第六話
靜那が恥ずかしそうにしながら、涙を拭っているとポチが口を開く。
「では、婿殿。性急で申し訳ないが、お嬢と契約してくれ」
場が収まった瞬間の言葉に、皓が眉を寄せてポチを見る。
「……お前、もうちょっと空気読めよ」
思わず皓が突っ込むが、ポチは気にしない。
「出来るだけ早く契約し、夜に備えなくてはならない」
そう淡々と言っていると、静那が瞼を少し腫らしながらぱちぱちと瞬きをして、頬を染める。
「契約は、もう済ませています」
恥ずかしそうに頬を押さえた靜那の言葉に、皓とタマとポチはキョトンとした表情を浮かべる。
「い……いつそんなもんしたんだよっ!」
焦って皓が突っ込みを入れると、静那はますます赤くなりながら言う。
「その……朝に……一杯してくれました」
恥じらいとはにかみが交じった声音に、皓は必死でいつそんな事をしたのかを考える。
しかし、まったくと言って良いほど心当たりがない。
「……お嬢様、本当に初契約として体液の交換……口吻をなさったのですか?」
タマがそう問いかけると、皓はした覚えがないとぶんぶんと頭を振り、静那は小さく頷く。
「朝は、タマがいたから知ってる筈だろ!?」
皓がタマに訴えると、確かにと頷いている。
その二人のやりとりに、静那はしゅんと肩を落とす。
それを見たポチは、静那の肩をがしっと掴む。
「お嬢、それはどんな状況だ?」
果てしなく男らしく問いかけるポチに、静那は少し鼻を鳴らして答える。
「お布団で……」
その言葉に、皓ははっと思いだす。
やけにリアルだった、元彼女を抱く夢。
「まっ、待て! 俺は夢見てたってか、寝ぼけてただけだ! それをカウントするのは間違ってるぞ!」
焦って皓は言い、静那は涙目で小首を傾げる。
「お嬢、婿殿の言う通りだ」
ポチがきっぱりと言い切るのに被る様に、タマが身を乗り出して同意する。
「そうです、お嬢様。大体、そんな犬に咬まれた様な事故を初契約として受け取るのは間違っています!」
肩で息をするくらい力説するタマ。
「でっ……でも……」
戸惑う静那に、ポチとタマが力説する。
「互いの同意がない以上、それ以前の口吻は契約にはならない」
「そうです。そして、そんな不埒な事をしようとしたのであれば、遠慮なく殴り倒して良いのですよ!」
ポチが至極冷静に言い聞かせている所に、タマが感情的に対処を言い聞かせる。
「待て、俺の意志はどうなる!? 寝ぼけた行動で殴り倒されるのは不本意だぞ!」
皓はタマに突っ込みを入れ、おろおろとしている静那を見る。
「お前も、他の女の夢見てる奴にキスされた事を喜ぶんじゃねぇ」
皓の呆れた声音に、静那の表情が凍る。
同時に、皓の背中には室内よりも遥かに冷たく、鋭い視線が突き刺さる。
皓は失敗したと悟るが、なし崩し的に押しかけ女房となった靜那に対してあまり優しくするのもどうかと言う言葉が一瞬脳裏をよぎる。
だが、静那の眦に盛り上がる透明な雫に、胸を鷲掴みにされた様な感覚が貫く。
そのまますっと白皙の頬を滑り落ちるのを見て、皓は無意識に手を伸ばす。
指先に感じる温い体液の感触に、皓は正気に戻ると同時に手のひらで頬を包む。
靜那は何処か虚ろな眼差しで、皓を見上げている。
先ほどよりも感情の無い泣き方に、皓は酷く胸が痛い。
元々、女に泣かれるのは好きではない。
だがしかし、この様な何かを諦めたような泣き方をされて放って置くほど皓は静那を嫌いではない。
寧ろ、このような泣かせ方をするのは不本意で仕方がなかった。
逢って間もない少女相手に何やっているんだと言う自分への突っ込みと、静那に対する腹立たしさや訳の分からない感情を飲み込み皓は静那の唇に己の唇を重ねる。
