表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/67

プロローグ——落ちる

 落ちている。俺は落ちている。


 前に突き出した手は空を切り、そして引力に引きずられて落ちていく。


 見上げれば俺を落とした奴らが見える。ニヤニヤしながら俺を見ていた。白いジャケットを着た刺青の連中だ。


 俺はとある政治家の秘書をしていた。地元の名士で、「先生」と呼ばれたその人のことを支えたいと思ったから、秘書になった。決してよい日々だったとは言えないが、誰かを支えられるというのは気分が良かった。 


 何より、地元のために精力的に活動する「先生」を慕い、尊敬していたから、苦労を苦労とも思わなかった。汗を流すことも苦ではなかった。


 私生活は順風満帆なものだったと思う。秘書になってほどなくして、結婚した。「先生」のチャリティイベントに参加していたボランティアの女性だ。一年の付き合いの後、結婚した。


 結婚したあとの生活は、よく言えば無難だったと思う。秘書と夫の二足の草鞋で、うまく妻とは付き合えていたはずだ。もっとも、そう思っていたのは俺だけだったんだけど。


 きっかけは「先生」に汚職の嫌疑がかかったことだった。所属している政党の派閥で、大々的な綱紀粛正とばかりに汚職の調査が行われ、「先生」もその煽りを受けた。悲しいことに「先生」が汚職をしていたのは事実だった。


 政治家生命が絶たれてしまう。先生は私室でそう言った。俺は迷うことなく、「先生」に協力します、と言った。俺が汚職の罪を被る、ということだ。


 俺が汚職をした、と言えばきっと俺は捕まるだろう。妻にも迷惑をかけるかもしれない。けれど「先生」が政治家として地元の、果てはこの国の発展をしてくれるなら、決して無意味な犠牲ではない。


 そう決意した俺は妻に最後の別れを告げようと思い、その日は自宅に帰った。その時、俺は聞いてしまった。妻が誰かと携帯電話で話しているのを。


 「ええ、はい。もちろんですわ、先生」


 誰だろうと思った。俺と妻の間に子供はいない。妻が先生と呼ぶ相手は限られている。


 「きっと、はい。その方がこの子も喜びます。ええ、はい」


 妻はお腹をさすりながら、そう言った。その一言で俺は何が起こったのか、理解できた。


 「あら、そうなんですか。それは。なるほど。ええ、いなくなるならとても。だって、あの人。そうですよ。全然かまってくれないんですもの」


 妻の言葉が頭の中で反響する。何を言っているのかわからなかった。わかりたくもなかった。


 「いなくなって済々しますわ。ええ、はい。お屋敷で?それは、素晴らしいことですわ。表向きは、はい。もちろんです。先生のお孫さんと?あらあら気が早いですわ」


 部屋に入った俺に気づくと妻は、妻だったものは俺を見ていた。人手なしを見る目で見ていた。電話先の相手が誰かは知らない。知りたくもなかった。


 「あら、帰ってきていたの。悪いんだけど、そういうことだから」


 そう言って妻は次の日、家から出て行った。浮気相手のところにでも逃げたのだろう。


 あと腐れもなくなって、俺は警察署に行こうとした。裏切られた俺の人生を、せめて最後は役に立てたいと思った。そう思い、自宅を出た時、「先生」から電話がかかってきた。


 「これから警察かな」


 はい、と俺は返す。いつもよりも、先生の声は冷たかった。震え声の俺に先生は語気を和らげて話しかけてきた。


 「収賄なら、長くて5年だ。出てきたら、私のところに来るといい。秘書、としては無理だが面倒は見よう」


 ありがとうございます、と俺は返した。「先生」だけは俺の味方だとそう思えた。


 警察署に言って自供した俺はすぐに裁判を受けた。刑期は色々と重なって8年になった。「先生」がやった色々な汚職や犯罪をかぶった形になる。初犯にもかかわらず、執行猶予はつかなかった。けど、大丈夫だ。「先生」がちゃんと政治家としていられるなら。


