第6話 とりあえず領地に向かいましょう
イシュタルは王都を離れ、公爵領へと向かう馬車の中にいた。
母のフローラとは手紙のやり取りだけだが、説得には難儀しなかったどころか、「良い勉強になるから、是非いらっしゃい」と、ラハルとの婚約が決まったばかりにも関わらず、むしろ好意的な返事に驚きを隠せなかった。
王都にいるなかなか会えない可愛い娘が、健気にも「領地で勉強して父と母の支えになりたい」などと手紙を寄越せば、可愛さも相まって受け入れないわけがない。
正直なところフローラからすれば王子との婚約などより、愛する娘と一緒に過ごせることの方が遥かに重大で優先すべき事項なのだ。
ただ、かえってロバートの説得には骨が折れた。
目に入れても痛くない程に娘のことを溺愛している父は、ともに王都で生活しているとはいえ、激務に追われてなかなか一緒に食卓を囲むことさえできていない。
それでも、可愛い娘の寝顔だけでも見られることに時々帰りを出迎えてくれることや予定を空けて娘と市井に出かけることは一緒に生活しているからできることであり、そういった日々の癒しが無くなることは彼にとって青天の霹靂と言っても過言ではないことだった。
ラハルとの婚約が決まった直後のことを引き合いに出したりして引き止めを図ったが、イシュタルの意思を変えることはできず、最後には「父を一人にしないでくれぇ」と、娘に泣きつく始末。
父の思わぬ姿にイシュタルが困り果てた顔をしていると、見かねた執事のリンドが引き剥がしてくれた。
そんなこんなで最終的には「後学の為だ」と父から許しがもらえた。
窓の外を眺めながら、少し前にあったドタバタ劇を思い出して思わずクスっと笑みが漏れた。
まさか自分の父親があんなに可愛い性格だったとは。
普段の威厳のある姿からは彼女にとって想像もできないことだった。
対面に座るサラがお茶菓子を差し出す。
「お嬢様の前では表面に出しませんでしたが、旦那様はお嬢様のことをそれはそれは大切に想っていらっしゃるのですよ」
「ええ。今回のことでよくわかったわ」
思わず二人とも噴き出した。
思えば、こんなに両親の愛を感じたことは無かった。
もちろん今までも大切にされていた実感はある。
だが、それはどこかロバートとフローラの『娘』というよりは、ゴーデンバーグ公爵家の『令嬢』としてだと感じていた。
今ならそれは自分の勘違いだったのだとわかる。
母からの数々の手紙を読み返せばその感情が滲み出ているし、父に至ってはあれほどまでに分かりやすく態度に出ていた。
――思えば、自分の事ばかりで周りを見ていなかったのかも知れないわね……
過去の自分の視野の狭さに気付いて苦い思いを抱きながらも、サラの用意した茶菓子を口に含むと広がる甘さに安堵した。
それまで根詰めたような顔をしていた彼女の表情が和らいだのを見て、サラは自然と顔が綻んだ。
王都から領地の屋敷までは馬車で二日かかるため、予定どおり途中の町で一泊する。
ゴーデンバーグ家は王都と領邸を行き来する時は、よほどの事情が無い限りこの町で一泊すると決めており、それもあって宿の一家とは気心の知れた仲なのだ。
早速、宿泊手続きをするためカウンターに向かうと、こちらと目が合った女将がにっこりと笑みを向けてくれる。
イシュタルの隣に控えていたサラが前に出て、宿帳に記載をして手続きを進めていると、イシュタルに女将が話しかけてきた。
「お嬢様、しばらく見ない内にまた一段とお綺麗になりましたね」
「えっ?そうですか?」
女将からの言葉でわずかに上気した頬に両手を当てて照れていると、「だけど――」と何か言葉を続けようとした女将の声が聞こえたが、それは隣から響いてきた喧噪に阻まれた。
騒ぎの方に目を向けると、店主と一人の少女が何やら諍いをしている。
少女はこの辺では見ない珍しい恰好をしていて、その背には形がサーベルに似てはいるが、違うものだとわかる大小二本の武器を背負っていた。
他にも何かありそうな気配もあるが、ここからではわからない。
――そういえば、前は気にも留めなかったっけ……
二人がやりとりしている光景を見て、これが過去にもあったことだとイシュタルは思い出した。だが、その時は問題への対応策ばかりに気を取られて周りを気にする余裕はなかったこともあり、さっさと部屋に行ったのでこの後に彼女がどうなったのかは知らないのだ。
「そこを何とか一泊だけ!皿洗いでも給仕でもするし、何なら荒事でもどんとこいだから」
「金が無いなら話にならん。そもそも今日は大口の予約が入っているから部屋に余裕が無いって言っているだろ」
「そこを何とか!もうここが最後なんだよ~」
大口の予約とはイシュタルたちのことだ。
護衛もいるのでかなりの人数で移動していることもあり、この宿はほとんど貸し切り状態だった。
どうやら彼女は無一文なこともあり一夜の宿に困っているらしい。
またこうして巡り合ったのも何かの縁と彼女はそう思って異装の少女に声をかけた。「お困りでしたら、相部屋で良ければ――」とイシュタルがそこまで言ったところで少女に両手を握られ、驚きのあまり言葉に詰まってしまった。
自分の手を握る少女は瞳を潤ませながら、首を縦に何度も振る。
「いいんですか?ありがとうございます!」
少女は明るい笑顔を弾けさせ、イシュタルはあまりの勢いに押されて引き攣ったような乾いた笑みを浮かべる。
その脇で店主と女将は意外な展開に目を丸くし、サラは苦い顔をしながら頭を抱えていた。
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