しばしの間の後、虚ろだった瞳が光を宿し驚いた様に皓を見る。
それを見た皓は何やら照れくさい気持ちになりつつも離れようとした時、静那は恥じらいながらも瞳を閉じる。
緊張をしているが、それでも皓に何をされても良いとでも言うかのように。
皓はそれを感じた瞬間に衝動的に静那を抱きよせ、緩んだ彼女の唇から舌を挿し入れる。
びくっと一瞬躰を震わせるのは、夢で見た女そのままの反応だ。
初々しいその仕草に、皓は為されるがままの静那の舌を絡め取り吸い上げる。
抱き締めた躰の柔らかさも、鼻孔を擽る柔らかな香りも全てが皓の思考を酔わせる。
仕事を始めてから殆ど特定の女も作らず、その様な欲求を抱いた時には後腐れの無い女性と一晩を共にしていた。
女は柔らかいと知っていた。
女は柔らかな匂いを纏っていると、理解していた。
だが、これほどまでに細く、華奢だとは思わなかった。
護ってやらなければと当然の様に思うと同時に、全てを征服したいと言う衝動が沸き起こる。
薄く眼を開ければ、静那は眦を赤く染め、どこか恍惚とした表情を浮かべている。
縋る様な手は、儚い力で皓の服を握っている。
思わずその躰に手を這わそうとした瞬間。
「婿殿、情熱的だな」
と、酷く冷静な声が割り込む。
「ええ。何だかんだと言っていますが、婿殿はお嬢様を好いておられる様で安心です」
うんうんと嬉しげに、その言葉に同意する声。
靜那の唇を開放し、声の方向を見ると。
「いや、婿殿お気づかいなく」
「ささ、続きを」
と、上機嫌の美青年とどこか恥ずかしげに頬を染めた美女が言う。
タマとポチがいた事をすっかり忘れ去っていた皓は、何かを言おうと口を開くが言葉が出ない。
恥ずかしいのと同時に、ハマりかけていた自分に対する腹立ちと黙って見物していた二人に対する憤りが綯い交ぜになって言葉にならない。
その皓にニヤリと笑うタマだが、咳払いをしたポチに気が付き表情を改める。
改まった雰囲気になったタマとポチに、皓は怒鳴りつけたい衝動を必死に堪えながら静那を見る。
安堵した様な、はにかみと嬉しげな表情を浮かべて静那は皓に全身を預けていた。
その表情を見た皓は腕を離すのをほんの少し躊躇い、憮然とした表情で静那の肩を抱いたままソファーに座る。
ここで手を離すと、静那が酷く傷つく気がしたのは内緒だ。
「んで、なんだよ」
不機嫌な声で問いかけると、タマが笑いそうになるのを必死で堪えながら口を開く。
「初契約は済みましたが、あくまで仮に近い契約です。鬼達と戦った後には、必ず体液の交換が必要です」
タマの言葉に、皓が何とも言えない表情を浮かべる。
「これを必ずしないと、婿殿にもお嬢様にも多大な負担がかかりますのでご理解ください」
タマの言葉にへいへいと頷き、皓は小さく溜め息を吐く。
その溜息に、静那が微かに肩を揺らす。
ちらりと静那の表情を見ると、沈んだ様子を見せていて皓は視線を泳がせる。
おっとりとして、何事にも素直に反応する静那。
だがらか、静那の何かに触った時の反応や、表情の変化はあんまりにも素直すぎるので気になる。
皓は静那の頭をがしっと掴み、乱暴にわしゃわしゃと撫でまわす。
「っ……????」
靜那は突然の事にキョトンとして、皓を見ている。
「んなしけた面すんな」
そう言ってから、そう言えばとタマとポチを見る。
二人は皓の行動に嬉しそうに笑っていたが、そうだと手を打つ。
「婿殿、仕事は大丈夫なのか?」
ポチの無遠慮な問いかけに、皓の額に青筋が浮く。
今まさに、バイトを探しに行く予定だと話をしようとしていたからだ。
「俺は、これからまさにバイトを探しに行くところだよ! この不況のせいで、全部クビになっちまったからな」
