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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第一章】ようこそ、極北大学陸上競技部へ
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六.タイムトライアル


 翌日。移動する学生たちの喧騒の中、人気(ひとけ)のない静かな教室で、蒼はひとり席に座っていた。

 もうすぐ練習がはじまる時間だが、蒼は立ち上がることができないでいる。腹の中を熱いものが渦巻いていて、ガラにもなく叫び出してしまいそうだった。

 ふと名前を呼ばれ、声のしたほうに視線を向けると、教室の入り口に瑠衣が立っていた。


「どうしたの? これから練習だったよね、……もしかして、体調悪い?」


 いたって健康だ。ただ、このあまりにも未知な想いを、なんと表現したらいいかわからなかった。


「……熱が燃えて、あふれだしそうなんだ」


 心当たりは、ありすぎるほどある。

 蒼は、昨日の出来事をかいつまんで説明した。入部してからはじめてのミーティングで出会った、蒼を掴んで離さないフレーズは。


「『夢の続き』……か。いいなぁ、素敵なチームだね!」


 瑠衣の声に、小さく頷く。とまどいながらも、彼らは久蓮の言葉に『夢』を見た。きっと、蒼の高校時代のチームメイトとは違う。

 考え込んだ蒼の鼓膜を笑い声が揺らした。


「そっかそっか、如月くん。難しいことは考えないで、身を任せてみたらいいんじゃない? それはきっと、『情熱』だよ!」



 蒼がグラウンドに着くと、もう皆の姿があった。


прошу(すみ) прощения(ません)


 突然肩を叩かれて、蒼はパッと振り返った。知らない響きが聞こえてきたと思ったら案の定、プラチナブロンドを流した背の高い女性が、爽やかな青色の瞳で蒼を貫いていた。


Пожалуйста(お願いします), скажите(教えてくだ) мне(さい),как пройти(駅への) к станции(道を)

「えっ……」


 大きなリュックを背負っているから観光客なのだろうが、何と訊かれているのかどころか、何語かも判らなかった。

 焦る蒼の肩を叩き、小さく「任せて」と呟いた久蓮が一歩前に出た。


Я буду(オレが) вести вас(ご案内します). первый(まず),──」


 次の瞬間久蓮が紡ぎだした異国の言葉は、目の前の女性と比べても遜色ないように思える。唖然とする蒼をよそに案内を終えた二人は、軽く冗談を言いあって別れていた。


「あ、ありがとうございます……」

「ん。──さ、練習しましょ」


 突っ込む暇もない、と蒼が唖然としたとき、真平が顔を覗かせた。


「さっすが久蓮さん。何語ですか?」

「ロシア語だね」

「こういうのなんて言うんでしたっけ、マルチリンガル? 分からない言葉とかあるんですか?」

「うーん……話者の人口が少ない言語は、発音自信ないかな。──さ、集合だよ!」


 何を言っているのか理解に苦しむ発言だった。

 真平は蒼に向き直って理学部だという久蓮の研究室での逸話を並べはじめ、久蓮は真平の肩を叩いてさっさと皆の輪に向かってしまった。

 


 反省会の翌週、土曜日。雪解け水の湿度を含んだ風から乾燥した春風に変わる五月だ。土けむりを巻き上げて競り合う集団を、フィールドからの声援が追いかけている。

 蒼は真平と二人Aチームで、北海道インカレに向けて追い込み練習を続けていた。


 そう、『二人』だ。久蓮は相変わらずマネージャー兼ペースメーカーに徹してばかりで、期待した蒼は裏切られた気分だ。

 練習もせずに記録が伸びるほど、陸上競技は甘くない。


 全八区間の『全日本大学駅伝』は、区間ごとの距離の差が大きく最短九.五キロ、最長十九.七キロで行われる、全百六.八キロの駅伝だ。スピードにスタミナ、それぞれの持ち味を活かした配置が必要となる。


  皆の特性が個性的すぎる極大は、ハマれば強いとは思う。けれど全国への切符は、血のにじむ思いで努力をしていた高校時代の蒼たちの手からさえも、零れ落ちることがあるものだ。

 最前線に立っていた蒼だからこそ壁の高さはよくわかるが、久蓮はこの状況からいったいどうするつもりなのだろうか。


 メニューを終えた蒼は、翔太と並んでダウンジョグをしていた。


「翔太、篠崎さんってどう思う? よく一緒に走ってるだろ?」

「すっごく分かりやすく教えてくれるし、引っ張ってくれるペースも正確だよ!」


 なるほど、と蒼は頷いた。たしかに久蓮はメニュー中もよく皆に声をかけている。とくに、いちばん近くで指導を受けていた翔太は、この一ヶ月弱で『ランナー』の走りをものにしつつある。

