七.北海道インカレ
【インカレ出場種目(各校一種目三人)】
八百メートル 御影、富樫、桃谷
千五百メートル 清野、御影、富樫
五千メートル 岩本、清野、如月
一万メートル 岩本、夜神
※競技順:(一日目)千五百メートル→五千メートル→
(二日目)八百メートル→一万メートル
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しとしとと降る雨が蒼の肩を濡らす。
北海道インカレ初日、極大陸上部一同は角山競技場へと集まっていた。眼下では千五百メートルのレースが行われている。
千五百メートルはトラックを四周と四分の三。四分ほどで続々と選手たちがゴールし、極北ベンチが沸いた。「大介先輩ベストだ!」と真平の声が響いた。久蓮も満足げに「ノリちゃん悪くないじゃん」と頷いている。
漂う熱気を感じて蒼は小さく息を吐く。もうすぐ自身の出番だ。高まる期待の中、小さな不安が意識の奥で揺らめいた。
アップをすませた蒼が召集所へ着いたとき、恐れていた声が鼓膜を揺らした。
「よお『負け犬』、プログラム見て驚いたぜ? お前こんな所にいたのかよ。また俺に潰してほしいのか」
元チームメイトの那須は、帝北大の威圧感のある黒紫を身にまとっていた。きつい目つきも、蒼よりも十センチは大きい身長も、すべてが恐怖に映る。否定の言葉が蒼の胸に渦巻いたけれど、音にはならなかった。砂漠に迷い込んだように喉がひりつく。
「那須……お前だって、北海道にいるじゃないか」
必死にその目を見返した蒼に、那須は満足げに歯を見せる。
「そりゃなぁ。なんたってあの『篠崎久蓮』がいるって言うんだからよ。お前なんかよりよっぽど潰しがいがあるぜ? あんな『エサ』をダシにして、全くうちの監督ぁ狂ってやがる。そりゃあうちもメンツが集まるってもんだ」
『監督』がなんだ、蒼になんの関係があるのか。眉を寄せた蒼を見て、那須は心底呆れた視線で鼻を鳴らす。
「知らねーのか? ……相変わらず、自分にしか興味ねぇんだな、お前。いいか如月、俺らの監督ぁ『篠崎 哲人』っていうんだぜ。この意味がわかるかよ?」
問い返す暇もなく、踵を返した那須を見送る。津波のように押し寄せる恐怖と疑問で、蒼の頭の中はぐちゃぐちゃに塗り潰された。
いっそう強まった雨が臙脂色のトラックに降り注いでいた。轟きの中コールがかかり、皆がスタートラインへと向かっていく。酷く息苦しくなって、蒼は顔をしかめた。
「おい、お前真っ青だぞ」
背後から鋭く声をかけられた。振り向くと、眉を寄せた範昭が立っている。
「あー。まあ、なんだ。……そう気負うな。もっと楽にいけ」
蒼の肩を軽く叩いてレースへ向かう範昭の背を見つめ、途方に暮れた。結果を残せなければ価値などないだろうに。
号砲が鳴り、降りしきる雨をものともせずに、選手たちが飛び出した。皆、伸びやかに足を前へと伸ばして豪雨を切り裂いていく。熾烈な勝負を繰り広げる彼らが酷く遠い。
那須の背が、どんどんと遠ざかっていくことがいっそう焦りをかき立てた。彼に負けたことは一度だってなかったのに。スタンドからの声援さえ煩わしく、勝利を焦ってはやる心だけが、蒼を置き去りにして前へまえへと進もうとする。
視界の先で、帝北大の選手がスパートをかけ、那須もそれに続く。食らいつく真平を遠く見つめながら、蒼は息が上手く吸えなくなる感覚に蹲りそうになる。たった十二.五周をこんなにも長く感じたのは、あの国体本戦以来だった。
北海道インカレ初日。大学初戦のこの日、如月蒼は屈辱的な大敗を喫した。
『お前、もう終わりだな』
ゴールラインで茫然と立ち尽くす蒼にかけられた、那須の嘲りの声が耳にまとわりつく。反論の余地はなかった。
貼り出された記録表には、『十五分十九秒』という絶望的な現実が並んでいる。
暗いアーケード下でひとり悔しさを噛みしめていた蒼の肩を、翔太が叩いた。いつもの明るさをかき消して静謐を湛えた翔太は、鋭い蒼の視線にも眉ひとつ動かさない。
「走ればいいじゃん。走りたいならさぁ」
「……お前に、何が分かるんだ……」