 刑務所の中はなんというか、色々とひどかった。同じ房のやつらには虐められたし、刑務官からはいびられた。それでも我慢した。実刑中に余罪が出たとかで、さらに刑期は2年追加された。


 おかげで刑務所を出た頃には40間近になっていた。刑務所を出た頃には年号も変わっていた。


 刑務所を出た俺はその足で先生の屋敷へ行った。刑務所から出たら来い、と言われたからそれに従って、俺は屋敷へ行った。


 屋敷へ行き、インターフォンを鳴らすと、どなたですか、と聞かれた。俺の名前を言うと、しばらくして「お引き取りください」と言われた。


 どういうことですか、と聞くと「先生はお会いになりません」と言われた。意味がわからなかった。たまらなくなって俺は扉を叩いた。すると、門が開き、中から黒服で強面の男達が出てきた。


 男達は帰れ、と俺を突き飛ばした。待ってください、と俺は男達に縋り付く。蹴り飛ばされ、丸まった俺は扉の向こう側をかすかに見た。屋敷の縁側には「先生」がいた。傍には小さな子供が、そして家政婦の服を着た女がいた。その女には俺の元妻だった。


 ああ、そうか。妻の浮気相手は「先生」だったんだ。


 何も考えられなくなり、呆然とする俺はとぼとぼとあてもなく歩き出した。何も考えたくなかった。


 刑務所を出て、しばらくは色々なアルバイトをしよう、と思った。どこも履歴書を見ると難色を示した。日雇いバイトなどは雇ってくれたが、それでは日々を食い繋ぐのがやっとだった。


 ——そんなある日のことだ。借りていた安アパートの扉を叩く音がした。開けてすぐ、袋のようなものを被せられ、俺は気を失った。


 目が覚めると、俺は真っ黒な闇を覗き込んでいた。視線の先に広がる闇を見ていて、恐怖が駆り立てられた。


 「アニキ、警察にバレたりしませんよね?」


 「だいじょーぶ、だいじょーぶ。うまく誤魔化してくれるってよ。それより、遺書は用意したか?」

 「へい。弁護士先生に書かせました」


 上出来だ、と中でも偉そうなヤクザの男が部下を労った。俺は抵抗したが、ガタイのいい男二人に押さえつけられ、体は動かなかった。


 「悪いとは思ってるぜ?けど、約束を破ったお前が悪いんだ。さっさと落ちな」


 いやだいやだ、と俺は叫ぶ。けれど俺は何もできないまま、廃ビルから突き落とされた。そして、俺は死んだ。



 「なんてね。ハロー、ヒューマン」


 甲高い声が聞こえた。ゲラゲラと下品に笑う声が聞こえ、俺は目を覚ました。


 ばぁ、と目を開けた俺の前にガラス細工の少女がいた。ガラスで作ったゴスロリ的な衣装を着ていたそいつは空中でワルツを踊りながら、ひどく上機嫌だった。


 何が起きているんだ、と俺は辺りを見回した。目線の先にはビルがあった。それは逆さまで、静止していた。いや、違う。俺が静止していた。俺ばかりではない。


 ——世界が静止していた。風も凪ぎ、音もない。光だって止まっていた。


 「はい、ちゅーもく。おにーさん、おにーさん。不運だねー、不幸だねー、不義理だよねー、あいつら」


 少女はガラスを通した声で俺に話しかけてきた。とても楽しそうで、その態度がむかついた。


 「なんだ、あんた」


 「んー。おーや、意外と冷静?」


 そんわけがない。もちろん、驚いている。驚き過ぎて逆に冷静になっただけだ。


 「まぁいいや。えーはい。おにーさんはこれから死にます。地面に頭を打ちつけてぐっちゃんばらりのぽいってな感じでお陀仏です。南無南無。世を恨んでも、世を儚んでも、世を憎んでももうどうしようもありません」


