四十九.夢の続き
駆け込んだ伊勢神宮は、多くの人でごった返している。沸き上がる熱気は、映像で見るよりも大きなうねりとなって蒼に迫ってきた。
歩き回ること少し、蒼は視界に映った鉄紺へと駆け寄った。集まっているのは昴、塩谷と真平、唯、佑介だ。そこに、ムーンベルクの蓮介と深松、暮井が混ざっていた。
「お疲れさまです! あれ、せんぱいたち、早いですねー?」
翔太と、やや息を切らした峰雄が駆けてきた。急いで来たのに、と首をかしげる翔太に、半目の深松が昴と塩谷を指して言った。
「こいつらが特別早いんだよ」
「大体昴のおかげだぞ。というか、『タクシー一択です』とか言って迷いなく乗り込んで、運転手に道の指示まで出していた。何者だ? と言いたくなったんだが……」
「一時間は違ってくるんですから、一択でしょう。久蓮のゴールに間に合わなくなる」
塩屋の文句にも、対する昴はどこ吹く風だ。
「……この調子だ」
塩谷がげんなりと肩を落とした。
『第二中継車です! ただいま二キロを通過するところ、極北大学 篠崎久蓮、銘華大 ジュリアス、帝都体育大 アンソニーをあっさりとかわしました! 振り返りもせず、さらに前を追って駆け抜けていきます、まさに圧巻! 無敗の帝王、ここに復活ーっ!』
『さすが無敗の帝王、なのかな。でも……』
鼓膜を揺らしたのは、邨山アナの興奮した実況。そして、感心したような朝比奈の言葉。けれど、最後の呟きはどこか不安に揺れて消えた。
「久蓮、さん……?」
画面内の久蓮は、いつもの流れるようなフォームで快走を続けている。相変わらず、息をのむほど美しい。けれど、サングラスの奥に隠れた表情は、どこか強張っている気がした。
「無敗の帝王の帰還……な」
邨山アナの言葉を信じていない様子の暮井に、蒼の不安が膨れ上がる。
「オイオイ……大丈夫か?」
「ああ、無茶苦茶な飛ばし方はいつも通り……っちゃそうだけどな」
「ありゃあ、全く冷静じゃねぇだろ……」
蓮介と深松が小声で言葉を交わしている。少なくとも久蓮の走りには、曇りも翳りも見当たらない。恐ろしいペースで疾走を続ける久蓮を、蒼は祈るように見つめた。
「お疲れ様です! 凄いことになってますね」
裕也と大介が戻ってきた。疲労の色を滲ませながら、瞳を輝かせている。
久蓮は現在八キロ過ぎ。『先頭との差はもう一分半ない』と瑠衣から情報が届いたけれど、蒼は手放しで喜べない。それは画面に映る久蓮の表情が、いつもの『走る喜び』を滲ませていないからだ。
「大丈夫なのか? 恐ろしいペースだが」
淡々とした夜の声に滲む心配は、あのハイペースゆえか、それとも──。
麻矢と夜も伊勢神宮へと到着し、これで残りは悠と範昭を残すのみ。百六.八キロに渡る極北大の勝負は、泣いても笑っても、あと九キロ余りだ。
『第二中継車、篠崎久蓮です! 十二キロを過ぎ、いまだそのペース衰えず! 先頭との差はもうわずか、この中継車からもその姿を視認することができます。これはもう、追いつくのは時間の問題でしょう!』
画面が切り替わった。映し出された久蓮の走りは、初めと全く変わらず、疲労のノイズすらもない。ぎりぎりまで周囲にその内面を悟らせない。本当に……相変わらずだ。
『駆け引きなんて、騙してなんぼ、でしょ』
「……だって、それは『ウソ』ってことでしょう? 久蓮さん!」
蒼は久蓮にこそ走ることを楽しんで欲しいのに、いまの久蓮は全く楽しそうではない。
「もう、追いつくな」
