02 プライベートと自己満足
カードキーの入ったポーチをセンサーにかざすとピッと小気味良い電子音が鳴ってエントランスのドアが左右に開いた。
エントランスに入っていつもの癖で受付のデジタル時計を流し目に見る。普段とさほど変わらない時間だった。
それもそうだろう。結人は帰宅部で放課後特に何もせず真っ直ぐ帰ってくるのだから。
受付の係員さんと挨拶を交わしてエレベーターホールに足を運び、ちょうど止まっていたエレベーターに乗って自室のあるフロアに上がる。
再びポーチをかざして少し薄暗い中廊下に出ると、自室が近い安心感からか意識していなかった疲労感が胸に滲んできた。
自室のドアの前に着いてドアを解錠し、軽く息を吐く。それから左半身を軸にして体重任せに右手で取っ手を引いた。
「ただいまー」
玄関に入って帰宅を伝えると、声に反応して廊下の曲がり角の向こうからフローリングをトタトタと駆ける足音が近づいてくる。
待っていると曲がり角から黒と灰色の混じった毛並みの猫が姿を現して結人の足に身体を擦り寄せてきた。
「ただいま、ペティ」
鞄を置いて左腕でペティを抱え上げる。右手で頭から背中にかけてゆっくり撫でると気持ちよさそうに喉をゴロゴロ鳴らしてエメラルドの目を細めた。
ペティは結人が中学生の時に拾ってきた元捨て猫だ。
高校生の春からこのマンションで一人暮らしをすると決まった時に両親は「一番結人に懐いているのに連れて行かないわけにもいかないだろう」とすすんでペティを連れて行く許可を出してくれた。
生活する場所の変化がペティに悪影響を与えないか心配だったが、今のところペティの体調に悪い変化はない。と、そんなこんなでこの一室に一人と一匹で一ヶ月暮らしてきている。
「後で遊ぼう。先に着替えてきていい?」
靴を脱いで腕からペティを降ろす。ペティはじゃれ足りない様子を見せたが、結人がリビングの方向を指差すと言いたいことを理解したのかリビングに駆けていった。ピンと張った尻尾が早く遊びたくて仕方ないと主張していて微笑ましかった。
結人は洗面所で手を洗って寝室に向かう。
寝室に入って荷物を置いた後、メガネを外して制服を脱いだ。代わりにタンスから白い生地にカラフルな絵の具を撒いたような柄のTシャツと、黒いジーンズを取り出して身につける。
それから洗面所に戻ってミラーキャビネットからヘアアイロンを取り出して、コードをコンセントに繋いだ。
無論髪型をいじるためなので前髪を少しとってヘアピンで止めた後、早速前髪の内側にアイロンを通していく。それが終わったら今度は髪の毛全体に左右ランダムのカールを作っていく。後ろ髪は耳より上の部分を膨らませて、下の部分は締めておくのがポイントだ。
少し外ハネをつければアイロンの出番は終わり、仕上げにワックスを髪の毛に馴染ませていく。
耳を隠しているサイドの髪を左右とも耳に掛けてお気に入りのシルバーのフープピアスを左耳につければ完成だ。
「……よし」
鏡に自身を映して出来栄えを確認する。
ウルフヘアと服装が違和感なくマッチしていて自己満足の声が出た。
プライベートを大切にしたい結人にとって、格好をいじることはルーティンのようなものだった。それに学校で根暗そうな見た目をしている分プライベートで好きに着飾った方が自らギャップも楽しめるし、何より個人の時間を満喫できる気がした。
制服を纏めて洗面所の洗濯かごに放り、鼻歌を歌いながらリビングに向かう。
ペティはネズミを模したおもちゃを突いたり転がしたりして遊んでいたが、主人の気配を察知するとすぐにおもちゃを咥えて駆け寄ってきた。前足を上げて遊び相手をせがんでくるペティの様子に癒されつつ、結人は胡座を組んでペティを撫でた。
「よーしよし。ペティ、投げるぞ…………ほらっ」
ペティが遊んでもらおうと落としたおもちゃを拾い上げて投げる素振りを見せてから少し遠くに投げるとペティはすばしっこく走っておもちゃを取りに行った。
猫の狩猟本能による素早い動きはいつになっても見飽きることがない。それくらいに鮮やかで無駄のない動きだった。
「相変わらずすげえな、お前」
戻ってきたペティの顎を撫でてやるとペティは結人の手に頬擦りをして甘えてきた。
そのまましばらく遊び相手をしていると、ペティは途中でおもちゃを咥えたまま自分の寝床に入っていく。遊び疲れたのだろう。おもちゃを包むように丸くなって、少しすると小さな寝息を奏で始めた。
気分屋の可愛らしい寝顔を見届けてから、結人はバルコニーに出て洗濯物を取り込んでいく。マンションの壁を伝って流れる風が衣類を優しく撫でると柔軟剤の匂いが弾けて宙を舞った。臭覚に意識を集中させるとアロマの匂いが疲れた体をリラックスさせてくれた。
一人暮らしで大した量ではないので洗濯物はすぐに取り込み終わり、結人はそれぞれの衣類を所定の位置に畳んで片づける。
〈帰ったらとりあえずやること〉が一通り終わって、結人はリビングのソファに腰掛けた。
この後夕飯の買い出しに行く予定もあるが、そこまで急ぎでもないしとりあえず一段落といったところだ。
リビングの端で眠っているペティをなんとなく眺める。丸くなったペティはスー、スー、と静かな寝息を漏らしていて、時々口元をもごもごと動かす。好物を食べる夢でも見ているのだろうか。
気持ちよさそうな愛猫の様子を眺めていると視界がぼやけてくる。あまりに自然な睡眠導入に抗う気も湧かないまま、結人の意識は溶けていった。