 わざとらしく、少女は泣きべそをかいた。言葉の端々から白々しさも感じる。「先生」と慕っていた政治家の言葉を死ぬ間際まで聞かされ、無性に腹立たしかった。


 「しかし、しかし、しかーし。ここで死ぬのってちょっと勿体なくありません?腹立たしくありません?おにーさんは、信じていた人に、最愛の妻に裏切られ、今こうして世間にさえ裏切られようとしている。恨めしいでしょう?憎らしいでしょう?許し難いでしょう?」


 当然だ。当然、許したくはない。だが、ここで俺は死ぬ。あるいはこの不思議な現象は走馬灯の果てに見る俺の願望の具現なのかもしれない。


 「ええ、ええ。わかります。わかりますとも。その怒り、憎しみ、恨み。まさしく『凡人』とはかくありき。かくあれかし、と創造された通りの反応、実に実に小気味よい。とはいえ、おにーさんの場合は報じられることなく死にゆく『凡人』とはまた一味ちがうわけです。『凡人』なのに、随分と盛大な花束を背負わされたものですねー。実に不愉快極まりない」


 凡人、凡人と少女は俺をなじる。馬鹿にしているのだが、ただ馬鹿にしているわけでもない。思い通りに進まなくて不愉快といった様子だ。


 「けど、俺みたいなやつは、いくらでもいるだろ」


 政治家の秘書が不審死なんて1年に1回は聞くニュースだ。珍しくはあるが、ない話ではない。太陽が西から登ってきた、とか、月が二つに増えた、みたいな驚天動地の話題でもないだろう。


 「いますよー、いっぱい。ぶっちゃけますとおにーさんの不幸だとか、不運だとかもまーありふれているわけです。上司と妻が不倫なんてアダルト漫画でよくありますしねー。創作で楽しめるものをリアルでお出しされてもって感じ?」


 「じゃぁ、なんだよ。俺をどうしたいんだよ?」


 「ええ。はい。本題に戻りましょう。おにーさんの希望を私が叶えましょう。ですが、今のおにーさんは死ぬ運命。これは変えられません。そこで、八つ当たり先をご用意いたしました!!」


 ばばーん、と自分で効果音を叫びながら、少女は10枚くらいのパンフレットを取り出した。どれも異なる絵が描かれ、旅行先の駅でよく見るやつに似ていた。


 「ここに用意したのは異世界へのパンフレット!!この内ひとつをお選びいただき、おにーさんには転生してもらいます」


 「転生?異世界転生ってやつか?」


 そういうジャンルが小中学生の間で流行っている、と聞いたことがある。俺は興味なかったから、読んだことはないけど。


 「はい、おっしゃる通りそれです。さぁ、よりどりみどり。どれでもどうぞ」


 正直、何を選んでいいのかわからない。ファンタジーや近未来、異能力の世界と色々少女は見せてくるが、どれもピンとこなかった。


 ただ、できれば今の俺みたいになりたくはなかった。順風満帆な日々が簡単には壊れない、そんな世界に転生したかった。


 「ふむ、であれば、こちらはどうでしょーか?ズバリ、銀河帝国の皇帝になってうはうは生活。美女をはべらせ、酒池肉林を楽しむ、というのは?」


 少女が見せたのは星々が煌めく宇宙を飛ぶ宇宙船とロボットが描かれた世界だった。そんな世界の皇帝なんてさぞかし権力を持っていることだろう。


 迷うことなく、俺はその世界を選択した。


 「よろしいでしょう。八つ当たりと言うと悪逆皇帝とかですかね。暴虐無人に振る舞う姿にはそのあだ名がふさわしい」


 悪逆皇帝か。いいな。それを目指すのも悪くはないかもしれない。去り際、ありがとうと、告げると、ガラスの少女は肩をすくめた。


 「礼には及びません。ほんの気まぐれですから」


 その言葉を皮切りに俺の意識は掻き消えた。残ったのは暗闇、そして次に光が溢れた時、俺はグラマラスな美人の胸に抱かれていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