思わず怒鳴り付け、次いで憮然と付け加える。
「それはようございました」
あっさりとタマは言い、更に青筋を増やす皓の前にポチが書類を取り出す。
「こちらの契約書に署名、捺印を。銀行振替が良ければ、通帳の口座番号を書いてくれ」
唐突に、就職時の事務手続きの様な話になっている事に、皓は激しく戸惑った表情を浮かべる。
「……あ?」
思わず間の抜けた声を上げると、更にごそごそとポチが書類を取り出す。
「こちらが社会保険とその他、福利厚生に関する書類だ。これらにも署名と捺印をしてくれ」
猫耳をつけた眼鏡の美青年と、犬耳をつけた怜悧な美女が淡々と新入社員に指示する様に書類を提示してくる。
変にシュールなこの光景に、軽い目眩を感じる皓。
「……待て、ちょっと待て! これ……これは……俺が、就職するってことか?」
皓の困惑した問いかけに、タマが頷く。
「はい、その通りです。退魔のお仕事も大変なのですよ……怪我をする可能性もありますからね。それに、退魔のお仕事はきちんと報酬も支払われますのでご安心ください」
タマの言葉を聞きながら、契約書を見る皓。
その契約書に記された企業名に、皓は目を丸くする。
全国区のテレビ等で、スポンサーとして宣伝に良く名前を連ねている会社と全く同じ名前だからだ。
「お、おいっ!! これ……」
皓の驚いた声と表情に、タマは眼鏡をくいっと上げる。
「昔は退魔だけで生活できたのですが、現代ではそれもままならず一般社会に紛れて生きる為に退魔の仕事を全面的にバックアップする企業を作ったのです。その一部が、こちらのこの会社です」
眼鏡を光らせながら説明するタマの言葉に、ひくりと皓は唇を引き攣らせる。
「結構古くから……退魔ってやつはあるんだな」
動揺しつつも、素直な感想を呟く皓。
「“鬼”は古くからおります。伝承などでも語られているように、常に傍らにいるのですよ」
タマはそう言って、苦笑を浮かべる。
「“鬼”と言うよりも、“妖”と言った方が正しいのかもしれないがな」
ポチはそう補足しつつ、ボールペン等を用意して皓に書類を書くように促す。
「妖……ねぇ」
胡散臭いと顔に書きつつ皓がボールペンを持つと、静那はおっとりと口を開く。
「妖とは善きもの、悪しきもの、そして傍観するものの総称です、旦那様」
靜那の言葉に生返事を返しつつ、書類に記入していると。
「たまとぽちも、そういう意味では妖なのです」
と言う言葉に、皓の手が滑り一瞬字が歪む。
「……どういう意味だ?」
色々と複雑過ぎて、何となく頭痛がして来ているのだが、それでもこればっかりは問わねばならない。
皓のどこか低い言葉に、タマが答える。
「元は同じなのですよ。私達も、選んだ道が悪ければ悪しきもの……鬼と呼ばれる存在になったでしょう。まぁ、私もポチも人を好いていたので今の様に、善きものと呼ばれ使い魔をやっているわけなのですが」
ほんの少し苦い笑みを浮かべつつ、タマは皓が書き仕損じた書類をもう一枚取り出し差し出す。
それを受け取りつつ、皓は深い溜息を吐く。
「この歳で、また勉強かよ……」
憂鬱そうに呟く皓に、静那はにこっと笑う。
「私もお勉強するので、一緒です」
靜那の嬉しそうな声に、皓は一瞬目を瞠り。
「そうか」
と苦笑しながら、彼女の頭をくしゃりと掻き混ぜた。
相手が寝ぼけてキスしてきたのをカウントしちゃいけないと思う。と、書いた本人が思うのでありました。
急に、現実的な話になるのであった。
と言うか、色々な退魔物の小説や漫画を見て思うのは、怪我をした時大変だと思ったのでこうしました。
現代の退魔師はきっとかなり大変なんですよ。
と言う妄想をしたんです。