第5話 一歩目から躓いたから夢見も悪い
私は夢を見ていた。
前には祝賀会の最中に起きた異変により、慌ただしく動き回る使用人と力無くぐったりしている女性とその体を抱いて何かを叫ぶ男性の姿がある。
とても鮮明ではっきりとした夢だった。
そんな光景なのになぜ夢だとわかるのか。
それは私の目の前に広がる光景が、私が一回目の死の間際に見たそれそのものだから……
――思えば、ラハル様はこんなにも私のことを必死に呼んでくださっていたのね……
かつて死の淵に瀕している時には気付けなかった夫になるはずだった男の必死な声が聞こえるようだった。
ここは夢の中だから音は何も聞こえない。
それでも、不安な表情を浮かべて焦燥に駆られたラハルの口の動きは間違いなく彼女の名前を呼んでいた。
――政略だけの私にこんなに必死に……誠実な方ですものね……
いきなり風が吹き荒れて目の前の光景が俄かに砂塵のごとく崩れて運ばれていく。
夢は見たことや体験したことしか見ないと言われている。
今回はまだ起こっていないが、彼女が見た先の光景は確かに彼女自身が過去に通ったことのある出来事だ。
それであるならば、夢で見たとしても不思議ではない。
それまであったものが無くなると、彼女の周りは一切の闇に包まれた。
しかし、不思議と恐怖はなく、むしろ優しいものに包まれて彼女は体がゆっくりと浮上するような感覚を覚える。
漸く夢から覚めるのだと思った彼女は、母の腕に抱かれているかのような安心感に目を閉じて身を委ねていると、不意に誰かに名前を呼ばれた気がした。
重たい瞼を開けて瞳を向けると、そこには誰かが立っている。
顔は……わからない。
何故か暗幕がかかったように見えないのだ。
それでも、その誰かが自分に優しい顔を向けているのはわかる。
自分の名を呼ぶ声がとても優しさに満ちているから。
「必ず君を迎えに行く。今度は必ず――」
『助けるから』と、その言葉が聞こえた瞬間に夢の中の私の意識はぷっつりと途切れてしまった。
今日の目覚めはとても気分の良いものではなかった。
それもそうだろう。
自分が死ぬ光景なんて考えただけでぞっとする。例えそれが夢だとわかっているものだとしても願い下げだ。
しかも、実際に体験しているだけあって、かつての感覚が生々しくありありと目覚めた彼女の体に浸透していく。まるで命を蝕む毒がゆっくりと体中に行き渡るように。
全身に冷汗が伝い、自身の震える体を抱いて懸命に自分に言い聞かせる。
――違う!あれは夢だわ……現実じゃないし、これから起きることなんじゃない!
そうして、サラが朝の支度のために部屋を訪れる頃には何とか平静さを取り戻せていた。
支度の前に体を拭きたいとサラに頼み、ベッドに座って昨日の殿下の言葉を反芻する。
――『あなたには私の婚約者になってもらいます』
――『これだけ待ったんですから、二度と手放しませんよ』
イシュタルとラハルが初めて顔を合わせたのは2年前の8歳の時だ。
幼い頃からしっかりとした教育を受けてきたイシュタルは利発で礼儀作法も身に付いており、美しい所作と可愛らしい容姿を備えた彼女は家格を抜きにしても王子の婚約者となるに相応しい令嬢だった。
彼女を一目見た王妃がいたく気に入ってラハルの婚約者にとずっと推していたこともあり、二人が無事に10歳を迎えたのを機に正式に婚約を結んではどうかという運びになったというわけだ。
「そんなに待たせたかしら……?」
イシュタルが一人になった部屋の中でぽつりと呟く。
たった二年、それも政略相手の自分なんかにどうしてと彼女の中に疑問符が浮かぶ。
まだ幼いとはいえラハル様はこの国で唯一人の王子。
当然、彼と年の近い娘がいる貴族は自分の家の令嬢を売り込みにくるでしょうね。
煩わしいけど、それらは無下にするわけにもいかない。
だけど、建前でも私と婚約すればそう言った話は目に見えて少なくなるはず。
そう思うと、彼が『これだけ待った』と言ったのも納得だわ。
ラハルの言葉をそう結論付けたところで、体を拭く用意を整えたサラが部屋に戻ってきた。
イシュタルが夜着を脱いで一糸纏わぬ姿になると、体を拭くために拭布が当てられる。
程よく温められたお湯に浸されたそれは疲れた彼女の心をほっこりと癒した。
――あんな夢を見たのは、昨日のことが原因ね……ラハル様が私の提案を受けてくれないから!
昨日のことが夢を見る引き金になった可能性はあるが、その責を彼に問うのは些か横暴というものだろう。
もちろん彼女自身も本気でそんなことを思っているわけではないが。
簡素な部屋着を身に纏い、鏡台の前に座ってサラの手際に身を任せる。
――まあ、婚約は先々解消すればいいから、そんなに焦らなくてもいっか。
少し前まで震えるほどに動揺していたとは思えないほどの楽観ぶり……色々、割り切った彼女は回復も早いのだ。
王都でできることはもうない。それなら領地の問題を優先するべきと判断した。そうすれば、おのずからラハルとも距離をとることができる。
今はまだ機が来てないからうまくことが運ばないのだと信じて。
そのまま彼女は夢の中で聞こえた誰かわからない声のことも、記憶の片隅に追いやってしまうのだった。
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