠気? 物忘れが激しい? 倦怠感? それって、まさか……
「アルドラの後宮で、昔からよく使われていた薬です。後宮での呼び名は『忘却の蜜』だとか。辛い日々を乗り切るために使われ始めた薬ですが、今では追い落としたい相手の思考力を奪うために使われることが多いとか」
――忘却の蜜? アルドラの後宮?
「エリザベス様があの給仕に渡されたグラスの中の水には、少量ですがこの『忘却の蜜』が入っていました。『忘却の蜜』は無味で、気を付けていないとわからないくらい微かにですが、桃のような香りがします。そして、レモンや酢などを入れると色が赤く変化します」
――グラスの中に、その薬が? どうして?
「最近、エリザベス様が物忘れが激しいと仰っていたことと、先程の給仕の様子が少し変だったことから、レモンで確かめてみたのですが。やはり、『忘却の蜜』が入れられていたようです」
「先程の侍女の身元はまだわからないが、至急取り調べているので、すぐにわかるだろう。逃げられずに済んで良かった。協力感謝する」
王太子殿下がアメリア様とリチャードに頭を下げると、二人は会釈で返した。
「実は、ハイジのことで、一番恐れていたのはこのことだったのだ。『忘却の蜜』を使われ、思考力を低下させ、危機感を薄れさせた後、隙をついて攫われる。だが、まさか、エリザベス嬢が狙われるとは」
――私が狙われた? どうして、ハイジ様ではなく、私が?
「エリザベス様、安心して下さいませ。エリザベス様はまだ中毒症状が出ておりません。おそらく、使われていた薬の量が少量でなおかつ短期間であったためでしょう。宮廷医である父が調合した解毒薬を飲んで頂ければ、三日ほどで体内から完全に薬が抜けていくことでしょう」
――解毒薬? 私が飲むの? 三日も?
突然、難しいことを次から次へと言われても、何がなんだか理解できない。
でも、わからないことは考えても仕方がない。
もう、これ以上何も考えたくない。
早く家に帰って眠りたい。
ひどく疲れてしまって、私は再び目を閉じ横になった。
傍らでリチャードが何か言っているが、その声すら遠ざかって行くようだ。
――お願いだから、もう少し寝かせて欲しい
その後のことは、もう何も覚えていない。
※※※
『リズに春の女神の恵みがありますように』
すっかり細くなった母の腕が、私の髪を優しく撫でる。
『リズはお父様に似て本当に美しいわね。きっと国で一番の美人になるわよ』
微笑みながらそう言う母の瞳は、目の前の私ではなく、どこか遠くを見つめているようだった。
『そして、国で一番、いいえ、この世界で一番幸せな女の子になるわ』
か細い声。
だが、絶対にそうなるのだと確信を持って発せられた力強い言葉。
『その時、そばにいてあげられなくてごめんなさいね』
そう言った母は、どれほどの無念さを胸に抱いていたことか。
『お母さま! 嫌だ! お母さま!』
葬儀の日。
棺に縋り付き、声のかぎりに母を呼んだ。
泣いて泣いて、声が枯れて、どうしたら母が帰って来るんだろうとぼんやりした頭で考え、それがどうあっても叶わないことを思い知ってまた泣く。
そんな日々を繰り返した。
周りの人間から、このままだと私までもが倒れてしまうのではと心配されるくらいに泣き続けたあと、私は突然、泣くのを止めた。
止めたのは泣くことだけではない。
私は泣くことも笑うこともせず、全ての感情を失ったように、ただ淡々と日々を過ごすようになった。
そして、母の死から三か月後。
私は突然、前世の記憶を思い出した。
それからは、失った感情を取り戻し、4年以上経った今では毎日を楽しく暮らしている。
『リズに春の女神の恵みがありますように』
そう祈る母の穏やかな声と、おでこに落とされた口づけ、抱きしめてくれた暖かい腕。
その全てを、思い出した。
どうして忘れていたのだろう。
あの、穏やかで幸せに満ちた母との日々を。
ああ、でも、もしかしたら。
それは、母が私にくれた、『春の女神の恵み』だったのかもしれない。
辛いことを忘れて、前を向けるように。
泣き続けて心を壊した娘が、再び笑顔になるように。
母の願いを春の女神が聞き届けてくれたのかもしれない。
そして、前世の記憶を取り戻した私は今、こうして幸せに暮らせるようになった。
『そして、国で一番、いいえ、この世界で一番幸せな女の子になるわ』
そうだといいな、と思った。
そして、そうありたい、と思った。
※※※
三日後。
ビアンカ様の父、宮廷医トール子爵が調合した解毒薬のおかげで、私はすっかり回復した。
もうだるさも、ひどい眠気もない。
頭の中にあった靄のようなものが消え、思考がクリアになってきた。
ここ最近の物忘れの激しさは『忘却の蜜』という薬のせいだったらしい。
8歳までの記憶がぼんやりとしていたのはその薬のせいではないのだが、不思議なことに、前世の記憶を思い出すまでの日々をはっきりと思い出せるようになった。
解毒薬がなんらかの影響を及ぼしたのだろうか。
亡くなった母との思い出が鮮明に蘇ってきたのだ。
だが、それと同時に、前世の自分についての記憶がかなり失われていた。
自分のこと以外の、日本という国のことや、身に付いた一般的な知識などはしっかり覚えている。
社会人だった時の常識や、学力は失われていないと思う。
好きだったものや苦手なものもちゃんと覚えている。
だが、自分の名前や、家族構成というような個人情報を思いだそうとすると、何故だか頭がぼんやりとしてくるのだ。
でも、もう、それでもいいと思っている。
私はもう、ここで生きているのだから。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。このイチゴ、すごく美味しいから、リチャードも食べてみて!」
リチャードは私が休んでいる間、守り隊の皆が交代でとってくれたノートを持って、毎日お見舞いに来てくれた。
ブルック先生は相変わらずツンデレ全開で、休んでいる間の授業でわからないことがあった場合、各教科の教師から補習を受けられるように手配してくれているそうだ。
キャサリンとエリオットからは、毎日のようにイチゴが籠いっぱいに届く。
そして、ギルバート殿下からは、ものすごく美しい筆跡で書かれたあいうえお作文が毎日届く。
これについては返事に困るのでぜひとも止めて頂きたい。