心往くまま走ることが叶わなかったから、蒼はここにいる。なんのしがらみもない翔太にとやかく言われたくなかった。
「こらこら。なに揉めてるの」
蒼は驚いて顔を上げた。近づいてきた気配もなかったのに。
翔太を呼びベンチへと戻らせたあと、蒼に視線が戻る。いつのまにか雨はやんでいたらしく、光を背負う久蓮の表情は判然としなかった。蒼は、息を詰めたまま動けない。
「──国体本戦。キミの、高校最後のレースだ。内容は今日とそっくりだよね? 原因はおそらく、部内の──」
久蓮の言葉に蒼は息を飲んだ。心臓がいやな音をたてて、呼吸が浅くなる。蒼の変化を見て取った久蓮は「なんだ、図星か」と呟いた。
途端、声色が変わった。
「情けねぇ」
あまりの言いぐさに蒼は声を失った。久蓮に、蒼の何が分かるのか。反論を紡ごうとしたけれど、久蓮は被せるように言葉を続けた。
「オレには何もわからないよ。キミの通ってきた路は、オレとは全く違うだろ。……それでもキミは『ここ』にいる。それが全てだ」
蒼を見つめる漆黒の静謐さに、居心地が悪くなる。久蓮の言うとおりだ。蒼は結局『ここ』にいる。
「それなのに、うだうだうだうだ。情けねぇレースしちゃってさ。バッカみたい。……あの日、ギラギラ燃えた目をしてオレを追いかけてきたキミはうそだったのかい、蒼? きっかけはどうであれ、『あれ』もモモのせいだなんて言わないよね?」
「それは……」
「まぁ、いいさ。キミみたいなバカには、オレが走るってのはどういうことなのか思い出させてやるよ。……再来週、ここでオレと勝負しようか」
風が吹いた。久蓮の濡羽髪がふわりと揺れる。蒼を貫くのは、怯えも恐れも全てを見透かす強い瞳だ。口元に笑みを湛えた久蓮は、自分が負ける未来などないと確信している。
「やってやる……!」
「はっは。せいぜい、楽しませてくれな」
燃え上がる強い対抗心のまま、蒼は踵を返した背中を睨みつけた。いつの間にか弱気な心が消え去っていることに、気づかないまま。
昨日の叩きつけるような豪雨が嘘のような快晴の下で、北海道インカレは二日目を迎えた。
朝一番のいま、八百メートルに出場予定の三人はすでに招集へと向かい、レースがはじまるのを待っている。
蒼はいたたまれずベンチのすみで身を縮めていたけれど、それすらも息苦しくなって立ち上がった。
「あーお、お前はこっちおいで」
背後から、久蓮に声をかけられた。振り向いた蒼の警戒心など意に介さず、肩を組んで引きずっていく。
蒼は、観客席の裏通路に入ったところで回されていた腕を外した。「逃げませんから」と告げると、歩みを進める久蓮の背に無言で続いた。行き先は、なんとなくわかっていた。
予想どおりの行き先、八百メートルのスタート位置には緊張感が流れている。なかでも翔太は酷い。少し青ざめた固い顔をして、膝を抱えていた。
久蓮の登場に、皆の顔がパッと輝く。それでもひとり緊張の残る翔太に久蓮が耳打ちをすると、瞳を大きく見開いて力強く頷いた。蒼は久蓮に背中を押されて、翔太の前へと進み出る。
「その……昨日はごめん。頑張れ」
「……うん! おれ、頑張るよ!」
翔太は満面の笑みを浮かべた。真っ青だった顔色は明るく、頬にはうっすらと紅がさしている。
コールがかかり、選手たちがスタートラインへと向かっていく。やる気みなぎる翔太のすがたは、蒼にはまぶしい。
「さんきゅ、蒼。『おまじない』完了だ。いこうか」
久蓮は、翔太を見つめたまま悪い笑顔をうかべている。蒼は、歩く久蓮を小走りで追いかけながら、「なんて言ったんですか?」と問いかけた。緊張で震えていた翔太の心を和らげた言葉が気になる。
パン、と号砲が鳴り響いた。いっせいに走り出す各校の選手たちの中に翔太の姿が見えて、蒼は唖然として目を瞬かせた。翔太は先日のタイムトライアルで、全力のハイペースで突っ込んだまま、潰れて最下位に沈んでいた。
だから、今回も同じだと思っていたのに。
「──『集団の一番後ろで走れ』」
いたずらが成功した子供のように蒼を流し見て久蓮が告げたのは、先の問いの答えだった。翔太はその言葉の通り、まわりを見て集団のうしろに位置取っている。なんだか玄人らしいレースだ。
