137 国立美術館 ③
「リチャード、さっきはありがとう。話を合わせてくれて助かったわ。おかげで聖女なんて面倒なものを引き受けずに済んだわ」
玄関ホールを出て隣の展示室に向かう途中、私はリチャードに小声でお礼を言った。
「危なかったです。あのままだとすぐにでも神殿に連れて行かれるところでしたからね」
確かにそうだ。
あの神官の勢いだと、問答無用で神殿に連行されそうだ。危なかった。
「あの神官……ジョシュア・グリーンと名乗ってましたが……」
「ええ、そう言ってたわね」
「嫌な予感がします」
「えっ?」
「物凄く嫌な予感がします」
「ど、どうしたのリチャード?」
リチャードの顔が怖い。というか目がヤバい。
「あの神官のお嬢様を見る目。あれはお嬢様に一目惚れしたに違いありません」
「は?」
(私に一目惚れ? あのカッコいい神官が?)
「いやいやいや、まさかそんな」
「いや、俺にはわかります。あれは、恋する男の目です」
「恋する男の目? そんなの見てわかるものなの?」
「わかりますよ。何しろ、俺は毎日見てますからね」
そう言うと、リチャードは急に近づいてきて、私の耳元に顔を寄せて囁いた。
「鏡に映る、自分の顔を」
「…………っ!」
(うわあ、リチャード……! 相変わらずなんて良い声なの! ああ、耳が幸せ……!)
いけない。相変わらずのイケボに思わずうっとりしてしまった。
最近のリチャードは声変わりも完全に終了し、どんどん落ち着いた青年の声に変わりつつあるのだが。
これがまた本当に素晴らしいのだ!
普段の会話では、聞き取りやすく心地良い透明感のある声。
小声で囁くように話すときは、ちょっと艶っぽい大人の魅力を仄かに感じさせる低音。
無邪気に笑いながら話すときは、年相応の元気で明るいハイトーン。
私は毎日ご褒美を貰いっぱなしの状態。
いやもう、本当にありがとうございますって感じだ。
耳を押さえてふるふるしていると、リチャードが満足そうに笑った。
何でそんなに「上手いこと言ったぞ!」みたいな得意げな顔してるんだろう。
「もう、リチャードったら! 不意打ちは反則っていつも言ってるのに! ……っていうか、何て言ったの? 声が良すぎて何言ってるか全然頭に入って来なかったわ。もう一回言って?」
(今度は不意打ちでなく、じっくりとイケボを堪能しよう。さあ、リチャード! 今こそ、その素敵な声を聴かせるのだ!)
わくわくしながらリチャードを見る。
だが、リチャードはがっかりしたような顔をして大きくため息をついた。
「聞こえてなかったんですね……」
「え? ちゃんと聞こえてたわよ? 何て言ったのかがわからなかっただけ」
「それでは聞こえてないのと同じです。……はあ、もういいです。展示室に入りましょう」
まずい。リチャードが突然、不機嫌になってしまった。
「勇気出して頑張って言ってみたのに……」ってブツブツ文句を言っている。
いやほんと、何て言ったのか知りたい。
でもリチャードは黙り込んでしまって教えてくれそうにない。
さて、どうしようかと腕を組み、足元の床に目をやると――
「お! 見て見てリチャード! これって、むぐっ」
「はい、ストップ! お嬢様、それ以上はダメです!」
足元に再び化石を見つけた私は、思わず大きな声を出してしまい、リチャードに慌てて口を塞がれた。
そこには、玄関ホールで見つけた『ユニコーンの角』よりさらに大きな巻貝の化石があった。
しかも、周りには謎の魚の骨の化石まであったのだ。
「まったくもう! いい加減にして下さいよ!」
「だって……化石って、見つけると嬉しくてハイテンションになっちゃわない?」
「なりません。いいですか、今後また化石を見つけたとしても、絶対に声を上げないで下さいよ!」
「うー、じゃあ、声を出す代わりに、ジャンプするのはどう? こんな風に」
私は、喜びを表すために、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて見せた。
するとリチャードは、片手で顔を覆いながらブツブツと何かを呟き始めた。
「なんだよもう……可愛いがすぎるだろう……」
「あらまあ、二人とも何しているの?」
さっきまで姿が見えなかったマーガレットがいつの間にか隣にやってきた。
チケットを買って玄関ホールに入るまでは一緒だったマーガレット。
一体どこにいたのだろうか。
「どこに行ってたの?」
「ああ、知り合いがいたので挨拶していたの。彼と二人でデートに来てるって言ってたわ」
「わあ、素敵ね! 美術館デートかあ」
「あら? リチャード様、顔が赤いですよ? 何かあったんですか?」
「…………何でもないです。気にしないで下さい」
こんな公共の場でぴょんぴょん跳ねるなんて子供っぽすぎたのだろうか。
リチャードは、一緒にいて恥ずかしかったのかもしれない。
こんなに顔を赤くして怒るなんて。これからは気を付けよう。
その後、三人で次の展示室の中に入ることにした。
玄関ホールを出てすぐの場所には、大きな廊下が広がっている。
その廊下に面して三つの部屋があるのだが、私達は一番左側の部屋から順に見ていくことにした。
美しい金色の文字で『神話の間』と書かれた黒のプレートが、入口の扉の上に厳かに掲げられている。
どうやらこの展示室は、『神話の間』という名前の部屋らしい。
開け放たれた扉から部屋の中へと進んでいく。
美しい翼を持つ森の女神
子供の姿の無邪気な妖精
翼を広げて空を飛ぶ竜
美しい大理石の彫刻が、広い部屋の中にいくつも置かれている。
どうやらここは、彫刻を展示する部屋のようだ。
そして、それらは全て『フォートラン建国紀』が由来になっているらしい。
彫刻の台座に、その彫刻の名前や由来が書かれたパネルのような物が貼ってあった。
(わあ……なんて綺麗なんだろう……)
部屋の中央の一番目立つところに、一人の美しい女性の像があった。
台座には『精霊の愛し子にして偉大なる大魔法使い エレイン・ルルーシュ・グレイス』と刻まれている。
これはあれだ。『フォートラン建国記』に出てくる、大魔法使いの名前だ。
大理石で彫られたその肌は、冷たい石で作られているのが信じられないほどの生命力が感じられた。
一本一本の髪が丁寧に彫り込まれており、光を浴びる角度で柔らかな陰影が生まれる。
それはまるで、実際に風に靡いているかのようだった。
右手で杖を持ち、目の前の誰かに向かって優しい顔で微笑みかけるその大魔法使いは、今にも口を開きそうな気配が感じられる。
あまりの迫力に目が釘付けになり、しばらくその場で見入っていると、いつの間に隣に立ったリチャードが呟いた。
「美しいですね」
「ええ、とても」
まだ全ての作品を見たわけではないが、この彫像より心を動かされるものは、ここには無いかもしれない。
そもそも国立美術館に来たのは夏季休暇の宿題のためだ。
美術のレイン先生の課題は、『王都の国立美術館に行き、一番好きだと思う作品を選び、それについての感想を書くこと』だった。
感想は簡単で良いと言われてはいるが、この像の美しさを称える文章は、とても長くなってしまうに違いない。
とりあえず、一番好きだと思う作品候補暫定一位の大魔法使い像を後にして、私たち三人は次の展示室に向かうことにした。