 蒼が出会った指導者は、良くない走りをすると頭ごなしに怒鳴るばかりだった。久蓮が飛ばす檄や指導は適確だと蒼は思うし、彼が作るメニューは高校時代と比べてもよく練られている。圧倒的に量が多いわけではないが、いつもしっかりと追い込めるのだ。

 走っている久蓮にタイムを気にしているイメージはないのに、走り終わったあとにラップタイムを確認すると、もはや気持ち悪いほどに正確だ。


 けれど、指導者として優秀でも、ペースメーカーとして頼もしくとも、大きな戦力だという証明にはならない。そんなに甘い世界ならば、陸上界は『トップランナー』で溢れ返っているだろう。

 落胆を飲み込んで、蒼は呟いた。


「うーん。まあ、フォームが美しいから速いとは限らないけど……」

「いや、久蓮さんは絶対速いよ」

「なんでそう思う?」

「呼吸がね、ちがうんだよ。おれはもう『ゼイゼイ』ってかんじなのに、久蓮さんはなんていうか、いつでもすっごく静か」


 久蓮をすっかり尊敬して熱弁する翔太に、一歩引く。けれど翔太の言う通りならば、どうして久蓮は出し惜しみをしているのだろうか。


「お疲れ、おふたりさん」


 首を捻っていると、真平に声をかけられた。久蓮の後輩だった彼なら、知っているのだろうか。


「あの、岩本先輩。篠崎さんって、速いんですか……?」


 目を丸くして「知らないのか⁉」と聞き返す真平は、宇宙人でも見るような目つきだ。

 蒼は皆のことを全く知らない。もちろん久蓮のことも。いままで蒼の世界は、『蒼がどう走るか』だけで出来ていた。それで十分だと思っていたし、誰も蒼の走りについてこられなかった。


「速いなんてもんじゃない、当たり前だ! 自己ベストは大学生だって凌ぐ十三分二十一秒。君が三年のときインハイ五千メートルのチャンピオンだったのはボクも知ってるけど、久蓮さんは一年から三年までずっとそうだ。それがどれだけ凄いか、君のほうがよく分かるんじゃないか?」


 十三分二十一秒。学生陸上界にもごく稀な、とんでもない記録だ。それも一度きりではなく、三年間頂点に立ち続けるとは。ある程度身体ができているとはいえ、高校生ではまだまだ学年の壁は高いのに。


「『勝つ』と言ったら、久蓮さんは勝つ。でも、ボクはそれが嫌でここまで追いかけてきた。今度こそ役に立つんだ。だから、ボクは君に負けない」


 当然、「はい、そうですか」と引き下がる気はなかった。



 迎えた翌日。来週に迫った北海道インカレの選手選考のため、タイムトライアルが行われる。

 翔太がこっそりと問いかけてきた。


「あお~。『タイムトライアル』ってなんなの?」

「うーん、そうだな。『プチ記録会』かな?」


 あまりいい例えは浮かばなかったが、要するに、ペースを設定せず純粋に一本で記録を出す練習だ。「なるほど! わかった、頑張ればいいのか!」とひとり闘志を燃やす翔太には、伝わったか怪しいが。


 スターターピストルの乾いた音がグラウンドを揺らして、蒼も参加する五千メートルがはじまった。千メートル通過は二分五十秒と、飛び出したまま果敢に攻めのペースを刻む真平に、蒼はピタリと張りついた。勝負どころを探して、真平の息づかいに意識を集中する。


 三千メートルを過ぎたころ。ちらりと蒼に視線を投げた真平がロングスパートをかけた。圧倒的なスピードはない真平のこと、持久戦が強みのようだ。ピッチが上がって、ぐっと差が開く。蒼も負けじとギアを切り替えた。ストライドが伸び、ぐんとペースが上がった。

 風を切る感覚が心地よい。熱い闘志をぶつけられて、自然拳に力が入る。巻き上げる土煙が、一層心を躍らせた。


「やるな! けど、それじゃ足りないぞ!」


 小さい身体が躍動し、ペースがさらに上がる。景色が遠く流れる熱い競り合いの最中(さなか)、ドクリ、と心臓が高鳴った。

 あっという間の五千メートル。激しい鍔迫り合いは、辛くも真平の勝利で幕を閉じた。

 ゴールラインに飛び込んで、脇の芝生に倒れ込む。荒い呼吸を零す二人を見て、久蓮が満足げに頷いていた。

 

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