ぽつりと、深松が呟いた。
「三分半を十三キロ少しで、……ですか。こんな追い上げされたら恐ろしいですね」
夜が記録アプリに目を落としながら呟いた。深松が肩をすくめる。
「つっても、それを恐れるような奴らじゃねーだろ」
会場内に、ひときわ大きな歓声が響いた。そのどよめきは大きなうねりとなって、場内を飲み込んでいく。
『ただいま、十三キロ過ぎ! ついに……ついに、三分半がゼロとなりました! 極北大学四年生、篠崎久蓮! ついに先頭集団に並び立ちました! これで集団は青谷学院 鏑木、駒河大 眞田、帝北学園大 東城の四人、この八区もあと六キロを残すのみですが、勝負の行方はまだまだ分かりませんっ!』
神宮に響く、『篠崎久蓮』の快進撃。あまりに痛快なその光景に、集う観客、関係者の誰もが驚愕している。三人に追いついた久蓮は、そのまま彼らに並走し──。
「大丈夫。大丈夫だ。ここで一度休んで、それからが本番。……そうですよね、久蓮さん⁉」
自身のジャージが引っ張られる感覚に、蒼は振り返った。翔太が、蒼のジャージの裾を強く握り締めている。食い入るように画面を見つめるその瞳は揺れていた。
鏑木が久蓮になにかを告げ、次の瞬間勝負を仕掛けた。まるで皆がそのタイミングを知っていたかのように、綺麗に反応している。──久蓮以外は。
「久蓮!」
昴の叫びが、蒼の鼓膜を貫いた。
鏑木の仕掛けに半拍遅れた久蓮は、それでもかろうじて集団についている。歪んだ表情が痛々しい。久蓮がそれを表に出すのは、いつもいつも、ギリギリの我慢が限界を超えたそのときだ。
突然、久蓮の瞳から色が抜け落ちた。そこに残るのは、絶望というただ一色。
「駄目だ、久蓮! 違う、っ、──駄目だっ!」
理解が及ぶよりも先に、聞いたこともない声色の昴の叫びが響いた。混乱の中、蒼が理解できたことは、ただ一つ。
久蓮が、折れた。
「落ち着け、馬鹿」
「うッ」
今にも飛び出していきそうな昴の頭に、深松が容赦なく拳骨を喰らわせて、「ごちん☆」といい音が辺りに響く。あまりのことに、一同は毒気を抜かれて目を見開いた。
「ふかまつ、さん」
「目ぇ醒めたか? お前がそんなんで、どうすんだよ」
「……すみ、ません」
「ふっ、あははは!」
酷く明るい笑い声が、焦燥を切り裂いて響いた。驚いて振り向くと、悠が立っていた。
「う~わ、珍しいモン見てもーたわ」
悠は興味深げに、昴の顔を覗き込んだ。見開かれた鋭い瞳から逃げるように、昴が目を逸らす。そんな仕草にすら、悠は笑みを深めた。
「さすが、ニューパートナー……っちゅうことなんやろか? ようやく解ったで、範昭クン」
悠は呟くと、蓮介とちらりと視線を交わし、中継画面へと視線を向けた。蒼もつられて視線をやる。色を失くした久蓮が、集団から五メートルほど後ろを苦しそうに走っていた。
もう駄目なのか。蒼が画面を見つめ、詮無い後悔に襲われたそのとき。よく見知った鉄紺のジャージが画面に飛び込んできた。
「──え!」
「ノリ先輩⁉」
我らが副主将 清野範昭が、沿道に立っていた。範昭は必死な表情で、走る久蓮になにかを叫んだ。
瞬間、久蓮が驚いたように目を見開いて、範昭のいた先を振り返る。
「見たか? あいつ、今何か叫んだぜ?」
「ああ。──お前よりよっぽど冷静なんじゃねーの、昴?」
「返す言葉もありません……」
蓮介と深松、昴の言葉が、蒼の頭の上を滑っていく。目が、離せなかった。
