128 鏡よ鏡
★今回は、アルドラ王国第二王妃、ルクレツィアのお話です。
「鏡よ鏡。この世で一番美しいのは誰?」
鏡に向かってそう問いかけるルクレツィア。
その姿は息を飲むほどに美しい。
「ルクレツィア様、申し訳ございません。ミーアは本日、御前に出られる状態ではなく……」
「そう。リリカの葉は期待外れだったようね。ミーアにはしばらく休暇を取らせましょう」
「はい。では、そのように致します」
侍女のダニエラがしずしずと去って行く。
ダニエラもまた美しい。
だが、ルクレツィアには遠く及ばない。
(リリカの葉の搾り汁は、肌を真珠のように輝かせるという話だったけれど……)
どうやらそれは真実ではないようだ。
数日前にその搾り汁が入った化粧水を与えられたメイドのミーアの顔面は、今頃大変なことになっているに違いない。
ルクレツィアの美しさを確かなものにるすために。
いや、今以上に輝かせるためにと言ったほうが適当だろうか。
そのために、ありとあらゆる物が集められ、側仕えのメイド達によって試されている。
グリラの葉を蒸したものは、お湯で煮出すとしみやそばかすを作らせない美味しいお茶になる。
蜂蜜入りのネムルの粉を爪に塗って磨くと、透き通った桜貝のようになる。
アルディーニ島の火山の石でかかとを擦ると、生まれたばかりの赤ん坊のように柔らかくなる。
後宮の女たちは常に噂の網を張り巡らせている。
その蜘蛛の巣のような網に引っかかった噂話を、自分が仕える美しい妃の耳に届けるために。
リリカの葉の搾り汁の話は、そんな噂の中の一つだった。
多くの噂の中には、時々はずれが混ざっている。
今回、はずれを引いたのは、最近後宮に入ってきたメイドのミーアだった。
ミーアは男爵家の三女だ。
後宮に仕える侍女たちのほとんどは、下位貴族の令嬢だった。
彼女たちが後宮の侍女になる目的は、少しでも良い家に嫁ぐため。
あるいは、後宮で力を付けのし上がり、親兄弟に頼らずに自分の力で生きていくためだった。
ルクレツィアの侍女ダニエラもそうだ。
ダニエラは子爵家の長女だったが、継母と義妹に虐げられ、義妹に生まれたときから決まっていた婚約者を寝取られてしまった。
年老いた侯爵の後妻として厄介払いされそうになっているところを、学院で同級生だった親友のルクレツィアに助けられ、一緒に後宮にやってきたのだ。
あの時のことを思い出すと、ルクレツィアは今でもはらわたが煮えくり返るようだ。
だがダニエラはそんなルクレツィアに微笑みながら言う。
「私のような者のために、ルクレツィア様がお心を動かす必要はございません。怒りはお肌によろしくないようですのでどうかもうお忘れください」
「ダニエラ……」
「ルクレツィア様には、いつでも笑顔でいて頂きたいのです」
ダニエラの、ルクレツィアに対する忠誠心は、しばしば常軌を逸していた。
ルクレツィアはダニエラが自分を思うその気持ちに、時々身震いすることになった。
だが、止めて欲しいとは言えなかった。
ルクレツィアは美しくなければならないからだ。
ルクレツィアのために。
ダニエラは日々届けられる新しい美容法を、側仕えのメイド達で試している。
絶対に安全だとわかるまで、ルクレツィアにそれをさせるわけにはいかない。
多くのメイド達で試し、最後にダニエラがやってみせ、効果を感じられた美容法だけが、ルクレツィアに施されることとなる。
そんなわけで、今日も今日とて、ルクレツィアは美しい。
膝まで届く豊かな金髪は、指を這わせたくなるような微かな巻き毛。
角度によって色が変わるハシバミ色の瞳。
瑞々しい果物のような唇から覗いている真珠のように輝く白い歯。
美しく盛り上がった胸に、ほっそりとした首。
どこを見ても、ルクレツィアは美しい。
人ならざる者のような、神々しいまでの美しさだ。
ダニエラに命じられて、噂が真実かどうか身をもって試す者の中には、はずれを引く者がいる。
ルクレツィアは「しばらく休暇をとらせる」と言うが、実際には、それはしばらくではなく、永遠の休暇となるのだった。
