五十.そして季節は巡る
大学生活の思い出は、あの日からはじまった。雪が深々と降りつもる真っ白なあの日。出会った青銀の軌跡は、ゆくべき道を照らし続けた。いつまでも、いつまでも──。
しとしとと世界を濡らし続けた梅雨の晴れ間。美しいコバルトブルーの空は、金糸のような陽光を注いでいた。水溜まりだろうか。如月蒼は、眩しい光に目を細めた。
つ、と頬に汗が流れた。本格的な暑さはこれからのはずが、いまの横浜で蒸し暑さを感じてしまうとは。この二年で北海道の環境に染まったということか。
迎えた日本選手権。ここ日産スタジアムは、多くの選手と観客たちで賑わっていた。
「あお! 緊張してるー?」
「当たり前だろ……」
相変わらず底抜けに明るい翔太の声に、蒼は恨めしく応じた。日本最高峰の男子一万メートルを控えて、緊張しないはずがない。そして、それよりも──。
「そーんなこと言って! 緊張してるのはレースにじゃないんだろ」
「『会える』のは、本当に久々だもんな」
ニヤニヤと蒼の肩を叩く真平に、感慨深く頷く裕也。からかってくる先輩たちに図星を突かれ、蒼は視線をそらして黙り込んだ。
「もう泣くなよ、蒼!」
「泣きませんっ!」
黒歴史だ。
本当に、先輩たちは変わらない。そういう自分も人のことは言えないけれど。
あの輝かしい年から二年が経ち、範昭たちは卒業してしまった。麻矢は医学部五年生として実習に飛び回り、大介は大学院に進んで忙しくしている。だから、こうして『当時』のメンバーが集まるのは、本当に久々だ。
あの駅伝後、本当に色々あった。無茶なレースを繰り返した久蓮の足は、取り返しのつかないほどに悪くなっていて、一時は皆もうダメだと諦めかけたほどだ。それでも、哲人や深松、蓮介たちの力添えもあり、久蓮は怪我を治すためにドイツへと渡った。
蒼はといえば、相変わらず極北の地で研鑽を積む日々だ。翔太、那須、晃たちと鎬を削りながら、今年のインカレでは男子五千メートルの三連覇、一万メートルとの二冠を狙っている。
「よお、お前ら。……間に合ったみたいだな」
懐かしい声に、蒼は振り返って笑った。立っていたのは、あのときより少し大人びた範昭だ。わらわらと集まる部員たちの雰囲気も自然、あのときにたち戻る。
「ノリ先輩! お久しぶりです!」
「ムーン、どうですか?」
「ああ、悪くねぇ。──忙しいが」
昨年ムーンベルクに就職した範昭は、営業としてバリバリ働いているそうだ。
「ついに今年から、同じ会社ですね」
「……。あいつの創ったモンも売るわけだな」
「へええ!」
「まだ走ってるんですよね?」
「まあ、ぼちぼちな」
大学卒業とともに現役を退いた範昭だが、まだ『走り』との縁は切れていない。蒼は笑顔を咲かせた。
「てか『あの人』、なんで来ねぇんだよ」
範昭は周りを見回して、舌打ちと共にそう零した。『あの人』、──昴はそのまま博士課程に進むかと思いきや、長野の蒼桜高校で理科教師をはじめた。今日は、顧問を務める陸上部の大会と被ってしまったとのこと。
「まあまあ。中継見てるそうじゃないですか。後で皆で電話してやりましょう!」
真平が範昭を宥める。懐かしい空気に、蒼はくすりと笑った。
「あー! あお、そろそろ行かないと! 召集だよ」
「ファイト! 如月くん」
「ああ」
翔太と瑠衣に背を押されて、蒼はベンチを離れた。背後からかけられる「行ってらっしゃい」の声に、蒼の心は弾む。
ついに。──ついにこの日がきた。
「蒼」
男子一万メートル、その召集所にて。懐かしい、懐かしい声が鼓膜を揺らした。振り返ると、そこには──。
「久蓮さん!」
そこには、かつてと変わらぬ輝きをもって立つ『彼』の姿があった。さらりと風に流れた濡羽色、懐かしくも見慣れた黒曜石が、きらりと煌めく。
「お待たせ、蒼」
「はい!」
柔らかい笑みと共に告げられた短い言葉に、蒼は満面の笑みで応えた。
『日本中が待ちわびた! 至宝 篠崎久蓮、復帰レース!』
リポーターの実況をBGMに、スタートラインに進み出た。ようやく、こうして同じ土俵に上がり、並び立つことができる。何度この瞬間を夢見たか分からない。それほどに、ただ──。
「行きましょう」
「──ん」
風が頬を撫で、煌めく焔がちらりと揺れた。
あの日、たった独り、降り積もる白に青銀の軌跡を残していた彼はもういない。それをただ、羨望と共に見詰めていた『彼』も、もういない。
コールがかかり、新たな物語の嚆矢とも言うべき高らかな音が、青空に響いた。