わずか二分たらずで勝負が決まる八百メートルは、早くも二周目だ。蒼たちは二百メートル地点の少し手前、第三コーナーのはじまり近くに陣取った。選手たちの集団が第三コーナーを駆け抜けていき、久蓮は大介や裕也へ声援を飛ばしている。
そして翔太が、蒼たちの前を通過、する。
「モモっ、いけーっ!」
次の瞬間、翔太は弾かれたようにスパートをかけた。ちらりと蒼へ踊るような視線を投げて、久蓮は言う。
「そして、『オレの声が聞こえたら、とにかく飛ばせ』。……ははっ。やっぱ、スピードは一級品だな」
翔太はものすごいスピードで前を追い、みるみる順位を上げていく。景色を切り裂くように疾走する翔太は、爽やかな空の下を吹きぬける風だ。
ずきりと胸がうずいた。知れず握り込んでいた拳が痛い。
そんな蒼を見た久蓮がひっそりと笑みを深めていたのを、蒼は知る由もなかった。
トラックでは男子一万メートルが行われていた。範昭や翔太が声援を送る中、蒼は黙々とレースを見つめる。
六千メートルを過ぎ、レースは終盤だ。先頭は東城、そして那須、悠、真平と続く、入賞できるかどうかというレース展開に当然ベンチの応援にも力が入る。
「彼は調子が悪いのですか?」
唐突に、低く静かだが良く通る声がそう問いかけた。見覚えのない青年は、じっと思案するように真平を見つめている。
うちの卒業生なのだろうか、と蒼が考えたとき、範昭がいぶかしげに答えた。
「そんなことはない、……と思いますけど」
「少し、気をつけてあげたほうが良いかもしれません」
厳しい表情を覗かせて、青年は不穏に呟く。レースは帝北大二人に続き、悠にわずかに競り勝った真平が三着でゴールしたところだ。
蒼がどういうことかと問いかけようとしたとき、久蓮の声が響いた。
「どうしてあんたがここにいるの? 六連 昴……さん」
別の場所で応援をしていたはずだけれど、いつのまに戻ってきていたのだろうか。久蓮が口に乗せた名前は、蒼にも聞き覚えがある気がした。
久蓮の言葉に、昴は淡く笑みを浮かべる。
「ホー。やっぱり君にはバレますか、久蓮さん」
「なにその口調? 鳥肌立ったんですけど。後輩に敬語とか、あんたそんなキャラじゃないでしょ。……もしかして、遠慮でもしてるんですか」
両腕を擦りながらの久蓮の突っ込みに、昴はただ苦笑を零した。
「コホン、……さて。──はじめまして。極北大学 大学院 生命科学院一年、六連 昴です」
強引に話をそらしたような自己紹介に、部員たちはぽかんとした顔を浮かべている。けれど、すぐに蜂の巣をつついたような騒ぎになった。『六連 昴』の名を口にしては目を白黒させる部員たちの中、話についていけないのは蒼と翔太だけだ。
久蓮は呆れまじりに苦笑している。
結局、蒼が『六連 昴』の正体に気がついたのは、皆が解散した帰り道のことだった。久蓮は昴と共にどこかへと去り、衝撃冷めやらぬほかのメンバーはぽつりぽつりと帰り道を歩いていた。
地下鉄を降りて、いつのまにか並んで歩くのは家が近い範昭だけになっている。
「六連 昴って! あの!?」
あたりに響いた叫びに、範昭が「今更かよ」と突っ込んできた。いまとなっては、先ほどの久蓮が蒼たちに投げた視線も理解できる。だが、気づくわけがない。
『六連 昴』とは、箱根駅伝優勝校 青谷学院大学で去年まで主将を務めていた青年の名前だった。
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【北海道インカレ一日目】
〈男子 千五百メートル〉
一着 柳沢於莵(四)帝北大
二着 宮田晃(一) 極教大
三着 御影大介(三) 極北大
〈男子 五千メートル〉
一着 東城皇(四) 帝北大
二着 那須伊織(一) 帝北大
三着 岩本真平(二) 極北大
【北海道インカレ二日目】
〈男子八百メートル〉
一着 宮田晃(一)極教大
二着 北市陞(三)帝北大
三着 桃谷翔太(一)極北大
〈男子一万メートル〉
一着 東城皇(四)帝北大
二着 那須伊織(一)帝北大
三着 岩本真平(二)極北大