画面の中の久蓮は瞳を閉じ俯いて、何事かを呟いた。深く息を吐いたのが、ここからでも判った。次の瞬間、久蓮は瞳を開いて、口許に笑みを浮かべた。その瞳に輝くのは──。
「ホラ、見ろよ。──目つきが変わったぜ」
深松の呟きが蒼の鼓膜を揺らしたのと同時に、──世界が一変した。
地面を強く蹴り飛ばして、久蓮の痩躯が躍動した。一瞬前とはがらりと変わったフォームは、力強く目映く、見る者を魅了する。まさに『帝王』の名に相応しい、気高い走りだ。
実況の声が興奮したようになにかを叫んでいるが、蒼の脳は、それを意味のある音として認識してくれなかった。目の前の光景だけが、蒼の意識の全てだ。
『──みててよ。これが、オレの総てだ』
「久蓮さん……」
蒼はただその名を呟いて、それきり言葉さえも忘れて画面を凝視した。瞬きすら惜しい。一瞬も、逃したくない。
久蓮はあっというまに、わずか前をいく集団に追いついた。久蓮が彼らに何事か声をかけると、呆れ交じりに、けれど歓喜に輝いた顔が並ぶ。熱い焔がぎらぎらと揺らめいてペースが上がった、そのとき──。
蒼の視界に光が、弾け飛んだ。視界を灼く目映い色彩だ。勢いよく迸るその光の奔流は、今まで見たどれよりも美しく、鮮烈だった。
「ええな~。あの子ら、化けるで~」
悠がぽつりと呟いた。
「全く……。目の毒だ」
佑介がため息交じりに返す。その通りだ。きっと、これ以上に貴重な経験など存在しない。
ふと、遠い瞳をした久蓮が、恍惚の表情を浮かべた。きっといま、彼はずっとずっと求め続けた景色に浸っている。
「どうしてそこに並び立つのが、僕じゃないんだろう?」
次は。次こそは、蒼が隣へいく。
先ほどまでの苦痛など幻であったかのように、久蓮は伸びやかに駆け抜けていく。風を切り裂き光を放つその姿を、蒼は必死に脳裏に焼き付けた。
ずっとずっと、この一瞬が続けばいいのに。
十九キロにも渡るレースを必死に駆けた彼らは、さすがに疲労の色濃い。そんな中、久蓮が三人になにかを告げたのを、蒼は見た。その唇が「覚えといて」と動いた、気がした。
「え……?」
ふ、と苦笑を零した久蓮は、瞬間一足飛びにギアを上げた。驚愕に染まった三人を一瞬で置き去りにして、『無敗の帝王』はその頂を駆ける。
「だって久蓮さん、それじゃ、まるで──」
唐突に肩を叩かれ、蒼は現実に引き戻された。
「さ、もう行け青年たち。最後にあいつの背を押すのはお前らだぜ」
「あの意地っ張りに教えてやれ。自分が極大に来た意味、──ってヤツをな」
深松と蓮介の言葉にハッとしたのは、蒼だけではなかった。ひらひらと手を振る二人に見送られ、極北大の面々はゴール地点へ駆け出した。
フィニッシュ地点に辿り着いた面々を出迎えたのは、大きくそびえる松の木と、多くの関係者と報道陣だ。大きな何台ものカメラを向けられて、けれど、それにたじろいだのはほんの一瞬だけ。皆の意識はすぐに、モニターに大きく映し出される主将の姿に釘付けになった。
もうすぐ近く、いつ姿が見えてもおかしくない。
「凄い、ほんとうにすごい!」
「俺たちが、本当に優勝できるのか⁉」
「主将、あと少し!」
皆が、口々に驚き交じりの呟きを落としている。この現実を信じ切れていない響きだ。無理もない。北の果てでひっそりと走り続けていた部員たちの中で、その路の先にこんな栄光を想像していた者など、一人もいない。ただ一人──久蓮を除いては。