ダニエラは縁起を担ぐ方で、一度はずれを引いたメイド達には、二度とルクレツィアと会わせないようにした。
だからといって、彼女たちが損ばかりしているわけではない。
彼女たちが一生かかっても稼げないような金額が、『お見舞い』という名目で渡された。
そして、ルクレツィアの責任において、素晴らしい伴侶との結婚も約束される。
すっかり元に戻ればいいのだが、中には一生跡が残るような者もいる。
その場合、結婚は難しくなるだろう。
だから、この配慮はとても頼もしいものだった。
でも、本当は。
ルクレツィアは、もうこんなこと止めて欲しかった。
自分のために誰かが犠牲になることが辛かった。
ダニエラが、自分のために、誰かにそんな酷いことを強いているのが耐えられなかった。
でも、仕方が無いのだ。
ルクレツィアは美しくなければならないのだから。
ルクレツィアは、今はアルドラ王の第二王妃と言う立場だが、いずれ第一王子の妃となることが約束されている。
とは言え、それは口約束でしかない。
アルドラ王国第一王子のフェルディナンド。
物事を深く考え慎重に行動する、やや内向的な性格。その落ち着いた佇まいから、『月』に例えられることが多い美しい青年。
ルクレツィアは、アルドラ王との白い結婚から解放された後、彼の妃となる予定だった。
ルクレツィアの実家であるメディア侯爵家は、アルドラの由緒ある貴族家だ。
兄であるチェーザレは、無能な父を領地に追いやり、若くして侯爵家の当主となった。
世間では『冷酷な』と評される兄は、ルクレツィアを溺愛する優しい兄だった。
ルクレツィアが第一王子と婚姻を結ぶことは、王子にとっても、メディア侯爵家にとっても利のあることだった。
第一王子にとっては、王位争いに必要な後ろ盾としてメディア侯爵家が必要だったし、メディア侯爵家にとっては、第一王妃の実家として権勢を奮い、大貴族としての地位を盤石なものとするために、この婚姻は願っても機会だった。
だが、今のところ、それはいつ反故にされるかわからない口約束でしかない。
だからこそ、ルクレツィアは美しくなければならない。
誰もが、あの美しい女性こそが第一王妃にふさわしい、と思うように。
政治的なことなど、ルクレツィアにはどうにもできるわけがない。
そんなことは、兄チェーザレに任せておくほかないのだ。
ルクレツィアにできることは、美しくあることだけ。
だから、ルクレツィアは、ダニエラの行いを止めることができない。
ダニエラにそんなことをさせている自分を責めながら、今日もルクレツィアは生きている。
なのに。
第一王子が、神託の乙女に食指を伸ばしている、という不穏な噂が蜘蛛の巣に引っかかった。
ロルバーンの公女なら、たいして美しくも無い陰気な少女だと聞いていたので、特に気にもしていなかったのだが。
「エリザベス・フォークナー伯爵令嬢ですって?」
「はい。たいそう美しい少女だとか」
神託の乙女の条件に当てはまる少女が、ロルバーンの公女以外にもいたらしい。
しかも、その少女は、見る者を虜にする美しさなのだとか。
「それは、見過ごせないわね」
「はい」
ダニエラが伏せていた顔を上げ、ルクレツィアの目を真っ直ぐに見た。
ルクレツィアは、ダニエラの視線に答えるように、優雅に微笑んだ。
「お兄様を呼んでちょうだい。久しぶりに、兄妹水入らずでお話したいことがあると言ってね」
「かしこまりました」
ダニエラが音を立てずに優雅に下がっていく。
美しいダニエラ。
ルクレツィアに施されている美容法は、ダニエラにも施されているのだから、彼女がこんなにも美しいのも当たり前なのかもしれない。
「鏡よ鏡。この世で一番美しいのは誰?」
ルクレツィアが、持っていた手鏡を覗き込みながらそう呟く。
答えは決まっている。
それは、ルクレツィアでなければならない。
ダニエラでも、第三王妃でも、ロルバーンの公女でもない。
ましてや、フォートラン王国の伯爵令嬢であるなど、あってはならないことなのだった。