表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第一章】ようこそ、極北大学陸上競技部へ
9/51

八.挑む者、迎える者


 蒼と久蓮の勝負は週末に迫っていた。練習も終盤にさしかかり、飛び交う声援にも熱が入っている。グラウンドに流れる雰囲気とは裏腹に、蒼は久蓮に苛立ちを募らせていた。


 『オレと勝負だ』などと蒼を焚きつけておきながら、久蓮は相変わらず遅いチームの練習につきあってばかりだ。

 いまは翔太の横、アウトコース側についてアドバイスをしている。額に汗は浮かぶものの、足運びからも表情からも余裕だけが窺えた。練習するまでもないということだろうか。

 インカレ以降不調が続いていたけれど、燃え盛る対抗心に押しのけられてもうほとんど感じない。


 その様子を流し見て久蓮が口角を上げていることに、蒼は気づかなかった。



 上級生たちは、元々あった壁をさらに分厚くした蒼をやや遠巻きにしている。そんな中で、翔太が練習を終えてストレッチをしていた蒼のもとへ駆け出した。


「あおー! レポート教えてー」

「なんのレポートだよ?」

「ドイツ語!」


 翔太は文系で、蒼は理系だ。かぶっている授業はないはずだと思ったら、よりにもよって蒼が未履修の第二外国語だった。


「僕はフランス語選択だぞ、同じクラスの奴はどうした?」


 あきらかに助けを求めるさきを間違えているが、翔太は引き下がらなかった。期日を問えば「明日の朝イチ」と、とんでもない答えが返ってきて、一瞬理解が追いつかない。


「は? バカか! バカだったわ……」

「ひどい! あお助けてー」


 翔太が上げた抗議の声は黙殺した。うるうるとこちらを見つめる瞳にため息をつく。顔を突き合わせて開いたテキストに並んでいる問いは、きっと初歩の初歩なのだろう。


「結局助けてやるんだな」

「根は良いやつなんだよなぁ~」

「思い出すな、真平。お前もああして麻矢先輩に泣きついてたよな」

「いや、部活に夢中になりすぎて……」


 ストレッチをしながらに交わされている裕也と真平の言葉は、蒼の頭に絡まってはこなかった。その様子を壁に背を預けて久蓮が静かに見つめていたことにも、蒼は気づかない。


「気になるんだろ? 助けてやらねぇのか?」

「ん、べつに気にしてないよ? オレよか適任がほら、そこにも、あそこにも。オレの出る幕なんてないさ」

「なるほどな」


 範昭と久蓮の会話も、いまの蒼にとっては周囲の喧騒だ。


「あー、ドイツ語にも男性名詞と女性名詞があるのか。フランス語と一緒だな。って、中性名詞……?」


 テキストとスマホの辞書を駆使しながらレポート用紙と格闘するが、選択外の第二外国語をそうそうすぐに理解できるはずもなく。蒼は、となりで目をまわしている翔太とともに、しばらく唸り続ける羽目になった。


 状況が動いたのは、三十分ほど後のこと。


「おーい、お前ら。だいぶ煮詰まってんなぁ。俺らドイツ語選択だったんだ。手、貸そうか?」


 見かねた麻矢と真平から差し伸べられた救いの手に、蒼と翔太はパッと顔を輝かせた。



 土曜日、極大陸上部は二回目の記録会を迎えた。

 蒼と久蓮が召集所につくと、ざわめきが広がった。皆口々に久蓮の名を呟き、ただ遠巻きにするのみだ。

 外れの一角で、帝北大の選手たちが敵愾心をむき出しにしている。まだ那須の姿が見えないことに、蒼はホッと安堵の息を零した。


 単なる記録会とは思えない異様な雰囲気だが、初老の召集審判員と話している久蓮のそばでは、周りとは全くちがう時間が流れていた。


「待たせて悪いね、蒼。行こうか」


 気負いないその背中を追おうとした瞬間、蒼の視界に那須の姿が映った。ぴたりと蒼に照準を合わせ、他には見向きもしない。蒼は、蛇に睨まれたようにその場に縫い止められた。


「よお、如月」

「うちの蒼に何か用?」


 久蓮がするりと前に出て、蒼を庇うように立つ。にこやかな横顔とは裏腹に全く笑っていない瞳からは、肌が粟立つほどの鋭い冷気が流れ出していた。


「キミってさ、本っ当に蒼が大好きだよね。ま、こんなすてきな才能に惹かれないなんてうそだろうさ。そりゃあね、『もっと俺を見ろよ!』って言いたいキミの気持ちもわかるよ?」