久蓮が、極北大をここまでのチームに引っ張り上げた。初めの動機は何であれ、いくつかの運命の悪戯が働いたとはいえ。総ては、久蓮が極北の地に降り立ったとき動き出した。
『蒼。……頂点ってのは、孤独なんだよ。キミなら分かるだろ?』
光の抑えられた薄暗い部屋で聞いた久蓮の言葉が甦り、蒼はハッとした。
『スパートで相手を引き剥がして、最後にたった一人先頭を駆ける瞬間。オレはいつだって喪失感と寂寥感でいっぱいなんだ。最後の最後まで、ただひたすらに勝負を楽しんでいたい。篠崎久蓮ってランナーは、そんな人種なわけ』
あのときは、そんなものかと思った。ただ、感じかたの違いだと。──バカだ。
画面に映し出された久蓮は、ただ独り、たった独りで駆け続けている。疲労の色が濃く現れている開いた口、流れ続ける汗、乱れたリズム。どれも、見慣れた久蓮らしからぬ姿だ。
けれど、そんなことよりも、一瞬覗かせた虚しさが、その瞳に乗った喪失感と寂寥感が。蒼はただ辛かった。
残る距離は、もうわずか。もう、すぐそこに久蓮が──。
「っ、は、間に、合った……!」
突然、頼もしい声が割って入ってきた。声の主はすぐに判った。
「ノリ先輩!」
唖然とその名を呼ぶ。範昭は、先ほどまで八区のコース上にいたのだ。そこから、どうにかして、久蓮のゴールにまにあわせてきた。当の範昭は膝に手をついて、酷く息を切らしていた。それでも鋭い眼光は、画面の中の久蓮を刺し貫いて離さない。
「はあっ、……っ、声出せ、お前らーッ!」
範昭が叫んだ瞬間、沿道の声援がひときわ大きくなった。どよめきにも似たその喧騒の中、コースの先に待ち望んだ紺銀が現れた。久蓮だ。そう理解すると同時に、蒼は必死に声を張り上げていた。声なんて、枯れても潰れてもどうでも良い。ただ、久蓮に届いてさえくれれば、それで。
その走りは、見たことがないほど崩れている。それでも、あと少し。──あと少しだ。
「僕が、あなたのとなりを走る。これから、ずっと──!」
蒼がそう叫んだ瞬間、俯いていた久蓮が、ハッと顔を上げた。その瞳が、仲間の姿を映す。
風が、吹き抜けた。一切の音が消え去った静寂の中、柔らかな色彩が、きらりと揺れた。
──────
【第※※回 秩父宮賜杯 全日本大学駅伝対校選手権大会 】
優勝 極北大学
準優勝 青谷学院大学
三位 駒河大学
四位 帝北学園大学
五位 銘華大学
六位 帝都体育大学
……
──────
身体に走った衝撃に、蒼の世界に音が戻ってきた。会場が、どよめきに包まれている。十一月とは到底思えないほどの熱気と、湧き上がる興奮の渦に包まれたまま、蒼は走り終えた久蓮の身体を抱き止めた。
「久蓮さん!」
「っ、──皆……」
ゴールテープを切って皆のもとに飛び込んできた久蓮は、そのままずるりと頽れかけた。引き攣れた荒い呼吸が零れている。
「久蓮!」
「ノリちゃん……」
「……『答え』は、出たのかよ」
範昭が静かに問いかけると、久蓮は瞬間目を見開いて、──破顔した。それが、答えだった。
ふと、久蓮が蒼の背後に鋭く視線を投げた。振り返ると、哲人が立っていた。
「どう? 『虹』は見えた?」
「……あぁ」
哲人は観念したように両手を上げ、小さく肯定を零した。浮かべた苦笑は、どこか吹っ切れたようだった。
視線を蒼と皆に戻して、久蓮はきらきらと瞳を輝かせた。
「ここまでついてきてくれて、ありがとう。全部、皆のおかげだよ」
唐突に言葉を切って俯き、再び顔を上げた久蓮は不敵に笑んだ。
「ね、『夢の続き』が見えたでしょ」