「なに、言って……! アンタには関係無ぇだろ!」

「いやいや、なに言ってるのさ。──極大(うち)の、蒼だから」


 久蓮は酷薄に笑って、ゆっくりと那須に近づいた。凍てつく光が、剣呑に那須を刺し貫いている。


「……ああ、そっか。オレらと戦りたいのね。いいよ、邪魔しないならね! ええと、『誰』だっけ?」


 怒りで顔を染めた那須が久蓮につかみかかろうとしたそのとき、「やめな」という静かな強い声が響いた。


「お前じゃ敵わないよ、伊織」


 東城だ。自らの主将に諌められて、渋々帝北生の集団へと去っていく那須を見つめながら、蒼は詰めていた息を吐いた。


「やあ、探したよ。まさか極大(ここ)にいたとは」


 東城は、優雅な仕草で久蓮に声をかけた。


「それは……悪かったね」

「全くだよ。おかげで悪魔に魂を売ってしまったじゃないか」


 久蓮は、硬くとがった声で「……それで帝北か」と返した。

 『悪魔』とは、帝北の監督のことだろうか。蒼が考え込んでいるうちに、東城は久蓮の肩を軽く叩いて踵を返した。


 ふと我に返った蒼は、愕然とした。先ほどまでの心地よい緊張感は消え、重たいまでの強張りだけが蒼を支配している。

 目を細めた久蓮が、強い瞳で蒼を貫いた。


「いいかい蒼、オレだけ見てろ。今日は『オレに』勝つんだろ?」



 号砲が響き渡り、男子五千メートルがはじまった。東城と那須が飛び出し、続く第一集団の最後尾に蒼はついていた。蒼のうしろを走る久蓮の呼吸は、練習となんら変わりなく静かだ。

 思うように動かせない身体を必死に前に運びながら、蒼は焦燥を滲ませた。じわじわと集団から離されていく感覚に、蒼の胸には恐怖と屈辱の記憶が渦巻いた。


 情けないが、助けを求めてしまいたい。


「……全く、手のかかる奴だね。言ったでしょ? 『オレだけ見てろ』って」


 久蓮が、蒼の肩を軽く叩いてその名を呼ぶ。振り返ると視線が絡み、薄色のサングラスの奥から煌めく瞳が、蒼を前へと誘った。

 久蓮がアウトに膨らんで、蒼の斜め前に位置どった。


「オレに合わせろ」


 有無を言わせぬ自信を一身に受け、蒼は開けられているインコース側にぴったりとついて、久蓮の『すべて』に意識を集中させた。ペースも、ピッチも、呼吸も──。

 切れ切れの意識の外で、「いい子だ」と久蓮の声が聞こえた、気がした。


 気がつけば、蒼はかなりのペースで走っていた。まるで高校三年生のインハイのときのように、身体が軽い。この身体に馴染んだフォームは、リズムは。


 ──蒼の走りだ!


 蒼は震えた。蒼自身も忘れて久しい『あの日』の蒼の最高峰の走りを、久蓮は完全に違和感なく再現している。

 あっというまに第一集団は後方へと消えて、前を走るのは那須と東城だけになった。


「さてと。オレ、高校ぶりのレースなんだ。楽しませてくれるね、蒼!」


 久蓮の声が耳に飛び込んできて、燃える瞳が蒼を射抜いた。刹那、蒼の身体に電流にも似た衝撃が走った。

 そもそも、蒼はどうしてもう一度陸上をはじめたのだったか。あの日の蒼は、この青年とならもう一度走れると思った。


「僕は、──もう一度風を切って走りたい!」


 苦しみに埋もれて薄れていた想いが、大きく膨れ上がって蒼の胸を満たす。蒼が久蓮を見返すと、彼は満足したように笑った。


「来いよ、蒼」


 不覚にも蒼が見とれた一瞬のあいだに、久蓮のペースが跳ね上がった。あっさりと置いていかれそうになって、次の瞬間、身体が勝手に動いた。弾かれたようにその背を追い、抜き返す。湧き上がる焦熱に歯止めがきかないまま、また抜かれる、抜き返す。ただそれを繰り返した。


 前を走る那須に追いつくと、その気配は一瞬で後方に消えていく。那須の悔しげな声が聞こえた気がした。


「もっとだ、蒼。行こう!」


 久蓮の声がちぎれながら、蒼の鼓膜を揺らす。切り裂いた風が頬を掠め、蒼は誘われるままにその焔に飛び込んだ。


 このままずっと、走り続けられたらいいのに。


「蒼。オレ、もう一仕事あるんだ。キミもおいで」


 久蓮の声で、霞みがかっていた蒼の感覚が現実へと立ち戻る。前をゆく東城の姿がすぐそこに迫っていた。「お待たせ」、「本当だよ」と軽く言葉を交わし合い、二人はどちらからともなくギアを上げた。

 抜き、抜かれ。ともすれば潰し合いのような勝負は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、飛び散る火花は激しかった。勝負の舞台からじりじりと離されていくことが、無性に悔しい。


 視界のさきで、久蓮が堂々の一着でゴールラインを割った。瞬間、わっと歓声が上がる。残り百五十メートル。走って走って、蒼はようやくゴールラインを駆け抜けた。

 笑う膝を叱咤して、荒い呼吸を押さえつける。ふと影がさし、顔を上げると久蓮がこちらを見ていた。


「ね、蒼。楽しかったでしょ?」


 確信に満ちた笑みを一身に受けて、呼吸が止まった。ぞくりと身体に痺れが駆け抜ける。完膚なきまでに負けた。それなのに、心の底から楽しかった。

 輝きに魅入られるまま見つめるさき、久蓮が至福の笑みを浮かべた。


 ふと、久蓮が観客席を振りあおいだ。彼の動きを追うようにさらりと流れた濡れ羽色が、強い陽射しによく映える。


「見たか? これが、お前らの主将だぜ。安心してついてこい!」


 彼の頭上に、『頂』の景色がちらりと揺れた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